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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』6-6:常隆小野より佐竹・会津に進事

『政宗記』6-6:岩城常隆、小野から佐竹・会津に進んだこと

原文

同三月、常隆田村の小野より、佐竹・会津へ打出給へと進め給ふ、両大将此義にうなづき、五月廿八日に岩瀬の郡須賀川迄馬を出し、三家の相談にて、政宗領分田村へ働くべしと云へり。政宗是を聞給ひ、片倉景綱後より「田村へは、伊達・信夫・刈田・柴田の勢を、新地駒ヶ峯より直に遣すと云ども、今又猪苗代盛国予が味方となり、会津へ手切となる、かかる折柄、佐竹・会津より仙道へ打出ければ、彼是の為、我も二本松か扨は本宮へ馬を出さん、爾ば猪苗代への加勢には、伊達成実と汝を遣はさん、去程に、汝二本松へ廻り、其旨成実に云渡し、罷通れ」と宣ふ、是に依て手勢をば、猪苗代へ直に遣はし、我等斗廻けるとて、六月朔日の申の刻に、景綱立寄急ぎ二本松を罷通る故に、成実も人数を催し、其日に打立、其夜は荒井と云処に一宿して、二日には阿久ケ島迄参りけれども、俄かなれば、勢も続かず漸く待受、三日に猪苗代へ参り、小十郎は朔日阿久ケ島、二日には猪苗代へ著掛りけるに、弾正逆意の次第、須賀川へ聞へ、同三日に義広会津へ陣帰有て、四日には猪苗代へ働給ふと云。其旨景綱に成実告知せければ、昨日も働と申しけれども、偽なり、今日も其分ならんと申す。爾と云ども成実、会津猪苗代不案内なるに、かかる序でに見物せんと存、摺上へでければ景綱も跡より来る、爾るに猪苗代逆意に付て、境目の者ども二三百、摺上近所へ取出、引除ける空家どもを焼払ひ、働の様に候ひけるが、景綱と成実を見かけ、皆引上けるなり。夫より新橋引たる体、扨大寺辺の地形を見廻り、其日の午の刻に猪苗代へ罷りかへる。されば義広会津へ帰陣なりと、政宗聞給ひ、六月三日に、仙道安積の郡阿久ケ島迄馬を進め、評定の者どもを召て宣けるは、「義重・義広須賀川へ打出、常隆へ加はり田村に働くべしに候へども、已に猪苗代の一乱聞へ、義広帰陣、其に又義重・常隆会津へ加勢を越しける由、爾れば、猪苗代への警固に、成実・景綱ばかりを差向、明日に急事有んとき、永き弓矢恥ならん。さる程に、我も進んで一所となり、会津へ向はん」と宣ふ。評定の者ども「是は案の外なる仰せかな、先猪苗代への入口は中山とて田舎道三十里が程は山中にて、除口の全く成ざる大切所、扨猪苗代打入て城の南は、四十里四方の漫々たる湖有て、夫より摺上を越、新橋とて水の落口切所の川なり。又城の北は盤梯山と云大山なれば、何方を取ても切所なるに、況や御無勢と云ひ、鰐の淵へ入んと宣ふ、如何に御方を申す猪苗代と云ども、敵地の中へは御運の末なり」と申す。夫にて政宗「各思案を以て申す処を予が愚案を先立ん事、是又傍若無人にも有ん、左有んに取ては、成実・景綱に問合、何れの道にもなさん、さらば」とて、六月四日に阿久ケ島より、布施清左衛門と云歩立を、猪苗代へ使者に賜はり、仰の旨を景綱・成実承るに、「義広会津へ入馬の上、佐竹・岩城より加勢の由、左も有ときは、義重・常隆田村への働きも、無勢にてはいかで叶候べき、其義ならば、田村のことは心安し、然るに其表に両人計を差置、悪事の刻は是迄出たるかひもなく、軍を取ての瑕ならん、左有に於ては、其表へ移さん」とて御文にも其趣をのぶ。景綱「当所へ移給事、善悪の二つなれば、一大事に候、但し如何有べきぞ」と申す、成実「されば愚案ながらも、移給ふは云に及ばず、阿久ケ島に御坐も望に取ては手先過たり、其れをいかにと申すに、義重・常隆本宮迄働き給はば、我地を跡にし給ひては、然るべからず、唯願くは本宮に御坐て好るべく、増て是迄趣き給はば、返々も謂れなし」と申ければ、景綱二人友に延慮の旨、急ぎ帰り参りて申上べく、若や悪事もある事ならば、阿久ケ島へは三十里なれば、昼夜を嫌はず申上んとて、御請状を差渡し、清左衛門を相返しけり。かかりけるに、政宗阿久ケ島にて思はれけるは、成実・景綱も移し然るべしとは、よも申すまじと思ひ給ひ、清左衛門罷り帰りの中途へ、密かに人を出され、「汝此方へ来て人承るには、成実・景綱も急ぎ移り給ふべき事、待兼たりと申すべし、然らずば、手討にせん」とて待給へば、清左衛門罷り帰る。「扨両人は何と云ぞ」と尋ね給ふ、教の如く畏てぞ候ひける。其とき政宗「昔が今に至る迄武道慥なる兵は、同意と伝へたり、今思ひ当りて候、扨も心地よき挨拶かな。早打立ん」との給ふ。評定の者ども、「今日は日暮兵も散て候程に、明日卯の刻に立ち給ひては如何有ぞ」と申す。以の外気色替り、「夫兵なくとも打出事かたかるべきや、今夜一夜物を喰ざる事をば、我とともに堪忍せよ、然と云ども汝どもは、明日来れ早打立ん」と宣ふ。何れも是非を伺い兼、一度に立て仕度の由。去程に其夜の戌の刻に、猪苗代へ著給ふと聞へけり。偽りならんと申しければ、景綱実定にて御迎に出ると申す、扨はとて取物も取会えず、駒に策打進みければ、須賀川*1と云処にて出向奉り、六月四日の子の刻に、猪苗代の城に入給ふ。然る処に、盛国当十三歳の子を人質に、昨日三日に阿久ケ島へ差上けるを、同四日に召連、其夜に返し給へば、弾正申けるは、「子供二人の内、兄は我を背き今会津へ引除奉公成に、此子を返し給はる事、内外ともに有がたけれども、迚も小十郎へ預け置き、大森へ遣はさん、またも子供有事ならば、是に差添上べき物を、是非なき次第」と申上候事。

語句・地名など

摺上(すりあげ):福島県耶麻郡磐梯村更科磨上
新橋(にっぱし):日橋川。猪苗代湖より流れ出て阿賀川となる。この場合、橋に掛けた新橋を取り除いたことをさす。
大寺:磐梯村大寺
中山:安積郡熱海町中山
戌の刻:午後八時

現代語訳

天正17年3月、岩城常隆は、田村領の小野から、佐竹氏・会津蘆名氏へ出陣なさってくださいと進めていた。両大将はこれに同意し、5月28日に岩瀬郡須賀川まで出馬し、三家(蘆名・佐竹・二階堂)の相談によって、政宗の領地となっている田村領へ攻め入ろうと言った。
政宗はこのことをお聞きになり、片倉景綱にあとから「田村には、伊達・信夫・刈田・柴田の勢を、新地・駒ヶ嶺より直接に遣わすといっても、今猪苗代弾正盛国が私の味方となり、会津に対して手切れをすることになった。このような時期に、佐竹・会津から仙道へ出馬したならば、あちこちが大変になるため、私も二本松かもしくは本宮へ出馬しよう。ならば猪苗代のへの加勢には、伊達成実とおまえを使わそう。なのでおまえは二本松へ廻り、その旨を成実に伝えて、とおれ」とおっしゃった。
これに従って、手勢を猪苗代へ直に遣はし、私たちのみ廻っていたところお、6月1日の申の刻(午後4時頃)景綱が立ち寄り、急いで二本松を通ったため、成実も手勢を集めて、その日に出立した。その夜は荒井というところに一泊して、2日には安子ヶ島まで行ったのだが、急なことであったので、勢が続かず、しばらく待ち、3日に猪苗代へ行った。小十郎景綱は1日に安子ヶ島、2日には猪苗代到着しかかったときに、猪苗代弾正盛国が反逆した詳細が須賀川に伝わり、同6月3日に蘆名義広は会津へ帰り、4日に猪苗代へ戦闘なさると行った。成実がその旨を景綱に伝えたところ、昨日も戦が始まると言っていたけれども、嘘の情報であった。今日もそうではないかと言った。そうとは言っても、成実は、会津・猪苗代方面に詳しく知らなかったので、このついでに見物しようとも医、摺上原へ出たところ、景綱もあとからやって来た。
猪苗代盛国の寝返りに際して境目に詰めている者たちが2,300が摺上原近くへくりだし、空になった空き家を焼き払い、戦闘状態のようになったが、景綱と成実をみかけ、皆引き上げた。
それから日橋川の橋の無くなっている様子や、大寺あたりの地名を見廻り、その日の午の刻に猪苗代へ帰った。
さて蘆名義広が会津へ帰ったとお聞きになった政宗は、6月3日仙道安積郡安子ヶ島まで馬を進め、評定衆を呼んで次のように仰った。
「佐竹義重・蘆名義広が須賀川へ出て、岩城常隆と合流し、田村に戦闘を仕掛けようとしているけれども、猪苗代での騒動を聞いて、義広は会津へ帰陣した。それにまた義重・常隆が義広へ援軍を送る模様。ならば猪苗代への警固に成実と景綱ばかりを向かわせ、明日にでも急な事がおこったとき、私の武勇にとっての永い恥となるであろう。であるから、私も出馬し、一緒になって会津へ向かおう」とおっしゃった。
評定衆は「これは想定外のお言葉です、まず猪苗代への入り口は中山といって、田舎道30里ほど山の中にあり、退く道が全くない危険なところであります。また猪苗代に入ると、猪苗代城の南は、40里四方の広々と果てしない猪苗代湖があります。それから摺上原を越えても、日橋といって、水の落ちるところで、通行困難の川であります。また城の北は磐梯山という大きな山であり、どこをとっても通行困難の危険なところであるというのに、ましてや少人数でいくというと、鰐*2のいる淵に入ろうと仰る。いかに猪苗代が味方になるといっても、敵地の中へ行かれるなら運も尽きましょう」と言った。
それを聞いて政宗は「それぞれ考えがあって言うところに、私が愚かな案を通そうとするのは、これは非常に傍若無人な行為である。なので、成実・景綱に問合せ、どちらにしたらよいかを決めよう」といい、6月4日に布施清左衛門という徒立ちの者を、安子ヶ島より猪苗代への使者としてお送りなさった。
仰る旨を景綱・成実承ったとき、「義広が会津へ入馬した上、佐竹・岩城よりの援軍がくる様子である。若しそうなったときは義重・常隆の田村への先頭も、少数の兵では叶うことも難しいだろう。もしそうなるならば、田村のことは対して心配ではない。しかし仙道表に二人だけを差し置き、もし何か悪いことがおこったときには、これまで戦をしてきた甲斐もなく、軍に対しての瑕となるであろう。そのため、私も仙道表に出陣しよう」と、文章にもその主旨が記されていた。
景綱は「こちらへお越しになることは、良い面と悪い面があります。一大事であります。どうするべきでしょうか」と言った。
成実は「では私の意見では、お移りなるのはもちろん、安子ヶ島にいらっしゃることまで望むのは、やり過ぎである。それはどうしてかというと、義重・常隆が本宮まで戦闘しかけたならば、その地を後にするべきではないだろう。ただ本宮にいらっしゃればいい。ましてやここまでいらっしゃる必要は全くない」と言ったので、景綱も二人とも来なくて良いと言っていることを急ぎ帰って申し上げるべく、もし何か悪いことがあれば、安子ヶ島へは30里もあるので、御請状を渡し、清左衛門を昼夜を構わず返させた。
こうして、安子ヶ島で政宗が思ったのは、成実・景綱も、お越しくださるように、とは万が一にも言わないだろうとお思いに成り、清左衛門が帰っている途中の道に密かに人をお出しになり、「おまえが政宗の処に到着して、人に聞かれたときは、成実・景綱も急いでお移りなさるよう待ちかねております、というのだ。そうでないならば、手討ちにするぞ」と伝えた。
待っていると、清左衛門が帰ってきた。「さて二人はなんといっていたか」と政宗がお尋ねになったので、言われたとおり、畏まって言われたとおりに言った。政宗は「古来から今に至るまで、武道を理解している兵ならば、同意と言うだろう。今思い出した。なんと心地よい返答であろうか。早く出立しよう」と仰った。
評定衆は「今日は日も暮れ、兵ももう各所に散ったので、明日卯の刻(午前5時頃)出立してはどうでしょうか」と言った。そうすると、大変顔色が変わり、「その兵が居なくても、出発する方がいいいであろう。今夜一晩ものを食べないことぐらい、私と一緒に我慢せよ。しかしおぬし達は明日来ればいい。私は出発しよう」と仰った。そこにいただれも否定することができずに、一度に出発して仕度した。
その内、その夜の戌の刻(午後八時頃)に、猪苗代へお着きになると伝わってきた。嘘であろうといったところ、景綱は「本当のようなのでお迎えにでます」と仰った。なのでとるものもとりあえず、馬に鞭を打って進んだところ、須川というところで出迎え、6月4日の子の刻(夜12時半)ごろ猪苗代の城にお入りになった。
盛国が昨日3日に、安子ヶ島に13歳の子を人質にして送った子を、この4日連れてきており、其の夜にお返ししたところ、弾正は「子供二人のうち、兄は私に背き今は会津に退き、蘆名に従っていますが、この子をお返し下さったことは、真事にありがたいことであります。が、小十郎景綱のところに預けおいて、大森に遣わしましょう。もしまた子供が必要なときは、あらたに人質に献上するべきであるが、出来ないです」申し上げた。

感想

佐竹・蘆名の動きにしたがって、有機物のように動く戦況が記されています。成実は片倉景綱と一緒に、猪苗代近所を偵察しています。もちろん二人だけではないでしょうが、戦が起こりそうなところを結構気軽に乗り回しているのが面白いです。
そして蘆名義広が会津へ戻り、兵を出そうとしているのをしって、政宗は猪苗代へ出馬をしようとして、評定衆に止められるのを見越して、景綱・成実へどうしたらいいかと聞きます。景綱・成実は「来なくていい」と返事。なのですが(笑)、ここで面白いシーンが続きます。遣いに出された布施清左衛門は急いで帰る途中、何者か(笑)に「政宗の元に帰って、聞かれたら、二人が政宗を待ちかねていると言え」と言われます。
おそるおそる何者かの言うとおりに政宗に伝える清左衛門。ここ独眼竜政宗でも映像化されていましたが、ほんっと面白い(笑)。政宗は初めから出馬をきめていたのでしょうね。評定衆に何をいわれてももう行く気満々(笑)です。
逆に猪苗代近所にいる小十郎と成実は困惑(笑)。「嘘であろう」「本当みたいです」ってなんだこのコント(笑)。須川(酸川)で政宗を迎えます。
そして政宗は猪苗代盛国に人質として出された息子を返し、感謝されます。
摺上原合戦前夜のちょっと面白いやりとりの記事でした(笑)。

*1:須賀川ではなく、須川(酸川)の誤記か

*2:古語では鮫

『政宗記』6-5:宇田新地駒ヶ峯出城

『政宗記』6-5:宇多郡新地・駒ヶ嶺城の開城

原文

同五月、常隆は田村の小野に在陣、義胤も同内岩井沢と云所に御坐。相互の評定にて田村の中を働き給ふ。是に依て田村へ伊達よりの警固に、大条尾張・瀬上中務・郡摂津守三人、遣し給ふと云ども、義胤尚も働き給ふときこへ、政宗此隙に相馬領の新地・駒ヶ峯を取んとて俄に取立、伊達・信夫・刈田・柴田・伊具・名取の勢力を、五月十四日に大森へ呼給ひ、右に田村へ遣し給ふ。警固の物頭をば、今度新地・駒ヶ峯へ召連ん、扨其代には白石若狭・片倉景綱・伊達成実、三人を田村に入替、同十六日に、信夫の大森を打立、其日に金山の中島伊勢居城へ著く、人数を一日待給ひ、明十八日に駒ヶ峯へ押寄働き攻給へば、二三の曲輪破、本丸迄になりけれども、岸高ふして急には落城成り難し。先人数を少し引上給ふ。然る処に、城中より中島伊勢陣場へ矢文を以て「其方城内へ乗入なば直談せしめ、出城申事有んと」書。故に乗入べき事善悪の二つなれども、流石望の処を入ざれば、武士道も如何の由にて、乗込事の子細を尋んと云。爰に弟の中島大蔵是を聞て、兄同心に乗入んと申す。伊勢申けるに、「乗込悪事ならば、兄弟ともに空くならん事更に詮なき、去程に汝は是に留て、我等如何にもなりなば、其子細申上、予に一合戦成下せられ様に、其ときは汝真先掛候はば、今生・後生の思出ならん」と云。大蔵「宣ふ処は理なれども、兄一人乗込せ、某是に留つては末代迄の恥辱、名に付たる其疵は子孫迄も伝べければ、是非同心に」と申す。其にて伊勢「其方申処十分なり。然りと雖も、矢文の子細を御耳へ入れずして、乗入ける事如何なれば其身参り、其城内へ乗入、出城候はん事実正ならば、会図のために其小籏を城中に打立ん、其ときは敵懇望に究り、出城疑い無く思召置かれける様に申し上げるべく、此御挨拶承る迄暫は爰に留らん」と云、大蔵実もと思ひ、急ぎ本陣へぞ参りける。伊勢其間見合城内へ乗込て、「御望の伊勢にて候、子細は如何に」と尋ねければ、「別にあらず、頼入は唯命を遯は出城申さんがためなり」と云。さらばとて合図の小籏を差上ければ、政宗其夜は夜籠をし給ひ、明る寅の刻より責め玉ふべきに究まりけれども、其義に任、敵地へ伊勢人質と成て、城主藤崎治部同人数とともに、山中に掛て相馬へ引除けるを、伊勢同心して境目迄送り放除せけるは名誉の武略故、城は落居候なり。かかりける処に大蔵「兄に取ぬかれ面目失ふ」とて、兄弟討果さんと云。伊勢「滅亡に及ぶならば、流石兄弟とも空くならんが浅ましさに、一人此世に残さん為也、去とては降参なり」と、様々手を合せけれども承引無し。右の品々政宗聞給ひ、直の申立にて和睦をなす。一人弟を劬りければ、後は大蔵も跡に替らず、ねんごろなる事云に及ばず、惣じて中島伊勢宗徒の者にて、其古へ輝宗、右の駒ヶ峰へ馬を出され取詰給ふに、軍配を見て攻めるべしとて、常の者の体にて、如何にも忍び乗廻し給ふを、城中に目明し在て大将とみうけ、内の人数を掃出し取かかりける程に、輝宗已に討死在とみへけるを、伊勢手勢迄にて手槍を取て、敵中へ破て入輝宗へ入替其より守返し、要害の木戸口迄追込物別をなす。其とき伊勢鉄砲にて頤を打たれ、平癒の後其玉頤に止て、近頃七十に余り病死して、火葬のときとり出し、子共後の伊勢未持なり。其働の刻は政宗漸十二三歳にもや成給はん、然りと雖も、伊勢比類無き事、心に引くはへおはすとみへ、正月三日は伊達の嘉例にて野初也、此時に到りて家の上下万民、思々の戯道にて其日の供を申し、或は山鷹或抜雉子、一日に千余りの勝負、即野場の仮屋に於いて終夜祝ひ給へり、掛りけるに、三日の朝野へ取著給ふに、伊勢を召て「其昔駒ヶ峯にて、汝手柄の砌若年乍らも、褒美をとこそ思ひけれども、輝宗より御褒美の上は、幼少にて延慮の旨なり、爾るに、今朝其身を見付思出とて、差給へる祖父孫六の刀、だてなる拵を腰より抜出、諸人伺候にて賜はり、若きとき駒ヶ峯に於て、汝の働今是を差て思ひ出せ、我も三十余年の心懸を、今晴す」と宣へば、伊勢兎角の御請に兼ね及び、声を立唯泣より外は他事なくして、其場を退く。老後の運を開き、さりとては手柄なる珍敷拝領かなと、時の人々感じけり。是は伊達始終の物語。扨政宗其日は駒ヶ峯にて漸く日も暮遅かりければ、近所に野陣をし玉ひ、翌日新地へ働き給ふ。駒ヶ峯は相馬近所なれども、助も来ず。況や新地は、少なりとも相馬へ遠かりければ、助の人数一人も参らず。故に城主泉田甲斐、身命を助け給ひ出城仕度と申す。政宗承引し給ふ処に、未出城の人質をも取らぬ内、何とやしたるらん、城内より火事到来して味方の惣軍下知ともなく、一度に吶と押掛、或は斬殺し或は取散し、案の外なる落城なれば、甲斐からき命を遯れ出、夫より廻国聖と成て行方知れずに失にける。去程に、政宗両日休息し給ひ、翌日新地の海上へ亘理の浜より、猟師どもあつまり際限無く肴とも数知れず、彼海辺に磯山と云渚の所へ、亘理美濃守俄なれども仮屋を建、種々の馳走にて終日慰給ひ、其夜に金山に移られ、一日逗留有て駒ヶ峯をば黒木肥前、新地は美濃守、肥前跡丸森をば、高野壱岐に給はり、五月廿四日大森へかへり給ふ。されば、右にも申す、常隆・義胤、田村の内に御坐故、警固のため若狭・景綱・成実三人田村へ遺し、在城三春に在陣にて、右の両大将田村の内を働き給ふに、助合けれども別に替りたる事もなく、田村衆迄にて四方気遣はなきに、況や今度新地・駒ヶ峯へ呼給ふ刈田・柴田・伊達・信夫の軍兵を、直に三春へ遣し給へば、両大将何と働き給ふとも、田村の事は心安し。爾るに、会津の猪苗代弾正、忠を申合けれども、其刻は父子の間不和と成て程も延けり。其上四本の松・二本松惣じて安積筋の軍、思の儘に募りければ、此上会津へと思はれけれども、猪苗代へは山中の切所をへだて遠慮なれば、其中軍を先へ延んがため、唯今迄は其方此方としたまひけれども、今は早片平助右衛門忠致すを、阿久ケ島・高玉手に入玉ひ、猪苗代への通路に自由なるに、折節政宗宇田よりかへり、大森に御坐せば、「右より猪苗代への使三蔵軒を大森へ召連、仰の趣を承り、彼出家を遣はし武略をなさん、徒に爰にて日を送りさらに入らぬ事なり」と、白石宗直*1・片倉景綱・伊達成実、三人相談にて、いざとうさらばとて、五月二十六日に、三人とも田村を打立、小十郎は大森へ、若狭四本の松の小浜へ、成実は二本松へかへり、明廿七日に、大森へ参りければ、歓び給ふ事斜めならず。急ぎ猪苗代の武略の使遣はすべしと宣ふ故に、「右進しける政宗判形、聊他事有べからざる程に、急ぎ手切あれ」と景綱・成実同書にてつかはし、成実は二本松へまかり帰る。其後三蔵軒大森へかへり参りて、其返状を景綱に預け、弾正異変無く早手切なりと披露に及候事。

語句・地名など

岩井沢:田村郡路地村岩井沢
物頭(ものがしら):武家時代、弓組・鉄砲組などの長。足軽頭・同心頭の類。武頭(ぶがしら)。物頭役。足軽大将。
金山:宮城県伊具郡丸森町金山

現代語訳

天正17年5月、岩城常隆は田村領の小野に在陣し、相馬義胤も同じく田村領内の岩井沢というところに在陣した。お互いに相談して決め、田村領内へ戦闘をしかけなさった。これに合わせて、田村領へ伊達からの警固として、大條尾張宗直・瀬上中務景康・桑折摂津守政長の三人を遣わせなさったのだが、義胤はそれでもまだ活動しているとお聞きになったため、政宗はこの隙に相馬領である新地・駒ヶ嶺を取ろうと突然計画し、伊達・信夫・刈田・柴田・伊具・名取の勢力を5月14日に大森へおよびになり、前述の田村領にお遣わせになった。
その警固の侍大将たちを、今度は新地・駒ヶ嶺へ連れて行こうとされたため、その代わりに白石若狭宗実・片倉景綱・伊達成実の三人を田村にいれることになさった。5月16日に信夫郡の大森を出発され、その日に金山の中島伊勢宗求の居城へ到着し、一日軍勢が集まるのをお待ちになった。翌18日に駒ヶ嶺へ押し寄せ、お攻めになった。二つ三つの曲輪は落ち、本丸だけになったが、岩壁が高かったため、すぐには落城させることが難しかった。少し手勢を引き上げさせなさったところに、城の中から、中島伊勢宗求の陣場へ矢文を使い「あなたが城の内へ来て下さるならば、直接に相談し、開城いたしましょう」と書いてきた。
このため、中へ乗り込むことはメリットとデメリットがあったのだが、さすがに先方が望むことを受け入れなければ、武士道としてはずれるのではないかということで、何故乗り込まねばならないかを聞いてみようということになった。ここで、弟の中島大蔵信真は是を聞いて、兄と一緒に入城しようと言った。
兄の伊勢がいうには「もし乗り込んで悪い結果となったならば、兄弟二人とも死ぬことになったらさらに甲斐がない。だからおまえはここに留まって、私がどのようになったとしてもその詳細を申し上げ、予定通り合戦となったときにおまえは真っ先に攻めいれば、今世と来世の思い出となるであろう」と言った。
弟の大蔵は「仰ることは最もですが、兄一人を乗り込ませ、私がここに留まっては、末代までの恥辱であり、名についたその疵は子孫までも伝わることでありましょう。是非一緒に行かせてください」と言った。
それを聞いて伊勢は「おまえの言うことはもっともである。しかし、矢文の詳細をお伝えしていないから、入城することが判明したら、城の中に入り、開城することが事実であるならば、合図のために小旗を城の中に立てよう。そのときは敵の望み通りにし、開城が間違いなく行われるように(政宗に)申し上げるため、このお答えを承るまではここに留まろう」といったため、大蔵はなるほどと思い、急いで政宗の居る本陣へ参上した。
伊勢はその間を見て城の中に乗り込み、「お望みの伊勢でござる。詳細はなんであろうか」と聞いたところ、「とくにない。貴方の来るのを頼んだのは、ただ、命を逃してくれるのであれば開城するということを言いたいためである」と言った。
ではと、合図の小旗を上げたところ、政宗はその夜は夜を徹しての茶会を行い、明くる午前4時ごろから攻めようと決めていたのだが、そのため伊勢は敵地までの人質となって、城主である藤崎治部とその手勢とともに山中をかけて相馬へ引き上げた。伊勢はこれに同道して境目の地まで送り、その後解放されたのは、すぐれた計略であったため、城は落ち、開城することになった。
しかし大蔵は「兄に抜け駆けされ、面目を失った」と言って、兄弟を討ち果たそうと言った。伊勢は「もし滅亡になるのなら、流石に兄弟二人とも無くなることが残念で、一人でもこの世に遺すためにしたことである。許してくれ」とさまざまに手を合わせて謝ったが、大蔵は納得しなかった。
この事情を政宗はお聞きになり、直接の申し立てによって仲直りをさせた。ひとり弟をいたわったのだから、後は大蔵も以前と変わらず、仲良くしていたことはいうまでもない。
そもそも中島伊勢宗求は重臣であり、その昔、輝宗がこの駒ヶ嶺へ出陣して城を攻めていたときに、軍の様子を見て攻めようと、普段の格好でどのようにも忍び乗り回していたのだが、城の中に、見知った者がいて、輝宗を大将とみうけ、中から手勢を出し、攻めかかったため、輝宗はすでに討ち死にされたであろうと思われていたとき、伊勢は手勢だけを引き連れ、自ら槍を持ち、敵の中へはいって輝宗を助け出し、それから守って帰り、城の木戸口まで追い込み、休戦とした。
そのとき伊勢は鉄砲であごを討たれ、直ってからもその銃弾があごに残っており、最近七十余歳となって病死し、火葬するときに取り出して、のちに伊勢となった子どもの宗信はこれを今も持っているという。その戦闘があったとき、政宗はやっと12,3になった頃であっただろうか。だが、伊勢の比べる者のない手柄が心に強く残っていたと思われる。
正月の三日は伊達の新年の祝いとして、野始が行われるのだが、このときは家の家臣たち全てが思い思いのやり方でその日のお伴をし、或いは山の鷹、雉子を撃ち、一日に1000以上の獲物を取り、すぐにその場の仮屋において宴をし一日中お祝いするのがしきたりである。
そのとき、三日の朝、野へ到着したときに、伊勢をお呼びになり、「その昔、駒ヶ嶺にておまえが手柄を立てたとき、私は若年であったが、褒美をやりたいと思ったのだが、輝宗から褒美をいただいていたので、年少の自分が何かするのはおかしいと遠慮したのである。しかし、今日おまえの身を見つけ、思い出した」と言って、お指しになっていた、素晴らしい拵えの祖父孫六の刀を腰よりお抜きになり、みなが見ている前でお授けになった。「若いとき駒ヶ嶺においてのおまえの働きを是を見て思い出せ。私も30年以上気になっていたことを今晴らす」と仰った。伊勢はありえないほどのお申し出に我慢することができず、声を立て、泣くより他にすることがない様子となって、その場を退いた。
老いた後の運を開く、大変に手柄である珍しい拝領であるなあとそのときいた人々は非常に感動した。これは宗求のはじめからおわりまでの物語である。
さて政宗はその日は、だんだん日も暮れ、時間が遅くなったので、駒ヶ嶺近くで野陣をし、翌日新地へ戦闘を開始した。駒ヶ嶺は相馬の近くではあるが、援軍も来なかった。まして新地は、少しではあるが相馬から遠かったので、援軍は一人も来なかった。そのため城主泉田甲斐は命を助けるのと引き替えに開城したいと言った。政宗はそれで了承したのだが、まだ開城の為の人質をとっていなかった内に、なにがあったのであろう、城の内から火事が起こり、味方の惣軍は下知もない間に、一度にどっと押しかけ、或いは惨殺し、或いは取り散らし、想定外の落城となった。泉田甲斐は命からがら逃げ出し、それから諸国をめぐる僧となって、行方知れずになって居なくなった。
そのため政宗は二日ほどお休みになり、翌日亘理の浜から新地の海の上に漁師たちを集め、際限なく沢山の魚を捕った。この海辺に磯山という渚があり、亘理美濃守重宗は急なことではあったが、仮屋を建て、様々な馳走をして一日中お楽しみになった。
その夜に金山にお移りになり、一日逗留なさったあと、駒ヶ嶺を黒木肥前宗元、新地は亘理重宗にお与えになり、黒木肥前がいた丸森を高野壱岐親兼にお与えになり、5月24日に大森にお帰りになった。すると、前述のとおり、岩城常隆と相馬義胤が田村領にいたため、警固として白石若狭宗実・片倉景綱・伊達成実の三人を田村に遺し、三春の城に在陣させた。常隆と義胤は助け合っていたけれども別に変わったこともなく、田村衆のみでどこも心配はなかったため、今度新地・駒ヶ嶺へ呼んだ刈田・柴田・伊達・信夫の兵達を直接に三春へおつかわしになったので、常隆も義胤がどのように戦闘をしかけてこようとも、田村のことは心配ないとなった。
そのころ、会津の猪苗代弾正盛国が内応を申し合わせていたのだが、そのときは盛国親子の間が不和となり、延期となった。その上、塩松・二本松の安積筋の軍を思い通りに集めたので、この上会津へ攻めいろうと思われていたが、猪苗代へは山の中の険しいところがあるため、心配していたが、その中を軍を先に進めるためにそれまではそちらとこちらとしていたけれども、今はもう片平助右衛門親綱が寝返りしたため、安子ヶ島・高玉を手にいれなさり、猪苗代へ通ることが可能になったので、そのとき政宗は宇多郡から帰り、大森にいらっしゃった。
「これから猪苗代への使いの三蔵軒を大森へ召し連れ、仰ることをお聞きし、計略をしよう。いたずらにここで日を送るのは不要なことである」と宗実・景綱・成実が三人で相談し、いざさらばと、5月26日に、三人とも田村を出発し、小十郎景綱は大森へ、若狭宗実は塩松の小浜へ、成実は二本松へ帰った。翌27日に大森へ行ったところ、政宗は尋常でなくお喜びになった。
急いで猪苗代への計略の使いを送れと仰ったため、「渡した政宗の判形は他にささいな心配することは無いため、急いで手切れしてください」と景綱と成実が一緒に書状をしたため送り、成実は二本松へ帰った。
そのあと、三蔵軒が大森へ帰ってきて、その返信を景綱に預け、猪苗代弾正は間違いなくもう手切れしたと披露した。

感想

やや長いエントリですが、天正17年の5月、岩城常隆と相馬義胤の相馬領侵略について起こった出来事を大きく分けて三つ書いています。
一つは中島伊勢・大蔵兄弟の駒ヶ嶺攻略の際の手柄の話、二つ目は新地攻略の次第、三つ目は猪苗代弾正盛国への内応の計略についてです。
ここで面白いのは中島伊勢宗求の手柄についての話です。政宗が若い頃、手柄を立てた伊勢に褒美をやりたかったけれどもやれなくて、それをずっと気に掛けていたエピソードが書かれています。面白い! 「時の人々感じけり」とありますが、こう記している成実が実際感動したんだろうなあ…と思います(笑)。
あと戦の後、亘理重宗の仕切りで、新地の海で猟をさせ、それで馳走をしたことが書かれています。こういう戦の間のいろいろも面白いものです。
文中で「いざとうさらば」という言葉があるのですが、これは定型句なのかな…? はっきりわかりませんでした。能や狂言で出てくるかな…?
あと、正月嘉例である御野初(おのそめ)での拝領が書かれていますが、初陣で相馬を攻めたときから「30年以上」とあるので、これは時系列的に田村仕置しているときより、もう少し後のことなんだと思います。多分。それを成実が付け加えているんだと思います。
戦描写も面白いですが、その前後のいろいろな記述が面白い項です。

*1:宗実の誤りと思われる

『政宗記』6-4:阿久ケ島出城附高玉落城

『政宗記』6-4:阿久ケ島出城と高玉の落城

原文

同四月、片平助右衛門申合の手切に付て、政宗米沢より出られけるに、信夫の大森へ田舎道八十里なれども未痛給ひて、山中なれば乗物も相叶はず、日懸には成兼、二十二日には板屋と云処に一宿し給ひ、二十三日に大森の城へ着給ふ。是に依て同二十七日に、助右衛門を大森へ、成実召連目見へ相済故に、勢の参るを待給ひ五月三日に仙道の本宮迄馬を出され、四日には阿久ケ島へ働き要害を乗廻しみ給ひ、外構より取んとて攻給へば、町構より二三の曲輪破れにければ、先人数を引上休め給ふ。かかりけるに、城主阿久ケ島治部、成実処へ使者を遣はし訴訟致し、身命助り出城仕度と申す。其旨申ければ承引し給ひ、成実郎従遠藤駿河を、城内へ人質に遣す。爾る処に、内より出城の為とて、惣軍を相除られ下され候へと申すに付て、東の原へ除られ、成実計敵除口の近所に備へ、若や横合の為にとて、方々横目を十余人廻し給へり。去程に、治部は会津の猪苗代へぞ引除ける。爰に荒井杢之允と云誉の者あり、彼者高玉太郎左衛門妹聟にて、常は高玉にいたりけるが、阿久ケ島へ働給ふと聞て、朝には通路も自由なれは、助の為とて阿久ケ島へぞ籠りける。惣じて高玉太郎左衛門・阿久ケ島治部、元来二本松へ一味なる故、二本松は出城なれども、彼二ケ所は未会津へは内通して政宗へは敵となる。故に杢之允も二本松譜代にて、太郎左衛門に兄弟なり。されば此四巻目に記しける、石川弥兵衛名誉の者にて、杢之允と古傍輩也。爾るに、二本松出城の砌、弥兵衛をば成実召抱。扨杢之允は太郎左衛門に手寄て、高玉に居たりけるが、阿久ケ島出越に依て、杢之允高玉へかへりけるを、古の首尾なりとて、弥兵衛出向ひ中途迄送りければ、杢之允語りけるは、「我等は命を二つ持なり、其子細を申すに、今日の命は治部に出しけれども、其身弱生なれば、力及ばず、我身も生てかへる、明日は定て高玉を攻給はん、其時今一つの命をば兄の太郎衛門に出すべき、左も有ときは命二つ非ずや、如何様にも手並の程をば、旁へも明日みせん」とて行分れける由、かかりけるに、政宗其夜は東の原に野陣をし給ひ、五月五日に高玉へ働き給ふ。扨成実をば其日の先陣にと宣ひけれども、先に乗掛北南へ乗廻し軍配を見給ひ、「片平は忠節、阿久ケ島も出城、北の敵地は是迄なれば迚、此城を平攻にして隙を明くるべし」と宣ふ。是に依て、成実は北の方に備ふ。惣軍は南より東へ取廻してぞ陣を取。西の方は山続なれば態と明て攻給ふ。かくて城主太郎左衛門、其跡玉の井への草のとき、成実郎等志賀散三郎に、鉄砲にて腰を打折れ不行歩なれども、二三の曲輪の弱き処へ乗掛下知をなす。二三の曲輪破れにければ、本城へ引て入、子共両人女房ともに害し、夫より表へ飛で出門を開き、手槍を取て二三度ついては出けれども、御方本丸へ取付ければ、家内に引込亦働出、暫は戦と雖ども叶はず白砂にての討死なり。かかりける処に荒井杢之允、三の丸の成実攻口よりつひて出るを、羽田右馬介槍を合せけるに、杢之允は高所より右馬介頬当の鼻を突欠、身へは当たらず、耳の脇へを突出。右馬介は杢之允左の脇を突けれども、鎧の札よかりければ、身へは通らず槍を突折る。然と雖も味方大勢取込ける故、杢之允内へ引込、三の丸の役所へかへつて討死なるは、宵に弥兵衛との詞を違わず、哀れ剛の兵かなとて、人々惜む事尋常ならず。西の方へ明給へども、敵一人も落ちずして皆討死なり。五月五日の卯の刻に取付、辰の刻には高玉落城撫切にと宣ふ。又哀れなりし事どもにや。太郎左衛門妻子を害するとき、生年三歳の娘を乳母、我にたべともらひければ、女なるに助けてみよとて、乳母に出す。是を取背負出ければ、御方乱妨をせんとて引連けるを、本陣の小人ども、彼娘をうばひ取て斬けれども閙敷折柄なれば浅手なりしを、乳母の上にころびかかり下へ敷、惣軍引上ける後、起てみれば手も浅し。扨此娘は高倉近江亦姪なれば、高倉へ田舎道十里なるを、乳母抱て参り助け給へと申す。流石に近江も気遣して、片倉景綱に其旨申しけるは、「一度斬給ふ者を、又とは有るまじき事也、幼少と云女と申、若御穿鑿にも候はば、御前をば某相心得べし」との所耳にて助るなり。彼娘後聞ば、成人して蒲生氏郷の家臣蒲生源左衛門二男同盟源兵衛妻女になり、子女両人出ける由承て候。爾して政宗五日の夜は本宮迄引込給ひ、六日には大森へかへり給ふ事。

語句・地名など

阿久ケ島=安子ヶ島(あこがしま)
板屋(いたや):米沢市板谷
卯の刻:午前六時
辰の刻:午前八時
たべ:たまえ
所耳(うけかひ):承諾すること

現代語訳

天正17年4月、片平助右衛門親綱の約束していた手切に合わせて、政宗は米沢から出馬なさったのだが、信夫の大森へは田舎道80里の距離であるけれども、いまだ足の骨折の痛みがあって、山の中なので乗物に乗ることも叶わず、一日でいくことはできず、22日には板屋というところで一泊し、23日に大森の城にお着きになった。
このため4月27日に、成実が助右衛門親綱を大森へ連れてきて、内応のことが終了したため、各将の到着をお待ちになり、5月3日に仙道の本宮まで出馬し、4日には阿久ケ島へ出陣し、要害の周りを乗り回して御覧になり、外構えから攻めようとしてお攻めになると、町構えの府おから2,3の曲輪が破れたため、まず手勢を引き上げさせ、お休みになった。
このときに阿久ケ島城阿久ケ島治部は成実のところへ使者を使わし、訴えを起こし、命と引き替えに城を出て明け渡したいという。その旨を政宗に言ったところ、政宗が納得したので、成実の家臣のうち遠藤駿河を城の中へ人質として遣わす。
そうしているところに、中から出城のためとして、全ての軍を退去させよと言ったところ、東の原へ退去し、成実の手勢ばかりが敵の退去口の近くに備え、もしや側面から逃げる者が居ないかどうか監視するためにそれぞれ見張りを十数人おつけになった。そのため阿久ケ島治部は会津の猪苗代へ引き上げた。
この中に荒井杢之允という軍功多き者がいた。かれは高玉太郎左衛門の妹聟で、普段は高玉に居たものだったのだが、阿久ケ島が攻められると聞いて、朝であれば通路も自由であるので、援軍として阿久ケ島に籠もっていた。
そもそも高玉太郎左衛門・阿久ケ島治部、もともと二本松と同盟していたため、二本松は陥落したけれども、この二カ所はまだ会津へ味方しており、政宗に対しては敵対していた。そのため荒井杢之允も二本松に代々仕えており、太郎左衛門と兄弟であった。さてこの四巻目に記した、石川弥兵衛も誉の者が杢之允の古い同僚であった。二本松あけわたしのとき、この弥兵衛を成実は召し抱えた。しかし杢之允は太郎左衛門をたよって高玉にいたのだが、阿久ケ島開城にあわせて、杢之允が高玉に帰ったことを、昔のよしみであると弥兵衛が出向き、途中まで送ったところ、杢之允は弥兵衛にこう語った。
「私は命を二つ持っている。それはどうしてかというと、今日の命は治部に捧げたけれども、その身は弱く、力及ばず、私は行きて帰った。明日は必ず高玉をお攻めになるだろう。そのときもう一つの命は兄の太郎左衛門のために使おうと思っている。その時は命はもう二つはありません。どのようにでも我々の技量を皆様方に明日おみせしよう」杢之允はこのように語り、二人はわかれた。
政宗はその夜東の原に野陣をなされ、5月5日に高玉へ出馬なされた。さて成実にその日の先陣にと仰ったのだけれども、まず馬に乗り、北南の方を乗り回したあと、軍の配分を御覧になり、「片平親綱は内応、阿久ケ島も開城、北の敵地はこれまでであるので、この城を一気に攻め上げ、隙を明けよう」と仰った。
このため成実は北の方に陣を惹いた。惣軍は南から東へうつり、陣をしいた。西の方は山津月なので、わざとあけてお攻めになった。
こうして城主高玉太郎左衛門、その前に、玉野井への草調議のとき、成実の家臣志賀山三郎の鉄砲で腰を撃たれ、歩くことが出来ずにいたが、2,3話の曲輪の弱いところへ乗りだし、命令を下した。2,3の曲輪が破れたところ、本丸へ引き上げ、子どもふたり、妻子と一緒に殺し、それから表へとんででて、門を開き、手槍を取って、2,3度責め帰したけれども、伊達の味方勢が本丸へ到着したので、家内に引き込み、また飛び出し、しばらくして戦といえども叶わず、白い砂の上での討ち死にであった。
そうこうしているうちに荒井杢之允は三の丸の成実が攻めていた入り口から出てくるのを、羽田右馬介が槍を合わせ戦ったところ、杢之允は高いところから右馬介の頬当ての鼻の部分をつつき身体へは当たらず、耳の脇へ飛び出た。右馬介は杢之允の左の脇をついたのだが、鎧の札がよかったため、身体へは届かず、槍を突き折った。
しかし伊達の味方勢が多く居たため、杢之允は城の内部へ戻り、三の丸の役所にもどって討ち死にした。そのさまは夜に弥兵衛と交わした言葉も合わせて、なんと哀れな剛のつわものだろうかと人々が惜しむことは尋常ではなかった。
西の方の入り口を開けておいたが、敵はひとりも脱出しようとせず、みな討ち死にした。5月5日の卯の刻に戦闘開始し、辰の刻には高玉を落城させ撫で切りにせよと仰る。
またなんと可哀想なことであろう。太郎左衛門が妻子を殺そうとするとき、3歳の娘を乳母が、「私にくださいませ」ともらったところ「女であるので助けてみよ」と言って乳母に渡した。乳母はこの子を背負い脱出したところ、味方が乱取りをしようとして引き連れていたら、本陣の身分低いものたちがこの娘を奪い取って、切ったのだけれども、騒がしいときだったので、浅手だったのを(とどめがさされていなかったのを)乳母が上に転びかかり、下へ敷いて隠した。総軍が引き挙げた後、起きてみると浅手であり、この娘は高倉近江義行の姪の子どもであったので、高倉城まで田舎道十里ほどの道を乳母はこの子を抱えて走り、助けてくれと申し上げた。さすがに近江もかくまって何があるかを心配して、片倉景綱にその旨をつげて相談すると、景綱は「一度斬った者をまた斬るというのはあり得ないことである。幼少であり、女児であると申し、もし政宗に細かく聞かれることがあれば、御前でのことは私がうまく取りはからう」との承諾をもらい、助かった。
あとで聞いたことだが、この娘は大きくなって蒲生氏郷の家臣蒲生源左衛門郷成の次男蒲生源兵衛郷舎の妻女となり、子どもが二人できたということを聞いた。
そして政宗は五日の夜は本宮まで退却し、六日に大森へ帰った。

感想

政宗の骨折のせいで長引いていた片平親綱の内応がやっとおわりました。親綱、ほっとしただろうなあ(笑)と思います。そして安子ヶ島・高玉城の攻略戦をえがいています。
特に内応を進めたが拒絶して見事に討ち死にした荒井杢之允への賛辞(みんなが…と言っているけれども、書き記す成実の杢之允へのリスペクトが見えます)。杢之允と羽田右馬介の戦いっぷりが格好いいです。
そして後半は前にも記事あげましたが、小十郎が子どもを助けた話です。
この時期でも小十郎は政宗を「若」呼びしてんだなあ…とにやにやしてみたり。

参考過去エントリ

以前に書きました、高玉合戦での小十郎の子ども救出についてのエントリはこちら。
http://sd-script.hateblo.jp/entry/2013/09/05/195158sd-script.hateblo.jp

2016夏塩竈松島大崎八幡亘理

今年あまりにも東北いけてないので、我慢ができなくなり、見たい講座に合わせて休みとって行ってきました! いつも同行してくださるTわしさんと一緒です!

初日

今回は塩竈に行ってみよう〜ということで、まず仙石線で塩竈神社へ。階段こええ。
塩竈神社に神馬を奉納した人のリスト。藩主はもちろん、留守さんに注目(≧∀≦)。

偶然お祭りをやっているのに遭遇しました。例祭だそうです。
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2時から流鏑馬をやるということで、再び上り、見てみました。でっかいでっかいお馬さん。すぐ目の前で見られたので感動でした! 武士って大変だ…。

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その後本堂が公開されはじめた松島瑞巌寺へ。今は参道や門を修理しています。
臥竜梅二つ。紅梅と白梅。


二日目

大崎八幡宮の講座、城・要害その他の城についての仙台学講座行ってきました。
テーマは「仙台城の支城-城・要害・所・在所-」というものでした。

その講座の中で、亘理城の門が移築されているところがあるということをお聞きしたので、またいつものところ(笑)にお参りしたあとでいってみました。

称名寺のシイノキ。ここも最近いつもの場所になりつつある…。宗実君好きの所為…。




亘理専念寺にある門は、亘理要害の詰めの門を、移したものなのだそうです。


あと、常因寺にも台所門というのがあったらしいのですが、震災が原因で2年前に壊したのだそうです。残念。

ではさらばっ又来ます!

『政宗記』6-3:大越紀伊守生害之事

『政宗記』6-3:大越紀伊守が殺されたこと

原文

同四月、常隆小野におはす中、大越紀伊守思ひけるは、「只今まで岩城を頼むと雖ども、小野・大越の抱岩城より未果しては成り難く、然らば、政宗へ背き末の身上大事に思ひ、伊達へ忠をなさん」とて、三春に本田孫兵衛と云、其子に孫一とて、紀伊守目をかけ近く召仕ふ者あり、折節彼手筋を以て月斎子共田村宮内方へ申けるは、「代々田村の親類なれども、不慮なる子細に依て、田村を背き、政宗公御心に障り奉る事悲みの至なり、去程に、忠を先だて御赦免ならば、偏に頼」と申す、是に依て宮内、白石若狭処へ、書状を以て「成実と御辺へ、中途に於いて参会上申度事あり」と云。故に若狭方より其文成実所へ遣し「此の如く候程に、田村の内白岩へ出向はん、但日限をば成実次第に、重て返答せんと申す、如何あらん」と云。さらばとて、四月七日*1と申合、白岩へ出合ければ、宮内申せられけるは、「紀伊守方より本田孫兵衛を使として、右の品々申遣はす、政宗公御承引に於いては今度岩城より、大越へ警固に車と竜子山と云、一騎当千の二頭を遣し給ふ。町に在陣成を、門沢より大越へは山続なれば、門沢の人数を大越の要害へ直に引入、未明に町へ押掛、彼二頭を討果す程ならば、本領御相違無き様にと申けれども、一度相馬へ傾き我等親子の首を睨まへ、今又ケ様なればとて、同心に及ばず共ケ様の事を御耳に入れずして、一身迄も差置ける事如何と存、旁へは此の如く」と物語なり。若狭「左様の義御為に目出度事也、其謂を申すに、御首を睨へける衆の今更頼申す事、且は御辺の御誉且は政宗の為なり、急ぎ米沢へ宣ひ爾るべし」と申す。そこにて宮内、紀伊守誤の事共を一宇語り、腹立なるを、若狭と成実様々に諫めければ、さらば我等共より申上よと理りなり、是に仍て青木不休と云ける者、田村に一年住居するが、其後伊達へ奉公なるを幸にて、彼不休を白岩より米沢へ差上、其趣を申ければ、政宗「大越事始より相馬へ傾き、田村の者共引付けるも、此者一人の采幣にて口惜けれども、岩城よりの二頭を討果す程ならば、流石の忠功なれば赦免をなして、本領相違有まじき」と宣ひ、判形差添遣し給ふ。則不休に持せて三春へ遣はす、是を宮内、孫兵衛に預け遣はしけるに、孫兵衛大越近所の門沢へ行て、大越へ人を遣し子共の孫市に、出向へと呼ければ、右の品々疾に岩城へ洩聞へ、孫市にも番を附置でける事相叶はず。爾して常隆よりの術に、三春へ草調義に遣すとて、北郷刑部と云者に人数を差添、大越の要害へ直に取込、「紀伊守には尋ぬるべき子細あり、在陣の小野へ参れ」と引立、小野にも置かずに岩城へ遣し生害し給ふ。如何なれば此事あらはれけるぞと尋ぬるに、伊達への忠のため田村宮内へ取遣しの返状を、紀伊守披見の上、懐中して内証にて落しけるを、妻女見付紀伊守恋慕*2の孫市文なる可しと心得、妻女弟の大越甲斐と云者に、其文出して見せければ、姉へは別義無き文なりとて、それを取て常隆へ上ける程に、紀伊守生害となる。故に甲斐其勧賞に大越をぞ賜はりける、弟忠の上は姉の妻女へも苦しからず、あまつさえ紀伊守子共を懐妊す。されば甲斐元来を申に、紀伊守親類被官なりしを、小舅に取立ければ、立身を望んで逆意を企て、男道の首尾を違ひ、浅間敷次第なりと、四方の批判は理りなり。かかりける所に、紀伊守弟に大越左衛門とて、清顕死去し給ふ以来、右にも申す田村の家区々なる時、義胤へ申寄相馬へ引除、平越と云在所に於いて所領を給はり居たりけるが、紀伊守妻女の許へ使者を以て、懐妊の子誕生ならば、兄の形見と云又存る旨のありければ、此方へ渡し給へとて、産月より岩城に人を付、其子生落未血にくるまりたるを抱参ると、一左右を聞て岩城と相馬の境なる、熊川と云処へ、左衛門出向自身抱上、嘆息云うに及ばず。爾して後囲繞かつかう尋常ならず。成人の後義胤へ申けるは「兄紀伊守不慮に相果、我惣領筋の絶ける事浅ましさに、懐妊の子を右の通りに取上けり、去程に只今迄奉公の賞に、其所領大越をば彼子に下され、実子には扶持切米にて召仕られなば、且は岩城への聞へ、且は故郷への響、何事か是に過候べき」と申す。義胤是を承引し給ひ、伯父左衛門所領五百石を請取、惣領式の跡目に立て、今大越権右衛門と云。扨も左衛門男道の行様は、甲斐とは各別違ひなり。爾して義胤武士の心操奇特の由宣ひ、左衛門子にも別に三百石賜はり、大越内記と名乗、左衛門をば後大越丹波と呼れし事。

語句・地名など

男道(おとこどう):男あるいは武士としてとるべき態度
熊川(くまかわ):福島県双葉郡大熊町熊川
区々(まちまち):それぞれに区切ってあること、それぞれに異なること
囲繞(いじょう):取り囲むこと/大切に守り育てる意(伊達史料集注)
かつかう(渇仰):あこがれ慕うこと

現代語訳

天正17年4月、岩城常隆が小野にいらっしゃる間、大越紀伊守は「いままでは岩城を頼りにして従っていたが、小野・大越の城は岩城から離れており、成りがたい。ならば政宗へ背いた後の身の上を大事に思い、伊達へ寝返ろう」と思った。
三春に本田孫兵衛という男がいた。その子の孫一(孫市)は紀伊守が寵愛し、近く仕えさせていた者であった。このとき、この関係を頼って田村月斎顕頼の子、田村宮内へ「代々田村の親類でありますが、思いがけない事情によって、田村に背くことになり、政宗公のお心に障ることとなったのは悲しみの至りでございます。なので、忠節を先立ててお許しいただけるのであれば、それをお願いいたします」と言った。
このため、田村宮内は白石若狭宗実のところへ書状を送り、「成実とあなた(宗実)へ途中に於いてお会いし、申し上げたいことがあります」と言った。そのため白石宗実のところから、その書状を成実のところへ送り、「このように言っているので、田村のなかの白岩へ出向きましょう。しかし、日は成実の都合に合わせるので、返事をください。どうでしょうか」と言ってきた。それでは、と四月七日(四月十七日)と約束し、白岩へ向かい、出会った。
田村宮内がいうところには「大越紀伊守から、本田孫兵衛を遣いとして、以上の事情を伝えてきた。政宗公がお許しくださるのなら、今度岩城から、大越の警固に車と竜子山という一騎当千の二頭が遣わされ、町に在陣しておりますが、門沢から大越へは山続きなので、門沢の手勢を大越の要害(城)へ直に引き入れ、未明に町へ押しかけ、この二頭を討ち果たすならば、本領安堵のことはお言葉違えなきようお願いいたします」と言った。「しかし、一度相馬へ味方しかけた私たち親子の首を睨み、いままたこのような様子ではと、同意することはできなくてもこの事をお耳にいれず、お味方することはどうかと思い、お二人にはこのように申し上げようと思ったのです」と語った。
白石若狭宗実は「そのようなことを政宗の為に申し上げることはいいことである。というのは、政宗の首を狙っている衆が今再び恭順しようとしていることは、或いはあなたのほまれであり、あるいは政宗の為でもあります。急いで米沢へお伝えになるのがいいでしょう」と言った。
そのとき田村宮内は大越紀伊守の誤りのことを全て語り、腹を立てていたのを、白石宗実と成実はいろいろと諫めた。それでは私たちから申し上げた方がいいと、田村に一年居住していたが、その後伊達に奉公していた青木不休というものがいたのを幸いとして、この不休を白岩から米沢へ送り、そのことをお伝えした。
政宗は「大越は初めから相馬へ味方し、田村の者たちを味方に付けていたのも、この者一人の采配であったため、口惜しかったが、岩城からの二頭を討ち果たすのであれば、さすがの忠義の功績であるので許して、間違いなく本領安堵してやろう」と仰り、印判を添えた書状をお送りなさった。
すぐに青木不休に持たせ三春へ遣わした。これを田村宮内が本田孫兵衛に預けつかわしたところ、孫兵衛は大越の近所の門沢へ行き、大越へ人を遣わし、子の孫市郎に出迎えろと呼びかけたところ、これらの事情がすばやく岩城方へばれてしまい、孫市にも番が付けられ、出向かうことが出来なくなった。
そして常隆は、三春へ草調義に遣わすからといって、北郷刑部という男に兵をつけ、大越の城へ直接入り込み、「大越紀伊守に尋ねたい事がある。常隆が在陣している小野へ来い」と引き立て、小野にもおかず、岩城へ遣わし、紀伊守を殺害なされた。
どうしてこのことが露見したかというと、伊達への忠節のため、田村宮内へ遣わした文の返事を、紀伊守が見た後、懷に隠しもっていたのを、こっそりおとしてしまい、妻女が見つけ、紀伊守が寵愛していた孫市からの文であると思って、妻女の弟の大越甲斐という者にその文を出して見せたのであった。
大越甲斐は姉へはたいしたことのない文であるといい、それを岩城常隆へ上申したため、紀伊守の殺害となった。その褒美として、大越甲斐は大越を賜った。弟の忠節のため、姉である大越紀伊の妻女へも対応は悪くなく、その上彼女は紀伊守の子を妊娠していた。
すると甲斐は元々は紀伊守の親類で被官したのを小舅にしたものであったのに、立身を望んで逆心を企て、武士のあるべき道から外れたことをし、なんと失望することだろうと周囲の批判があったが、それはもっともであった。
すると、紀伊守の弟に、大越左衛門という者がいた。田村清顕が死去して以来、田村の家の中がばらばらになっているときに、相馬義胤へ近づき、平越という所領を賜っていた者だったが、紀伊守の妻女のところへ使者を送り、懐妊の子が生まれたなら、兄の形見の子であるからといい、またその思うところがあるため、私の所へお渡しくださいと産み月から岩城に人をつけさせ、その子が生まれ落ち、いまだ血にくるまっているのを抱えると、初めの一報を聞いて、岩城と相馬の境にある、熊川というところへ左衛門自身が出向かい、抱き上げ、深く歎きため息をついたのは言うまでもなく当然のことであった。
そしてその後、大切に守り育てようと強く願う様子は尋常ではなかった。その子が成人したあと、相馬義胤へ「兄紀伊守の突然の死去の後、私どもの嫡流が途絶えることを残念に思い、妊娠していたこの子をこのように取り上げました。今までの奉公の褒美に、大越の所領をこの子に下さり、私の実子には切り米で召し使ってくださるのであれば、或いは岩城への聞こえ、或いは故郷への伝えとしても、これ以上よいことはございません」と申し上げた。
義胤はこれを承知なさり、伯父の左衛門の所領五百石を受け取り、惣領として跡継ぎに仕立てあげ、今は大越権右衛門と名乗っている。左衛門の武士としてあるべき生き様は、甲斐のそれとは全く違うものであった。義胤は武士の心持ちはこうあるべきであると仰り、左衛門の子にも別に三百石を与え、大越内記と名乗り、左衛門はその後大越丹波と呼ばれたそうである。

感想

大越紀伊守とその内応について、どのように大越一族の者が動き、どのようにその動きが周りから思われていたか、がよくわかる記事であります。とくに帰り忠が(実際よくあることであったにしろ)どのように認識されていたかがよくわかります。
大越紀伊は伊達への内応を画策していることがばれ、岩城常隆に殺されるわけですが、それを言いつけた義弟大越甲斐は非常に世間から批判され、兄の筋である形見の子を養育し、自分の子は傍流でいいと言った大越紀伊の弟左衛門は非常に賞められ、重ねて三百石を与えられたという事実は非常に興味深いことであります。
この記事を成実が書いていることも含め、左衛門の行為が男道(武士としてあるべき道)に従った行為として非常に褒められているのが興味深いです。
また、紀伊守のことが露見してしまうきっかけになった手紙を落としてしまった事件にしても、紀伊の男色相手である本田孫市に対して妻女の嫉妬らしい感情が見えているのも興味深い記述です。
左衛門が、妻女が妊娠していた子が生まれ落ち、未だ血にくるまっているのを抱えて連れ出させ、岩城と相馬の境で受け取る下りなどは、臨場感ある、まるで見てきたかのような成実の筆の真骨頂のように思います。
あとは怒っている田村宮内を諫める白石宗実と成実の図、というのも想像してみるととても面白い(笑)。
この書きぶりから見ると、成実的には大越甲斐の言動は許すまじで、左衛門のそれは非常に褒め称えるにたる行為であったのであろうなあ…と思われるところであります(笑)。
ところでこの記事でわからないのは「車と立子山という一騎当千の二頭」なんですが、これは…馬の名前ですかね? ちょっと分かりません。判明しましたら書き足します。

*1:『治家記録』は、『政宗記』のこの四月七日を、十七日の誤記であろうとし、その理由として岩城常隆の小野出馬が四月十五日であり、したがってその以後であるべきことを上げている。(『伊達史料集』注)

*2:大越紀伊守は本田孫市を寵愛していた

『政宗記』6-2:片平手切附岩城手切事

『政宗記』6-2:片平親綱の手切れと岩城の手切れ

原文

同三月、政宗宣ひけるは、「痛未だ十分には無れども、助右衛門申合の手切、程延ける事如何なれば、出ける事は叶はずとも、先手切せよ」と宣ふ。故に同十六日と申合、其旨米沢へ申ければ、助右衛門手切の次第岩城へ聞へ、「郡山にて対陣のとき、佐竹・会津へ今より以後、懇あれとこそ無事を扱ふ処に、程なく、政宗再乱は前代未聞の次第なり、爰は又此方より手を越処なり」とて、常隆田村へ向て手切をなし、同領小野と云処へ打出給ふ。彼地と大越の間に鹿俣と云、田村一味の処を近陣になして取詰給ふ。在城三春へ遠路なれば、助の人数も来ず。六七日は抱ひけれども、相叶はず、城内より訴訟に及び、出城して、田村の内へぞ引除ける。爾して後、常隆は右の小野に在陣し給ふ。かくして政宗此義を聞給ひ、田村への警固に、桑折治部・飯坂右近・瀬上中務を遣し給ふ。然りと雖も、未痛み給へば、出給ふ事をば延慮にて御坐す事。

語句・地名など

鹿俣(かんまた)

現代語訳

天正17年3月、政宗は「痛みはまだ十分にとれたわけではないけれども、片平親綱と約束した手切れがこれ以上伸びるのは良くないので、出陣することはできないが、まず手切れをせよ」と仰った。このため、3月16日に手切れと約束し、その旨を米沢へ伝えたところ、片平親綱の寝返りのことが岩城へ伝わってしまい、「郡山で対陣したとき、佐竹・会津へ今後懇ろにお願いすると言ったがために何事もなく扱っていたというのに、すぐに政宗によって乱されることは前代未聞の事である。ここはまた、こちらから手を加えるところである」と言い、岩城常隆は田村に向かって手切れをし、小野というところへ出られた。小野と大越の間に鹿俣という、田村に味方する城の側に陣を引き、城を攻めた。
田村の本城である三春へ遠かったため、援軍も来なかった。6,7日は籠城していたが、それ以上は叶わず、城内から訴えをおこない、城をでて田村領に引き下がった。
この後、岩城常隆はこの小野に在陣なさった。政宗はこれを聞き、田村への警固に桑折治部・飯坂右近宗泰・瀬上中務景康を遣わされた。しかし、未だ痛みがあったので、出陣は日延べとなった。

感想

この記事については、注に、

『治家記録』は『政宗記』のこの記事を「此段甚だ違えり」と評し、岩城常隆の小野出馬は四月十五日、片平親綱の事切は四月二十四日であり、常隆が最初から小野の地を略取することを計画し、事をしかけてきたのであると記している(『伊達史料集』による注)。

とあり、片平親綱のことと常隆の小野出馬は関係なかったとするのが正しいようです。
この頃の骨折の治療って添え木をあててひたすら待つことしか出来なかったようですが、政宗もその後不自由もなく綺麗にくっついてよかったですね。温泉のおかげでしょうか(温泉の湯を取り寄せて治療に使ったりしています)。