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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』52:田村衆の参上

『伊達日記』52:田村衆の参上

原文

月斎。刑部少は申に及ばず。梅雪。右衛門大輔其外相馬へ申合候衆も表立候衆の分宮森へ参。石川弾正御退治成られ。田村迄かたまり目出度由申上られ候。其内常盤伊賀守各相談の砌伊達へ頼入るべき由申出候付。何も其に落居の由聞召され御大慶に思召され候由御意にて金のし張の御腰物下され候。

語句・地名など

現代語訳

月斎・刑部少輔はいうに及ばず、梅雪・右衛門大輔その他相馬と申し合わせていた衆も表だった者たちも宮森へ参り、政宗が石川弾正を退治なさったので、田村まで団結し、めでたいことだと仰られた。そのなかに常盤伊賀守はそれぞれ相談をしていたとき、伊達へ頼るべきであると言っていたので、みなそれをもとに落城したと政宗はお聞きになり、大変お喜びなされたので、金熨斗張りの刀をお与えなされた。

感想

合戦後の後始末。これが政宗22歳のときのことです。

『伊達日記』51:相馬の田村攻め失敗

『伊達日記』51:相馬の田村攻め失敗

原文

相馬義胤築山に御座候間、其内弥田村衆申合られ御北様へ御内談と相見え候。五月十一日義胤従御使之由申候て。相馬家老に候新館山城。中村助右衛門と申者三春へまいり。其夜町にとまり申候。いづれも下々に申唱候は。伊達衆をも相馬衆をも三春へ入間敷由申定られ。両人衆参られ候は。明日義胤御見廻候様に御出城を御取成られ候由申候。十二日早天に山城助右衛門城へ罷上候。刑部少は切腹と存詰未明に参。三人共に奥方へ参酒をひかへ居申候。刑部少のものども五人三人宛鉄炮弓鑓武具持候而城へ入候。月斎。梅雪。右衛門太輔は参られず候。助右衛門。山城者も五十人計城へ参候へども道具は持たず候。義胤御出候由申に付。内へ入候者ども役所付候様に居候。梅雪其時城へ上申され候。奥方より刑部罷出られ候。義胤者城の下迄召懸候。宵より大越の人数城の東の林の内深き谷へ七八百程鉄炮弓鑓を持引付置候。然る所に刑部少輔。梅雪の手を取。兼て伊達衆をも相馬衆をも入間敷由仰合され。義胤を入御申之在るべき哉と申候へば。梅雪いやいや入申間敷由申され候。兼而梅雪も御見廻候様にて城を取らせしむ申すべき由申合為しめられ候へども。刑部少大功の者に候間入申すべき由申候はば即打たるるべきと存ぜられ。入間敷とは申され候と見え申候。刑部少其言に付具足を着申候に付。何も城へ入由者ども武具を着もふし候。義胤城半分程召上られ候処に。鉄炮弓を打懸防候間。御供衆三十騎計袴懸にて召連られ候へども罷り成らず。義胤御馬の平頭に鉄炮あたり。其より召廻し東の小口へ御出候へども。彼口も其通殊に地形悪候故成らず候。御跡に馬上三百騎余武具にて鉄炮も多く召連られ候へども遅候而用立たず。築山へも御帰無く直に相馬へ引除かれ候。大越伊賀守*1罷出御立寄られ候へと申候へども直に御帰候。新館。中村は城にて討たるるべきかと存候て。ケ様に御色立有るべき義になく候。御出御無用之義申すべきとて足早に出候を。鑓を付懸候へども。刑部少無用之由申候て押出。城は堅固に持候。田村より若狭所へ其段申来候間。早馬を以大森へ申上られ候條夜の四つ過ぎに相きこえ。則御早打成られ。若狭居城宮森へ翌日五つ時分召着れ。伊達信夫之人数参築山へ両日御働成られ候。田村に人数入候儀計難き由御意にて我等は十二日白石へ早打仕。そのまま指置かれ候間両日御供申さず候。十六日に小手森へ御働候間。参るべき由仰下され候條小手森へ参候処に。城を召廻御覧成られ。御責成らるべき由仰付られ。我等は築山より助の押へに差置れ候。其外の御人数御旗本衆迄相放られ。御責成られ候而落城仕放火なされ候。今度は取散に仰付られ宮森へ打返され。翌日田村の内大蔵と申城田村右衛門弟彦七郎と申衆居申され候。心替申候衆数多候へども手切れ申されず候。此彦七郎は築山へ節々参。今度義胤三春へ御越候御供も仕候而彦七郎城を御責なされ候。小口懸を成られ。町へ引こもり候から家も十計焼せられ候へども。内より一騎一人罷出でず。脇より助の衆も之無く候処に。卜雲と申田村より出家参られ候。彼出家を以月斎我等頼入御侘言申され罷出らるべきに落居申候へども。日暮候て宮森へ打返され候。惣人数はにしと申所に野陣仕候。つぎの日は石沢に相馬衆こもり候。御働成らるべき由打出られ候処に。彦七郎罷出られ候事おそく候間。御蔵の道つるいに惣手備を立罷出ず候者御責成らるべき由仰付られ候処に。彦七郎罷出御目見え申され。石沢への御先手致され候。石沢は田村の内にて小地に候へども。城能相馬衆相抱候而人数も多見え候間。近陣成らるるべき由にて其夜は西と申城。若狭抱の地へ御在馬成らるるべき由仰付られ候処。然るべき家之無きに付俄に東の山に御野陣成られ候。然る処に大雪仕。何も迷惑申候処に築山に火の手見え候間物見を遣候所。築山引除候而一人も居らぬ由申上候。石沢も除くべき候間いそぎ人数つかはされ候処に。軍勢参らず候。先に引のき候弾正親居候とうめきも引除候。弾正抱の地のこりなく落居。田村の内二ヶ所相済。宮森へ打返され御在馬なされ候。

語句・地名など

早天:夜明けの空。夜明けの頃。早朝

現代語訳

相馬義胤が月山にいらっしゃるので、その内ますます田村の者たちは申し合わせて北の方と内々の相談をなされたようだった。5月11日に義胤から使いを送って、相馬家老である新館山城・中村助右衛門という者が三春へ来て、その夜は町に宿泊した。下々の者たちは「伊達衆も相馬衆も三春へ入れないという事を定められたというのに、二人の使いが来て、明日義胤が見廻りに来るのであれば、城をお取りなさるつもりなのだろう」と言いあった。
12日の早朝に山城と助右衛門は城へ登った。橋本刑部少輔は切腹すると思い詰め、未明に登城した。三人共に、奥の方へ来て、酒を控えていた。刑部少輔の手下の者太刀は5人3人ずつ、鉄炮・弓・鑓といった武具を以て城へ入った。月斎・梅雪・右衛門大輔は来なかった。助右衛門と山城は50人ほど城へ参上したのだが、武器は持っていなかった。義胤が出発したと聞いて、城内へ入った者たちはそれぞれ役目についていたようである。梅雪はそのとき城へ上った。奥の方から刑部少輔が出てきた。義胤は城の下まで取りかかっていた。夜の内から大越の手勢が城の東の林の中の深い谷へ7,800ほどの鉄炮・弓・鑓をもち、持たせ備えておいた。
すると刑部少輔は梅雪の手を取り、かねてから伊達衆も相馬衆もどちらも入れるべきでないということをお約束され、義胤を入れるべきではないのではないかと言ったところ、梅雪は絶対入れるべきでないと言った。かねてから梅雪も見廻りのようにして城を取るべきであると語らいあっていたけれども、刑部少輔は武功の者であったので、聞き入れたならすぐに討たれるであろうと思い、入れてはいけないと言ったと思われる。刑部少輔はその言葉を聞いて、具足を着けたので、みな城へ入った者たちは鎧を着用した。
義胤が城なかほどまでに入られているところに、鉄炮・弓を打ちかけ防ごうとしたので、義胤の御供衆は30騎ほどいたが、袴を着ていたので連れてこられたけれども役に立たなかった。義胤の馬の平頭に鉄炮があたり、引き返し東の小口へ出られたけれども、その入り口も特に地形が悪かったため、脱出できなかった。その跡に鎧武者300騎余り鎧を着て鉄炮衆も多く引き連れて来たのだが、遅れ役に立たなかった。月山にもお帰りにならず、直に相馬へ退かれた。
大越紀伊守は義胤に立ち寄りくださいと言っていたのだが、直接お帰りになった。新館・中村は城の中で討たれるだろうかと思い、このように大がかりになるとは思わなかったため、入るのは止めておくべきと思い、足早に然られたのであろう。
鑓をつけかけたけれども刑部少輔は無用であると下知し、押し出し、城は堅く守られた。
田村から白石若狭のところへその様子をいいにきたので、早馬を使って大森へ申し上げたところ、夜の四つすぎにお聞きになり、すぐに出発なされ、若狭の居城宮森へ翌日の五つ頃に御到着なさった。伊達・信夫の手勢が来て、月山へ二日間戦闘をしかけられた。田村に手勢を入れることは難しいとお思いだったので、私は12日白石へ出発し、そのままそこにいるよう言われたので、二日間とも御供はしなかった。
16日に小手森へ戦闘するので、来るようにと言われたので、小手森へ参上したところ、政宗は城を廻り御覧になられ、攻撃するよう仰られた。私は月山から援軍が来たときの押さえにさしおかれた。その他の手勢や旗本衆まで放たれ、城をお攻めになられたので、落城し、火を付けられた。今回は撫で切りではなく、取り散らしにするようにと仰って、宮森へお帰りになられた。翌日田村のうち大蔵という田村右衛門の弟彦七郎という者がいた。心替えするものが多く居たけれども、関係を壊すほどではなかったが、この彦七郎は月山へ何度も参り、今回義胤が三春へ来たときも御供をし、彦七郎は城を攻めた。小口懸かりをし、町へ引きこもり空き家を10軒ほど焼かせたのだが、中からは一騎も一人も出てこなかった。脇からの援軍もないところに、卜雲という僧侶が田村より来た。その僧侶を介して月斎や私を頼み、訴えを申し上げた。おいでになるべきに落ち着いたけれども、日が暮れたので政宗は宮森へお帰りになった。総軍は西というところで野陣なさった。次の日は石沢というところに相馬衆は籠もった。戦闘しようと出立なさったのだが、彦七郎が出てきたが、遅かったので、蔵の道つるいに総人数を立て、出てこなかったのは、攻撃することを仰られたところ、彦七郎はでてきて、御目見得なされ、石沢への先陣を仰せつかった。石沢は田村領で、小さな土地ではあったが、城はよく、相馬衆を頼っている者も多くいるようだった。近陣しようということで、其の夜は西という、白石若狭の持つ地の城へ滞在するとのことを仰られた。しかし相応しい家がなかったので、急に東の山に野陣を敷かれた。そうしているところに大雪が降り、みな大変困っていたところに月山で火の手が上がったので、物見を派遣したところ、月山は全員退却し、一人も居ないということを申し上げた。石沢も退いたのではないかと、急いで手勢を使わされたところ、軍勢は来なかった。先に退いていた弾正の親がいた百目木も同じく退却していた。これで弾正が持っていた土地は残らず攻め落とされた。
田村の中の二ヶ所が片付き、宮森へ戻られ、ご滞在になった。

感想

相馬義胤が休戦協定を破り、田村へ攻め入ろうとして失敗した話がかかれています。
大雪が降ったということがかかれているのですが、もう5月なのに!?と驚いてしまいます。なんかの異常気象だったのでしょうか。

*1:紀伊守

『伊達日記』50:田村の内談

『伊達日記』50:田村の内談

原文

田村にて内々色々申分共候。月斎。刑部少申せられ候は大森に政宗公御在馬成られ。築山に義胤御座候。兎角羽方の衆を入申事いかがに候間。伊達衆。相馬衆ともに如何様の御用候共入申間敷梅雪。右衛門太補其外表立候衆へ相談申され候所に。いずれも尤の由申され候而片倉小十郎所へ両人より内談申され候に付。御飛脚にても遣わされず候。

語句・地名など

現代語訳

田村の家中ではいろいろと言われていたのだろう。月斎と刑部少輔は「大森に政宗公が、月山に義胤がいらっしゃる。とにかく双方の衆を田村にいれるのはどうかと思うので、伊達の者も相馬の者もどのようなことがあっても田村領には入らないで欲しい」と梅雪・右衛門太夫はその他表だった衆と話し合い、みなもっともであると思い、片倉小十郎の所へ二人から相談があった。そのため、飛脚も遣わさなくなった。

感想

田村ではいろいろな事が話され、伊達相馬どちらの兵も中にいれないということで評議に決着が付きました。
しかしこれで決着とはいかず…続きます。

『伊達日記』49:高倉への視察

『伊達日記』49:高倉への視察

原文

一大森に御在馬の内。高倉近辺を御覧成らるるべき由御意にて。五月十五日帰に前田沢迄御出。城之内迄御覧成られ候。我等は御馬を存ぜず。本宮にて追付御供仕候。

語句・地名など

現代語訳

一、大森にいらっしゃったあいだ、高倉周辺を御覧になりたいと思われ、5月15日に前田沢まで出られ、城の中まで御覧になった。私は出馬を知らず、本宮で追い付き、お供した。

感想

外出を聞いて、成実が政宗をあわてておいかけたのかと思うとおもしろいところです。

『伊達日記』48:月斎・刑部少輔の訴え

『伊達日記』48:月斎・刑部少輔の訴え

原文

一田村衆相馬へ申合られ候衆も。尤伊達へ御奉公の衆も石川弾正逆心仕候間。政宗公御出馬成られるべき義存ぜられ候へども。一切其沙汰之無きに付。月斎。橋本刑部少。白石若狭を以米沢へ申上られ候は。弾正逆心仕候間則御出馬成られ御退候かと存候に左様にも之無く候。田村は過半相馬へ申合られ候へども政宗公御出馬を機遣仕事切れ申せられず。弾正は義胤を引出申すべきためを以事切仕候間。御出馬成られ下され候様にと申上られ候。石川弾正逆心候間。則御出馬成られるべく候へども。最上の御弓矢に候。いづ方にも境目には大名候へども。長井は最上さかいに小身もの計さしおかれ候間。米沢を明御出馬成られ候事御気遣いに候。其上弾正抱の地一ヶ所も取せられず候て。一働二働の分にて御入馬なされ候事はいかが思召れ候に付而御延引なされ候由御意候。重而月斎。刑部少申上られ候者。左様の御底意を世上にては存ぜず。一切御馬窕申さず候由。田村侍ども存候者残らず相馬へ相付らるべく候。何方の御弓矢も左様に御手ぎはの御座候儀は之無く候間。久敷御在馬成間敷候。一働なされ御入馬候様に申度候。御出馬なく田村の者ども手切仕候はば。我等切腹うたがひなき由しきりに御訴訟申され候に付て。左候はば御出馬候て一調儀成らるるべき由御意にて御陣触仰付られ。大森へ四月十四日御出馬成らる。五日御逗留にて廿日塩の松の内築飯へ相移られ候。石川弾正抱の地築山其身居候。城小手森。彼地は塩の松御手入候砌御加増に下され候城に候。たふめきと申城は相馬の境にて親摂津守居候。小手森は築飯近所に候間小手森へ御働なされ候処。義胤は政宗公御出馬之由聞召。一日前に築山へ御出候。小手森へは石川自身籠候。築山は相馬衆にて抱申候。政宗公小手森の地形を御覧成られるべき由思し召され。北より南へ御通成られ候を。内より鉄炮にて打候へども。召し連れられ候衆は鉄炮一つも御うたせなく御通成られ候。其日は打上られ候。我等は南筋気遣候間二本松へ其夜罷帰候。翌日天気あしく候へども築飯へまいり候へば。御働相止候間罷かへり候。日々参候へども天気あしく御働之無し。廿五日に大森へ御引こもりなされ候。月斎。刑部少おどろき申され候て。白石若狭我等をたのみ申上られ候は。四五日御働成らるるべきと存候処に。天気故とは申ながら一日御働御引こもりなされ候。最上境深御機遣いと見え候由田村のもの共存候はば。伊達をたのみ入候ものども心がはり仕るべく候間。責て大森に御在馬成られ。田村へも長井へも不慮の儀候はば。御早打成らるべき由にて大森に御在馬之由諸人存候様に仕度由申上られ候へば。両人申され分尤に存。若狭同心申大森へ参。原田休雪。守屋守伯。伊藤肥前。片倉小十郎四人衆へ月斎。刑部少申され候通り申候処に。肥前申され候は。御訴訟は尤に候へども。御存知の如く長井には大名一人も之無く候。境今も小身衆計こめをかれ御出馬成られ候。御早打と申ても最上境へは大森より二百里に及候間御用ならず候。当地御在馬如何に存候由申され候。若狭申され候は。田村の様子大形に存られ候哉。月斎。刑部少御奉公存詰られ候計を以先静ならず候分に候。大森を御引籠なされ候はば。両人もたのみなく存分違られ申す義計がたく候由申され候。肥前又申され候は。田村を相抱られ度思召され候ても。長井に急事到来申ては所詮無く候。左候はば以来田村の御抱も罷成らず候間。先本に急事の之無き様に申度由申られ候。小十郎申され候は。是にて問答入ざる事御耳に立御意次第に申せられ。然るべき由にて披露におよび候処に。御意には。尤両人申処拠無く思召られ候。此度は天気故御不手涯に候間。大森へ御引籠成られ尤当地に御在馬成られ。何方へも御早打成らるるべく候間心やすく存らるべき由仰出され候。罷帰若狭を以月斎。刑部に申聞せ候。満足申され候。

語句・地名など

築飯→築館
築山→月山
たふめき→百目木

現代語訳

一、相馬と申し合わせていた田村衆も、伊達へ奉公している者たちも、石川弾正が裏切ったので、政宗が出馬されるだろうと思ったのだが、一切その様子がなかったので、月斎・橋本刑部少輔は白石若狭宗実を介して米沢へ申し上げられた。「弾正が反逆したので、すぐに出馬され、退治なされるかと思っていたのに、そうならず、田村は半分以上が相馬へ傾いているのだけれども、政宗公が出馬されるだろうと思い、手切れにはなっていない。弾正は義胤を引き出すために手切れをしたので、どうかこちらへ出陣くださいますように」と言った。
石川弾正が裏切ったので、すぐに出陣するべきであるけども最上との戦もあり、どちらとも境目には大名を置いているが、長井郡にの最上との境には、小身のものたちばかり置いているので、米沢を空にして出陣したときのことを心配なさっておられるのであった。
そのうえ弾正の土地を一ヶ所も取られないので、多少の働きでお帰りになるのはどう思われたのか、出馬を延期なさった。
月斎・刑部少は再度、「その御本心を世間の者は知りません。一切出馬なされないのであれば、田村の衆は残らず相馬へ付いてしまうでしょう。どこの合戦においてもそのように手際がよいことばかりではありません。長く在馬ができなくとも、一働きされ、お戻りになっていただきたい。出陣なく、田村の者たちが手切れ下ならば、私は切腹させられることは間違いない」と頻りに訴えてきた。
それならばと、出陣して一働きしようとお触れをだし、大森へ4月14日出陣なされた。5日ご滞在され、二〇日に塩の松領内の築館へ移られた。
石川弾正は領地の築山という城に居た。小手森の城は、政宗が塩松を手に入れられたとき、政宗が弾正に加増した城である。百目木という城は相馬との境で、弾正の父摂津守が居る城である。
小手森は築館の側にあるので、小手森へ出陣なさった。
相馬義胤は政宗が出馬されたのを聞き、一日前に築山へでてきた。小手森へは石川弾正自身が立てこもっていた。築山は相馬衆が籠もっていた。
政宗は小手森の地形を御覧になりたいと思われ、北から南へお通りになったところを、内から鉄炮で打たれたのだが、政宗が連れて行った者たちは鉄炮をひとつも打たせにはならず、お通りなさった。その日は打ち上げられた。
私は南方面のことが心配だったので、その夜は二本松に帰った。翌日、天気は悪かったが、築館へ参ったところ、出陣は中止になり、帰った。毎日行ったが、天気がわるく、出陣はなく、25日に大森へお戻りになった。月斎と刑部少輔は驚いて、白石若狭と私を頼って、「4,5日お働きなさると思っていたのに、天気の所為とはいっても、一日だけの出陣でおもどりになっては、最上境のことを深くお気遣いのこととは思いますが、伊達を頼みにしているものたちは心替わりしてしまうことでしょう。せめて大森にご滞在されれば、田村へも長井へも何かがあったときは急いで駆けつけることが出来るので、大森にご滞在くださいとみな思っています」と行った。二人の言うことはもっともであったので、若狭と一緒に大森に行った。原田休雪。守屋守伯意成。伊藤肥前重信。片倉小十郎景綱の四人に、月斎と刑部少輔の言い分をその通りに言ったところ、肥前は「訴えはもっともであるが、御存知のように、長井には大名が一人もおらず、境は今も小身の者たちばかりが詰めている。もし戦になったならば、いくら早く駆けつけたとしても、最上境へは大森から200里もあるので、意味がない。ここに居るのがいいのではないか」と言った。
白石若狭は「皆様は田村の様子を大げさに言っていると思われているのではないですか。月斎と刑部少輔は伊達への奉公を思い詰め、この先大変なことなるのではないでしょうか。大森から退かれるのであれば、二人は頼みもないと思うことでしょう」と言った。また、伊藤肥前は「田村を手に入れたいと思われたとしても、長井に危険なことがおこっては結局どうにもならない。なので、田村の支配も成らないため、まず本領に危険がないようにした方がいいのではないか」と言った。
片倉景綱は「ここで問答していても仕方のない事です。お伝えして、お思い通りになさるのがよいと思われます」と言ったので、そのとおりであると、申し上げたところ、政宗は、二人のいうところはたしかであり、今回は天気のために出陣できないが、大森に引きこもり、ここに在陣し、どの方向へも早駈けできるようにするので、安心するようにと仰せになり、帰る若狭を介して月斎・刑部少輔に知らせた。
二人は満足した。

感想

田村の内部が二分されていたことは前にかかれていますが、さらに相馬へ傾く人間が増えてきたことから危機感を感じた月斎・橋本刑部少輔が訴えを起こしたことがかかれています。
後半の四人の家臣たちの相談しているところもそれぞれの言い分が違っていて、興味深いところです。

『伊達日記』47:再びの本宮合戦

『伊達日記』47:再びの本宮合戦

原文

一四月五日之晩大内備前不図懸入候に付而。会津衆安積へ罷出られ、須賀川へ申合働候由其聞候に付。片倉小十郎大森に居申され候間左右を申候処に。則二本松へ罷越され信夫の侍早早罷越べき義申触られ候へども。俄故か一人も参られず候。小十郎と我等計本宮へ罷越候。高倉へ人数を籠度由申候へども。差置申べき者之無く候間。我等八丁目の家中ともに十騎余。鉄炮五十挺差越候。四月十七日に高倉近江本宮へ参られ候。本二本松譜代にて会津安積之事具に存候者にて候間。明日の働何方へ之在るべき義たづね候へども。近江申され候は。会津須賀川衆計にて候條千騎には過申間敷候。会津にも境の衆は窕申まじく候。須賀川も田村境の衆は参まじく候間多人数には有間敷候。大形本宮迄は働申間敷候。高倉の働に之在るべき由申され候。左候はば此方へ人数の手扱により。観音堂へ打上高倉へ助入申すべければ見合次第に候。若又本宮之働に候はば。此方の人数引籠候て出ず候者定観音堂へは敵の備相立つべく候。下へ人数下候はば尤の事に候。左なく候はば少々内より人数を出し敵へ仕懸敵を町口迄引付合戦をはじめ申すべく候。左候はば、羽田右馬助人数を以先手を仕。跡を小十郎人数にて仕。我等人数は合戦に構はず西の脇を観音堂へ押切候様に人数を出すべく候間。定而敵の足戸悪之在るべく候。左候はば高倉より敵の跡を付切申さるべく候。大勝は明日に之在るべく候。高倉の城高く候間何方へ働も見え*1べく候。又高倉へ人数越候はば。城の西に飛火をあげ申さるべく候。本宮への働に候はば。東に上申さるべき由申合候て高倉近江は相返し申候。十八日に高倉の城西に飛火上げ申候間。扨は高倉への働と見え候由。観音堂の下迄人数を打出候処に。又東に飛火上げ候。さては本宮へ働に候哉と人数を引返べしと申候へども。きおいが廻り候間。此儘合戦仕るべき由申候間備を相立候。我等小十郎観音堂へ打上見候へども段々に人数押来候。鹿子田右衛門一騎先へ抜け候て足軽四五十人召連参り候。石川弥平に申付候ば。鹿子田を引払申すべく候。するすると参候はば我等は下へ引下がるべく候間。其乗参候はば本合戦仕るべき由申候て。羽田右馬助人数を足軽三十人余指添候而越候処。鉄炮打合そろそろと弥平。敵味方の境を乗廻し乗廻し引上候間。右衛門初は一騎に候へども。後は十騎計足軽百余に成候て。小十郎も我等も下へをろし候へども。敵弥平右馬助どもを追立観音堂迄参候而人数を敵かけ候。敵くづれ候。右馬助小姓文九郎と申十六に罷成候者。馬上付候処に取て返し候。文九郎を切候。歩の者二三人返し首を取候処を右馬助乗入。歩の者二人切候故敵引除候。文九郎首は取られず。其内一人打取候。ひとり橋より此方へ越候。人数は備をほごし崩候て橋を逃越。又そなへを立ならし候故又押返され候処を。田沢勘五郎と申政宗公御小姓に候が。御勘当にてわれらを頼み居候。馬を立廻立廻相除候。横に馬を引まはし候処を鑓持一人走り懸り馬のふと腹を突候と同時に。鉄炮方のもみ合に当打返られ候。勘五郎下立具足をすぎ家中共に相返。その身は手鑓を持馬上を一騎つきをとし。則勘五郎頸をかき我等に見せ申候。又本の観音堂へ追付られ候処。牛坂左近。右馬助。弥平三騎返合敵を追返し。ひとり橋迄追付頸四十三取候。味方は三人打たれ物別申候。十七日の相談のごとくに申候者残りなく討申すべき処に。とひ違へ候而大勝申さず候事。于今くやしく存候。そののちとひの事たずね候へば。今日働の由しらせ申合べく。西へ飛火あげ申由申候。其は昨日知候事に候。入らぬ事と申候へども返さぬ事に候。会津衆は一働申候而片平助右衛門老母を人質にとり罷帰らず候由後に承候。大形人質取申べき計に会津より罷出られ働申されかと存候。まけはづし申され候而若松へ引籠申され候う。小十郎は廿一日迄本宮に居申され候へども。会津衆引こもり候由申来候間。廿二日米沢へ罷帰られ候。

語句・地名など

弥平→『政宗記』では弥兵衛

現代語訳

一、天正16年の4月5日の夜、大内備前定綱は急に伊達へかけいって来たので、会津衆は安積へ出てきて、須賀川と申し合わせて出陣したことが知らされてきたので、片倉小十郎景綱が大森に居たので、詳細を言ったところ、すぐに二本松へ来て、信夫の侍集を急いで来させるべきであると知らせたのだが、急なことであったので、一人も来なかった。小十郎と私だけが本宮へ来た。
私たちは八丁目の家中と合わせて10騎余り、鉄炮50人ほど連れてきていました。
4月17日に高倉近江が本宮へ来た。もともと二本松に代々仕えていた者であったので、安積のことを良く知っている者であった。明日の働きは何処へあるだろうかと聞いたところ、近江が言うには、「会津と須賀川衆だけであるので、1000騎を越えることはないでしょう。会津も境の衆を留守にすることはできないでしょう。須賀川も田村も、境の衆はこないでしょうから、大人数にはならないはずです。おそらく本宮までは来ないでしょう」高倉だけの戦闘になるであろうと言った。
「そうであるならば、こちらへ来ている手勢を使い、観音堂へ向かい、高倉へ援軍を使わすが、どうなるかによる。もしまた本宮での戦になるのであれば、こちらの人数が引きこもってでないのであれば、本宮へは敵が陣取るだろう。下へ手勢が下るのももっともである。そうでないのであれば、少し中から手勢を出し、敵へしかけ、敵を町の入り口まで引き付け、合戦を始めるのがよいだろう。そうなったならば、羽田右馬助は手勢を以て先手をし、後を景綱の手勢で引き受ける。私の手勢は合戦にかまわず西野脇を観音堂へ押しきるので、手勢をダスので、きっと敵の足下は悪いだろう。
そうなったならば、高倉から敵の後ろにつっきるのが甥だろう。明日は勝たねばならない。
また高倉へ軍勢が到着したら、城の西にのろしを上げるよう。本宮への出陣になるのであれば、城の東に上げるように」と話合い、高倉近江は帰っていった。
18日に高倉の城西に烽火が上がったので、では高倉への出陣と思ったので、観音堂の下まで手勢を出発させたところ、また東にのろしが上がった。では本宮への出陣なのかと手勢を引きかえすべきと言ったが、勢いがまさってできなかったので、このまま合戦するべきであると言い、備えを立てた。私と景綱は観音堂へ上がり、見たのだが、徐々に敵の軍勢が押し寄せてきた。
鹿子田右衛門は一騎先へ抜けてでてきて、足軽4,50人を連れて出てきた。石川弥平に「鹿子田を追い払い、するすると行けば、私は下へひきさがり、その調子であるならば、本合戦になるだろう」と言い、羽田右馬助の手勢を足軽30人程付けて送り出したところ、鉄炮を打ち合わせ、弥平は敵と味方の境を乗り回して、じょじょに引き上げた。鹿子田右衛門は1騎であったが、徐々に増えて10騎、足軽は100人余りになった。景綱も私も下へくだったけれども、敵は弥平・右衛門たちを追い立てて、観音堂まで来て、人数を敵はかけてきた。敵は崩れた。
右馬助の小姓で文九郎という16になった者が居たのが、馬上の武者を突いたところ、取り返され、文九郎を切った。かちの者を2,3人返したため、敵は引き下がり、文九郎の首は取られなかった。そのうち1人を打ち取った。ひとり橋からこちらへ来た。手勢は備えを崩してしまい、橋を逃げて越えた。また備えを立ち直したので、また押し返されたところ、田沢勘五郎と言い、政宗の小姓であったが、勘当されて、私のところへやってきた者が、馬を立ち廻し、立ち廻して、退却した。横に馬を引き回したところ、鑓持ちが一人走り懸かり、馬の太腹を突いたのと同時に、鉄炮方のもみ合いに当たり、返された。勘五郎は下におり、具足を脱ぎ家臣に渡した。手槍を持ち、馬上の武者を一人突き落とし、すぐに勘五郎はその首をとり、私に見せた。
またもとの観音堂へ追い付けられたところ、牛坂左近・右馬助・弥平3騎が戻ってきて、合戦を追い返し、ひとり橋まで追い付け、首を43取った。
味方は3人討たれ、物別れとなった。
17日の相談のように、言った者は残りなく討つべきであったのに、間違えて大勝できなかったのは、今であっても口惜しく思う。その後飛火のことについて尋ねたところ、今日戦があることを知らせるべく西へのろしを上げたと言った。それは昨日知ったことであり、必要ないと言ったけども、返さなかった。
会津衆は一働きして、片平助右衛門の老いた母を人質にとり、帰らなかったと後に聞いた。おそらく人質をとるためだけに会津から出てはたらきしたのだろうかと思った。負け外したので、また若松へ引き込んだのだろう。
片倉小十郎景綱は21日まで本宮にいたのだが、会津衆が引きこもっていたことが知らされてきたので、22日米沢へ帰った。

感想

二度目の本宮合戦です。
この記事ではただの「橋」となっていますが、『政宗記』では「人取橋」となっており、『政宗記』がかかれた時期には既に「人取橋」という名称ができていたことがわかります。

*1:ユか