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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』3-8:月舟訴訟之事

『政宗記』3-8:黒川月舟斎の訴えのこと

原文

去程に伊達の二陣、上野・伊豆を始め、師山の南の畑に控へたりしが、先陣の者ども通り過して引付けんとて、先へ押通らんと進みけれども、切所の橋を引れ通りけること叶はず。あまつさへ桑折・師山両城の敵共、前後左右に押はさみ抱けるに、日も早暮かかりければ、尚も通ること叶はずして、却て二軍も其場を除かね、上野方より使者を以て、舅月舟晴氏の許へ、除させてたべと理はりければ、「御辺許り除たまへ」と云。重ねて上野「某一人争で通るべく候、此方の備一宇通し給はば引除ん、爾らざれば則討死せん」と云。かかりける処に、月舟伯父の八森相模と云者晴氏を進めけるは、「上野殿を始め一々討果し、軍の実否を付らるべし、其謂を如何にと云へば、大崎は所々区々なるに、政宗は大身と云ひ、一度敵となりては、伊達の軍兵助たりとて、二度取返し月舟身代果して立つべき見当なし、只詮ずる所は爰にて敵を討果し、好しかるべし」とすすめけれども、流石に聟を討兼て上野へ引添ける、伊達の勢をば残りなく、松山へこそ引せける。されば先陣の軍兵は、跡を切れて叶はざれば、凡ては五千人の人数なれども、小地の新沼へ籠城して已に饑渇に及ぶ故に、伊達より亦軍兵共を遣はし、籠城を引取んとは思はれけれども、伊達の軍兵一宇を遣はしたまへば、安積・仙道口を気遣給ひ、如何せんと思れける内、籠城の者ども師山を押通り、向ふ敵を切払ひ松山へ引ん、と云ふ評定の由、其にて永井月鑑、「桑折・師山両城を敵相抱、立はさみ難しと云も場好なれば、責めてのことなり、況や玉造の川を渡りしとき、跡先より押包まれ、手を空く討死せんこと必定なり」と申す。実にもとて思ひとどまるとかや。其時の玉造川は古川の町の中を流れ、師山へ落けるときなり、爾るを今北へ廻して此へ加へる。かかりける処に敵の方より鈴木伊賀・北郷左馬尉と云ひけん者両使、中途へ来て新沼へ使を遣はし、籠城の大谷・加沢と云両人を呼出し、泉田安芸と月鑑を人質に渡されなば、籠城の諸軍を出城させんと云、二人共城内へ先帰り月鑑・安芸に聞せければ、安芸郎等湯村源左衛門申けるは、「中々多勢斬て出て討死なるは案の内なり、然に諸軍を引せ後日に安芸一人搦め捕れ、首を刎られ死後迄の恥辱何ことか是に過候らはん、夫を安芸争か承引あるべき」と申す。月鑑「安芸殿は兎も角諸軍を助くれば政宗へ第一の忠なり、去程に我等は敵の手へ渡て急ぎ味方を引出さん」と云。又源左衛門「御辺の御底意、疾に推量申して候」とて以ての外の口論なるを、安芸「源左衛門申すこと無益なり、我は人には構はず、一人なりとも敵の手へ渡り諸軍を助けんこと悦なり」とて、其旨鈴木伊賀・北郷左馬尉に申し渡す。本より月鑑は渡るべきとのことなれば、二月二十三日に両人共に新沼の城を出て、大崎之蟻ヶ袋へ行向ひ人質となり、伊達の諸軍出城して御方の松山へぞ引除ける。故に浜田伊豆・小成田惣右衛門・山岸修理、米沢へ帰り参て軍の品々政宗へ申しければ、「見合もなく敵地へ余り深入して、態と越度を取けるなり。重ねては弾正に云合せ、桑折・師山二ケ所の城を攻取べし」と宣ひける事。

語句・地名など

蟻ヶ袋(ありがふくろ):宮城県志田郡三本木町蟻ヶ袋
切所(せっしょ):峠や山道などの要害の地。交通の要所に設けた防御用のとりで。また難所。
区々(くく/まちまち):まちまちでまとまりのないさま/取るに足りないさま
中々(なかなか):なまじっか/〜しない方がましだ
蟻ヶ袋(ありがぶくろ):宮城県志田郡三本木町蟻ヶ袋

現代語訳

そうこうしているうちに、伊達の二陣は、伊達上野と浜田伊豆をはじめとして師山の南の畑に控えていたのだが、先陣の者たちを通り過ごして引きつけようとして、先へ強引に押し通ろうと進んだのだが、難所である橋を落とされ、進むことはできなかった。その上、桑折・師山の両城の敵が、前後左右に押し挾まれ囲まれ、日もすでに暮れかかっており、なおも通ることが出来なかった。予想に反し、二軍ともその場を退く事が出来かね、伊達上野から舅月舟斎のもとへ「退かせてくれ」といったところ、「あなただけ通れ」と言った。上野は重ねて「どうして私一人で通ることができるでしょうか、私たちの備え全部通してくれるなら退きましょう、そうでないのなら、ここで討ち死にします」と言った。
月舟斎の伯父の八森相模という者が晴氏に「上野殿を始め全部討ち果たし、戦の勝ち負けをつけるべきです。それは何故かというと、大崎はところどころまとまりがないが、政宗は大きな家であり、一度敵となっては伊達の軍兵を助けたとしても、二度反逆した月舟斎の身代が立つ見込みはない。ただよく考えてみたところ、ここで敵を討ち果たすことがよいことでありましょう」と進めた。しかし、さすがに婿を打つことはできかねて、上野に付き従っていた伊達の軍兵をすべて松山へ退かせた。
すると、先陣の軍兵は後を追うことができず退くことができなかったので、およそ5000人の軍であったが、小さな城の新沼城へ籠城し、飢えと餓えに苦しんだ。
そのため伊達よりまた兵を使わし、籠城した兵たちを助けようと思ってはいたが、伊達の兵全てを使わしたところ、安積・仙道口のことを心配なさり、どうするべきかと思われていた内に、籠城の者たちが師山を通り、迎える敵を切り払い、松山へ退かないであろうかという相談のときに、長江月鑑斎は「桑折・師山両城を敵は抱えており、挟撃することは難しいといっても、場所はよいのだから、無理にすることである。ましてや、玉造の川を渡ったとき、前後から押し囲まれ、必ず簡単に討ち死にするようにきまっていることであります」と言った。本当にその通りであるとして、思いとどまったということである。
そのときの玉造川は古川の町の中を流れ、師山へ落ちていっていたころである。これを今北へまわして、これへ合流させようとしていた。
すると敵の方から鈴木伊賀・北郷左馬尉という名であったろう二人の使いが、途中まできて、新沼へ使いを送り、籠城している大谷・加沢という二人を呼び出し、泉田安芸と月鑑斎を人質に渡してもらえるならば、籠城している諸軍を城から出させましょうといった。二人とも城内へまず帰り、月鑑斎と泉田安芸に聞かせたところ、泉田安芸の家臣、湯村源左衛門が「なまじっか多勢を切って出て討ち死にするのは考えのうちである。しかし諸軍を引き上げさせ、のちに安芸ひとり縛り上げられ、首を刎ねられることは死後までの恥これ以上のことはないことである。それを安芸はどうして承引してくださらないのか」と言った。
月鑑斎は「安芸殿はともかく、諸軍を助ければ、政宗への一番の忠誠となるだろう。なので私は敵の方へ渡り、急いで味方を城から引き上げさせよう」と言った。
また源左衛門は「あなた様の下心は、既にわかっております」と言い、激しい口論になったところを、安芸が「源左衛門の言うことは無益である。私は人のことには構わず、一人であっても敵の手元に渡って、諸軍を助けることができるのは嬉しい」といって収め、その旨を鈴木伊賀・北郷左馬尉に言い渡した。
もとより月鑑斎は来るべきであると決まっていたことであったので、2月23日に、二人とも新沼の城を出て、大崎の蟻ヶ袋へ向かい、人質となり、伊達の諸軍は城を出て、味方である松山の方へ退却した。
そのため、浜田伊豆・小成田惣右衛門・山岸修理、米沢へ帰ってきて、戦の詳細を政宗に申し上げたところ、政宗は「きちんと予想もせず、敵地へ過剰へ深入りして、わざわざ失敗をしたのであろう。この次は弾正に言い合わせて、桑折・師山2ヶ所の城を攻め取れ」と仰せになった。

あけましておめでとうございます!

もう三が日はあっという間に過ぎ、明日は七種がゆですが、おくればせながらあけましておめでとうございます。
昨年は政宗生誕450年、ということは今年は成実生誕450年です。
なんらかのなにか(それはなんだ)が予定されているということなので、狙って北海道なり亘理なりに行ければいいなあと思っております。
昨年は年明けにちょろっと更新したっきりで、あとは旅日記くらいしかあげられなかったので、文字打ちや現代語訳をもっとあげていこうと思います。
すみません。
どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

2017秋仙台【大政宗展】

秋になって大政宗展が開かれています。
展覧会案内|仙台市博物館

前期と後期とで展示が分かれており、リストを見ると、結構成実宛書状などが入れ替わっていたので、展示が切り替わる10月30日の前後、29から31に行くことにしました。
生誕450年です。あと50年したら500年なわけですが、50年後に元気でいられる自信のある若人以外は本当見に行った方がいいですよ…。本当に素晴らしい展示でした。

一日目


ウエーイ! 着きました!


台風はギリギリ避けられましたが、雨の中市博に。


ネットupが許されている、千葉真弓先生の展示「虚実の皮膜に」。
成実ブルーっていいですよね。褐色!勝色!!(≧∀≦)

11時半頃に着いたのですが、結局3時過ぎまでいました。特別展だけでなく、常設展も普段見たことのない書状や記録が出ていたので、常設展にも寄って行かれることオススメします。


今回の旅の目的のひとつ、亘理あら浜のはらこ飯! 去年も亘理に行きましたが、四時間待ちという現実の前に夢やぶれたのですが、仙台店の方に行かせてもらいました。すっごく美味しかった!!

二日目


朝起きたらくっきりした虹が出ていました。こんなに綺麗に見えるの初めて見ました。


朝の爽やかな瑞鳳殿。


生誕450年おめでとうございます。今年明治150年だそうですが、それをあと二回繰り返したら政宗の誕生と同時期と思うと、日本や世界の歴史の中では意外に近いなあという不思議な感慨が。


風がびゅんびゅんふいておりましたが、仙台城跡へ。


武将隊の成実さんと綱元さんがおられたので、写真をお願いしました。
空が青すぎて綺麗。武将隊成実さんは美声でした…。


その後、大崎八幡宮へ。空が青すぎて。



るーぷる仙台の一日乗車券。両方いただきました。赤いのは地下鉄で、青いのはるーぷるで買えます。


フォロワーさんに教えていただいたのですが、ドーナツまでも政宗仕様。
(仙台駅内のお店です。前にイーグルスショップがあったあたりの前)

三日目


再び仙台市博へ。後期展を見てきました。
吉野懐紙、義姫宛書状、家康胴服、成実関係ものでは、慶長7年12月晦日書状(亘理拝領のときのもの)、亘理要害絵図など30個ぐらいが入れ替わっていたようです。


その後、同行の方も私も行ってなかった岩出山(正しくは有備館)に。政宗と宗泰展をやっていました。


紅葉が始まっていて、庭が大変綺麗でした。



家紋がはいっていますね。

旅程は以上です。

本当に頭が飽和しそうなぐらいの素晴らしい展示でした。来てよかった。台風がそれてくれて本当によかった。
特に、政宗・成実・小十郎重綱の鎧三領がそろった部屋の迫力は圧巻でした。心臓とまるかと思った。心の準備が必要(笑)。
反対側にはそれぞれが持っていた刀剣が応対するように置いてあり、またクラクラしました。もちろんこの部屋の写真は撮れないのですが、出来れば横長ポスターやポストカード、クリアファイルなどにして売って欲しいなあと思いました。図録にはそれぞれ単品で写真が掲載されているのですが、あの、展示の雰囲気を写真にして欲しいなあと。お願いします(どこにいえばいいのかわからんけど)。
ほんっとにね、50年後元気に生きてる自信のある若人以外は生誕450年記念大政宗展行った方がいいですよ。見応えありすぎてたまらんし、いろんなところから協力を得て、たくさんのものが一堂に会しています。すごいです。成実の鎧だけでも、独眼竜のころの展示以来、30年ぶりです。
本当にありがとうございました。本当にありがとうございました…!!

以下細かい感想。
・栖安斎(実元)宛の書状と、実元死直後に送られた五郎宛書状の並びに興奮しすぎました。
・図録で、ゲームで使用されてる刀剣より、史実で政宗が愛用していたのは鎺国行・景秀・亘理来・鎬刀四郎ですよ!な主張が面白かったw
・秀吉のふわっふわの陣羽織あった(真田丸で再現されていたやつ)。
・駒形神社の日輪前立の鎧、見られましたー!!
・氏郷画像・上杉主従の鎧のアウェー感。
・亘理伊達家に伝わるという赤い朝鮮鞍、初めて見ました。子ども拾ったり鞍拾ったり竹取ってきたり、成実はいったい朝鮮で何を。
・小十郎重綱の刀が激しく刃こぼれしていて、伝承が本当なら、大坂の陣での熱戦が垣間見えますね。あとでパパ景綱に怒られるヤツね(笑)。
・家康の胴服菱形文様でかわいかった。
・柴舟、政宗はいろんな人にあげすぎじゃないでしょうか(笑)。有備館でも京極高国から宗泰あてに柴舟譲ってほしいです書状が展示されていました。あげすぎですよ!w 展示されてるのはいろは姫所用というね…。
・近衛信尋さんの伽羅武蔵野についての「われわれにはもっとくれてもいいですよ☆」書状が素敵すぎて。
・菅野重成なんでもかんでも貰いすぎ(まあ残してあるのがすごいのかもですが)。
・詳しいことわからないけど屏風絵いっぱいですごい(語彙とは)。
・木村宇右衛門の字がすごく神経質そうで、覚書の記憶力と丁寧さの根本を見た…と思いました。すごい。
・大脇差かっこいい。重そう。
・こんなすごい展示なのにラストに只野作十郎宛の長文ごめんね書状があり、何も知らない小中学生がビックリするんじゃないかと思いました(笑)。また解説に「今すぐにでも睦み合いたい」って。小学生に意味を聞かれるお父さんお母さんの身にもなってください(笑)。
・菅野重成なんでもかんでも貰いすぎ。
・成実宛の「最近連絡してませんがどうしてますか」書状が見られて幸せです。
・常設展の方で、(亘理・涌谷伊達家)定宗への一字状(偏諱するときに字を書いて渡す紙)がありました。過渡期なのか、伊達家の作法なのか、一字でなく「定宗」と書いてあり、こういうのを初めて見たので興奮しました。

つまらんあほな感想ばっかですみません! たくさんありすぎて頭が飽和状態だったんです!(泣)
図録はものすごく立派です。フルカラーなので墨の濃淡もよくわかる!
展示品リストは上の博物館の展示案内のページに出ているので、手紙などはどんな内容か政宗文書で翻刻を読んでいくととても楽しいかもです。
秀吉・家康関係の書状や鎧・胴服など、上杉主従や大坂の陣関連のものなど、いろんなものがあるので、それらのファンの人にもオススメです。
それに比べると、東北方面の武将についてがあんまりなかった気もします。最上関係くらいかな?
展示をたくさん見られて、美味しいモノ(はらこ飯も寿司も牛タンも!)たくさん食べられて、本当に楽しかったです。仙台大好き!
また来年行きますね!

心の伊達市民制度について

お久しぶりです!
今年に入ってほっとんど更新してなくてすみません!飽きたとかではなくて、春からだらだらと続いた(そしてまた秋になって突入した)体調不良と、文字打ちと訳をする時間がなかなか取れなかったため、更新できなかったんです…(そして今回も記事は上げられない…)。
なので今回も趣の違う紹介記事を!

今回紹介したいのは、心の伊達市民制度です!
亘理伊達家が渡った北海道の伊達市には、「心の伊達市民」制度というのがありまして、登録して伊達市民税(要するに寄付です)を支払うと、伊達産の野菜をはじめとする豪華な特産品(金額に応じて選べます)や伊達市民名刺などが送られてくるのですが、ついでに「伊達市民だより」「地方紙の伊達市に関するニュース切り抜き冊子」噴火湾研究所発行冊子「噴火湾文化」などがもらえます。ふるさと納税制度と似ていますが違います。
詳しくは以下のリンク先にて。
心の伊達市民 | 北海道伊達市

で、先日来た「伊達市民だより」「地方紙の伊達市に関するニュース切り抜き冊子」「噴火湾文化」がきたのですが、その中で面白いものがあったので紹介します。

伊達野菜PR動画

www.youtube.com
www.youtube.com
か、かかかかっけええな!!(≧∀≦)
伊達市でお聞きした話ですが、実際今も農家の方は亘理伊達の家臣子孫の方が多いらしいですよ〜(道の駅の生産者名みたら特徴的な名字の人が…ちらほら…!!w)

噴火湾文化vol.11

噴火湾文化研究所が出しているニュースレター「噴火湾文化vol.11」には2016年10月15日に行われた、東北大名誉教授磯辺彰氏による講演の要旨「戦国大名伊達家の書籍蒐集と伏見政権の文化政策-伊達家の漢籍を中心に-」が載っていました。
伊達家に残る漢籍がいつ頃蒐集されたかや、どういう目的で蒐集されたかなど。
亘理伊達家の蔵書については伊達市にいったものと足利学校に寄贈されたものがだいぶ残っているらしい*1ですが、本家・他の一門の蔵書は散逸が多くて把握が難しいそうな。

心の伊達市民だより

あと心の伊達市民だよりの記事によると、伊達家古文書史料の中には、寛永7年から享和2年までの仙台藩・亘理領土内での出来事を記した『寿台鏡』(「じゅだいかがみ」と読むそうです)という史料があるそうな。
宝永3年に鳥の海から逢隈高屋村まで大波(津波か高潮かは不明)が襲ったという記録があるそうで、それが紹介されていました。寛永7年からの記録…!! 読みてえ…!!
個人的には成実から宗実のあたりだけでもいいんで翻刻して欲しい…!!

あと新聞記事の切り抜き冊子を見ていると、伊達市の人たちがとても身近に感じられます。
……と、本当に美味しいものがたくさんもらえますんで、是非制度を使ってみてください。
特産品のオススメはとうもろこしホタテです!! あとコーンスープもめちゃうま!

さてさて秋は仙台ですよ! 皆様も是非仙台市博で成実甲冑と対面!(笑)

*1:このあたりの事情については山邊進「仙台藩亘理伊達家の蔵書と郷学日就館」日本漢文学研究 No.2/2007に詳しいです

政宗生誕450年イベント

今年は2017年。1567年生まれの政宗の生誕450年イベントが行われるそうです。
わかったらイベント順にこの記事にリンクしていこうと思います。

10/7〜11/27に仙台市博物館で開かれる記念展示。

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前期と後期で入れ替わりがあるそうです。かなりな数の展示になりそう?
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成実と片倉景綱・重綱の具足や刀剣が展示されるようです!(≧∀≦) 楽しみ!
成実の鎧が展示されるのは、三十年くらいぶりらしいですよ!(前回は「伊達政宗と家臣たち」という展示)北海道から里帰り〜(≧∀≦)

あとここのページが詳しいです!うう、今年一年仙台に住みたいわ…orz

伊達政宗公生誕450年記念関連企画について - 宮城県公式ウェブサイト

追記。生誕450年公式サイト?

伊達政宗公 生誕450年 | せんだい旅日和

追記。画像が公開されました。



『政宗記』6-11:猪苗代弾正望附新国上総降参事

『政宗記』6-11:猪苗代弾正盛国の望みと新国上総の降参

原文

去ば知行判之割、右にも申す弾正忠節の始より、望の勧賞一紙に書立差上けるは、
一 会津御手に入程ならば、北方半分を下置るべき事。
一 猪苗代を持兼、伊達へ引除候はば、三百貫の所、堪忍分を下置るべき事。
一 我等より以後、御忠節の者有と云ども、昔より会津に於いて引付如、座上に差置れ、下さるべき事。
  但し、御譜代衆には構わぬ事。
右の三ケ条望ける書立をば、政宗手前に差置給ひ、扨判形には「望の通、聊相違有るべからず、若又伊達へ引除なば、領中柴田に於いて三百貫所領堪忍分に充行べき者也」と、書れける書付をば弾正手前に持故に、知行判の砌御約束の通り、北方半分下されけるやうにと、成実を以て申しけるは、「北方に弾正知行は何程有り、扨何と云郷なり」と尋ね給ふ。弾正「北方に某知行をいかで持候べき、御忠節の始めより、御約束なり」と申す、政宗「只北方分と計り有て、半の字はなき故に、尋ね候」と宣ふ。そこにて「恥入たる申事には候へども、譜代の主君を背き逆意を企候も、一度は立身の為なり、元より北方に所領を持、夫を書立差上なば、居城の猪苗代をも書副候はんや、旁迷惑なる仰せかな」と申す。其上弾正筆者に薄源兵衛と云ける者、其一紙を書けると彼者「半の字なくば、已に生害に及ばん」と云。其にて彼書付を出されければ、案の如く半の字落て、北方分と計りなり。其とき弾正驚入、「重代の主君を背き、天命尽果是非なき事也、此上は訴訟申すに及ばず」とて、猪苗代へぞ帰りける。然りと云ども、政宗「弾正忠節故にこそ、切所の会津をば思ひの儘に乗取ける、さらば」と宣ひ、猪苗代近所・北方にて、五百貫の加増を賜はる。同家老猪苗代阿波・石部下総、今度武略の取次したる勧賞に、五十貫づつ賜はる也。扨右よりの使、三蔵軒にも二十貫文賜はりけり。而して後新国上総、義広方にて政宗へは背きけれども、鉾には叶はずして会津へ参り、降人と成故、本領を賜はりける事。

  寛永十三年丙子六月吉日          伊達安房成実

語句・地名など

柴田:宮城県柴田郡

現代語訳

さて知行割りに関して、前述した猪苗代弾正盛国の寝返りの初めから、望みの報償を一枚の紙に書きあげ、政宗に提出してあった。その内容は、
1、会津が手に入るならば、北方の半分をくださいますこと。
2、猪苗代を領有し続けられず、伊達へ退くこととなったら、三百貫の知行をくださいますこと。
3、私たちよりあとに、伊達に忠節を誓う者が現れましても、昔から会津にいても連絡していたとおり、私たちをそれらより上座に置きくださいますよう。ただし、伊達の御譜代衆での中の序列には関係ないこと。
この三ヶ条を望んだ書状を政宗の手元におき、政宗が送った書状には、「ノボ美濃通り、少しも違いがあってはいけない。もしまた伊達へ退かなければならなかったときは、領内の柴田において三百貫文を知行の堪忍分に充てるべきもの」と書かれた書き付けを猪苗代盛国が持っていたため、知行割りはこのときなさったお約束の通り、北方の半分を下されるようであると成実を介しておっしゃったのだが、「北方に弾正の知行はどれほどあり、何と云う郷であるか」とお尋ねになった。弾正は「北方に私の領地をどうしても持ちたく思います。それは寝返りしました初めからのお約束であります」と言った。
政宗は「ただ北方分とばかりあって、『半』の字はなかったので聞いたのである」と仰った。すると「恥ずかしいことではありますが、代々仕えた主人に背き、寝返りを企んだ私たちでありますが、これは立身のためであります。もともと北方に所領を持ち、それを書き記してさしあげたなら、居城の猪苗代おもお書き添えになったのでしょうか。いろいろと酷い仰りようでございます」と言った。そのうえ、弾正の書状を書き付ける者の中に、薄源兵衛という者がおり、その書状をかくとき「半の字がなくては、ころされるのではないでしょうか」と言った。そのため、この書き付けをだされたところ、考えのとおり半の字を落とし、北方分だけと書いたのであった。
弾正はひどく驚き、「代々仕えた主に背き、天命尽くつきはて、仕方のない事でございます。これ以上は訴えをすることはやめます」と言って、猪苗代へと帰った。
しかし、政宗は「弾正の寝返りがあったからこそ、大変手に入れにくい会津を思うとおりに入手することができたのである。それならば」とおっしゃり、猪苗代の近く、北方で500貫の加増をなさった。
同じく家老の猪苗代阿波・石部下総の今回の戦の取次をした褒美に、50貫ずつ賜った。またその使いをした三蔵軒にも20貫文をお与えになった。その後義広についていて、政宗には背いていた新国上総貞通も、戦で叶わず会津へ参上し、降参し、本領を安堵された。

感想

今度は寝返りをして多いに伊達勢を助けた、猪苗代盛国への知行についての記事です。面白いのは、「もし自分たちより後に臣従するものがいたとしても、自分たちを上座にしてください」という盛国の願いです。
裏切って新たに忠節を誓うにしても、早く、そして役に立った自分たちを一番引き立てて欲しいという望み、忠節にも誇りがあったのでしょう。