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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』56:泉田安芸の帰還

『伊達日記』56:泉田安芸の帰還

原文

一最上とは御弓矢に候へども。相捨られ御対陣成られ候処に。最上より伊達への弓矢成間敷と思召され候哉。政宗公御老母は義顕公御姉にて候。御東の上と申候。義顕公より御内証も候哉。御東の上最上境中山と申す所へ御出。政宗公と御和談の御取扱相済候。之依大崎新沼において諸勢之人質に為し相渡。最上へ引越され候。泉田安芸守を最上より相返され。郡山御対陣の所へ参られ。政宗公則御前へ召出され。御奉公仕苦労申さるる由御意候而御腰物大小。御小袖十。御馬一匹下され。安芸守事之外過分之由申候。

語句・地名など

現代語訳

一、最上とは戦をしていたのだが、対陣していたところに、最上から、伊達への戦はしてはならないと思われたのだろうか。政宗公の母君は義光の姉であり、御東の方という。義光公から秘密の相談でもあったのか、於東の上は、最上との境、中山というところへお出になり、政宗公と和睦の仕切りをなされ、済ませた。これより大崎新沼において人質になっていた者たちを渡し、最上へ連れていかれていた泉田安芸を最上から返され、郡山対陣中の政宗の御前に呼び出され、奉公の苦労をねぎらい、刀と脇差し、小袖10、馬を一匹お与えになった。安芸は非常に過分なことでると言った。

感想

最上にずっと留め置かれていた泉田安芸重光が帰還したことが書かれています。
中山峠にて於東の方こと義姫が仲裁に入り、戦を止めたときのことが書かれています。
ここで、義姫は義光の姉であると書かれていますが、『政宗記』では妹となっております。外の部分でも姉だったり妹だったりします。

『伊達日記』55:窪田合戦

『伊達日記』55:窪田合戦

原文

窪田にも外やらい成られ然るべき由にて。窪田の川を外に成られ堀をほり。土手上垣を御ゆわせ候。其やらい番仰付られるべき由にて人数持申され候衆鬮取に仰付られ候。浜田伊豆。富塚近江。原田左馬助。遠藤文七郎。片倉小十郎。白石若狭。我等三人は御前へ罷出ず。後付に鬮を御とらせ候。白石若狭と小十郎一組。文七郎と近江一組。左馬助と伊豆一組。孫七郎と我等一組に候。然る処に小十郎申上られ。鬮取の義に候へども成実と御組合下し申さる由申上られ組を替候間。我等は小十郎と同番に罷成。若狭と孫七郎殿同番に成候。惣御陣中にて小十郎相手をきらひ成実と組合候間。此番には合戦仕るべきと小十郎存候哉と唱候。七月二日近江文七郎番無事に候。三日に孫七郎殿若狭番にて無事故。四日小十郎我等番にて早天に窪田へ罷越請取候。陣中に於いて今日は小十郎成実番に候間。必ず合戦之有るべきの由にていずれも早々より仕度仕らるる由に候。然る処に小十郎我等役所へ参られ候。我等申候は。御対陣始は郡山手詰に候はば御合戦成らるるべき由落居候。早通路不自由に成候間合戦仕るべく候。左無く候ては御対陣のしるし之無き由申候。小十郎申され候は尤に候へども敵大軍に候間合戦大事に候。通路は不自由に候へども郡山の手詰程の儀は之無く候。以来手詰に成候はば是非御合戦然るべき由申され候。我等家中遠藤駿河と申者申候は。敵取出之番平田左京小旗に候。会津へ細々使いに罷越懇切の由申候へば。小十郎左候はば矢文を越申すべく候。左京亮処へ矢文敵地より参候由申上候。疑心申すべく候間悪道には之無き由申され候間。小十郎文言にて先年使者と為し若松へ伺公仕候砌。別而御意下され浅からず候。何角打過候処に御弓矢に罷成御意得られず候。今日相近に罷有候へども。御世上抦故御目に懸けず御床敷存候。窪田やらいの番には小十郎成実参られ候。御手の御番と見え申候。御太儀に存候。御和睦成られ貴面遂度存候申書申。矢に結付一人越招候間射申候へば。其矢を取内へ入又扣射返申候。返事には仰の如く相達し候へども御目にかけず。御残多由如何にも諫早々書申され候。小十郎推量のごとく機遣候哉と存候。其返事政宗公へ御目に懸けるべき由申され。其身は役所へ持帰申され候。然処に永沼の城主新国上総馬上五六騎歩之者百計にて郡山南より東へ通。北の取出と窪田やらいの間を通候。我等あづかりの所にて候間能合戦の中立と存。上総を取出の内へ追入候。小十郎も同前に人数を越申され候。両取出より打出合戦始候。敵勢残無く助合。政宗公御人数召し連れられ。朝五つ時分より八つ時迄合戦に候。敵の首二百余打取。味方も六七十打たれ候。敵の取出へ二度迄追入候へども。味方は一芝も取られず打上候。政宗公より御使を下され。定て家中に手負死人候て草臥候はん間。番替に左馬助遣はされ候間。小十郎我等には罷帰べき由御意候條。両人衆へやらい番渡し罷帰候。家老の面々田村月斎我等も御前へ召寄られ。今日合戦大利を得られ候間。以後の覚のため明日会津佐竹陣所へ御働成られるべき由御相談に候。原田休雪申上られ候は。惣別御対陣御無人数にては御大事にて候間。入らぬ義に候へども頻に御対陣と思召れ候條。何れも尤の由申上られ候。御合戦は御つつしみ然るべき由申上られ候へども。今日不慮に合戦大利を得唯今迄残る所なく候。若明日御働成られ。敵は大軍に候間手分けを仕三口四口より合戦を持懸候はば。御人数少にて如何之有るべき由申され候。月斎も休雪申され分尤に存候。今日の御合戦大利を得られ候間御働成られ候にも増申候御覚に候。若御急事も候へば跡々の事ども消え申候間。御働は御無用に存候由申され候。多分月斎。休雪申上られ候通尤の由申上られ候。御働きなされ様にて御合戦無様に覚ばかりに御働然るべき由申上られ候衆も候へども。兎角御大事強候間。相止られ候。其後我等所へ御自筆の御状下され。今日の合戦手柄比類なく候。大軍の勢を取手の内へ追入。定家中数多手負死人も之有るべく候。明日のはたらき臆病異見に任せられ相止られ候事。無念に思召候由仰下され候。岩城常隆公は義重伯父。義広は御従弟に候。政宗公も御従弟に候。天正十三年霜月本宮への御働には常隆公も義重公と御同陣成られ候へども御骨肉の間に御座候間。とかく御笑止に思召候。今度は御出馬無く御無事を御取扱成られ度由にて石川大和殿へ仰合され。義重公は妹聟。政宗公。常隆公。義広公は姪にても双方分難く御間に候へども。其砌は会津佐竹へ御一党にて郡山表に御同陣に候。自岩城佐竹御陣所へは白戸摂津守。伊達御陣所へは志賀かんちう斎差越され御無事の御取扱に御座候。始はかんてう摂津守も双方より人を出しざいを以てまねぎ。をくりを以罷通候。其後は義重公。政宗公へ申上られ。先弓鉄炮打候事相止られ候。取手城の番窪田やらい番も跡々の如く仕候へども鉄炮は打申さず。左候はば八月初に御無事相済。自今以後跡々のごとく御入魂然るべき由常隆公御異見にて。双方より御代官を以御対面成られ候後。大和殿。政宗公御陣所へ御越御会成られ候。佐竹御家中小野崎彦次郎我等所へ使を預り。政宗公へ御礼申度由に候條。御意得候へば会われるべき由御意にて候間。我等陣所へ参られ候を同心申御目見え済申候。其上八月十六日御陣払仰出され。双方ともに御陣を相除かれ候。政宗公は田村の御仕置のため宮森へ御入馬成られ候。

語句・地名など

現代語訳

窪田にも砦矢来をつくるべきであると、久保田の水を外に流し、堀を掘り、土手上垣をお結わせになった。その矢来番をお命じになると言うことになったので、軍団を持っているものたちをくじをするようにご命令になった。浜田伊豆・富塚近江・原田左馬助・遠藤文七郎・片倉小十郎。白石若狭。私たち3人(白石若狭・田村孫七郎・成実)は政宗公の御前にはいなかったので、あとからくじをさせなさった。白石若狭と小十郎、文七郎と富塚近江、左馬助と伊豆、孫七郎と私が一組になった。
すると小十郎は「くじとりのことですが、成実と私を組み合うようご命令してください」と申し上げたので、組を取り替えたので、私は小十郎と同じ番になった。若狭と孫七郎が組むことになった。
総軍の中で、小十郎が相手を嫌って成実と悔い見合わせたのは、この日に合戦がおきるだろうと小十郎が思ったのだろうかと噂になった。7月2日近江と文七郎の番は何事もなかった。3日は孫七郎と若狭が番だったが、無事だったので、4日、小十郎と私のなので、朝早くから窪田へ来て、交代した。陣中では今日は小十郎と成実の番なので、必ず合戦があるだろうということで、早々に仕度をしていた。
そうしているところに、小十郎が私のいるところにやってきたので「御対陣の始まりは郡山が手詰まりになったから合戦になるだろうということになった。もはや道を通るのは不自由になったので、合戦すべきであろう。そうでないのなら、対陣の意味がないのではないか」と言ったところ、小十郎は「もっともではありますが、敵は大軍でありますので、合戦はおおごとになります。通るのは不自由ですが、郡山の手詰まり程のことではないでしょう。手詰まりになるのならば、是非合戦するべきでしょう」と言った。私の家中の遠藤駿河という者が言うことには「敵の砦番をしている平田左京の小旗であります。会津へ細々とした使いに行くとき、非常に仲良くしております」ということを言ったので、小十郎は「ならば矢文を送るように、左京亮の所へ矢文が敵地より送られてきたということがわかれば、疑いの心が生まれ、わるくはないのではないか」と言った。小十郎が考えた文章で、「先年使者として若松へ伺候していたとき、特別に目を懸けていただき、非常に御が深いです。何かと時間が過ぎていったが、戦に同意なさらなかった。今日は非常に戦が起こりそうだと思われたけれども、世上故、お目にかからず、ゆかしく覆います。窪田矢来の番は、小十郎と成実がやっています。政宗直々のご命令と思われます。大変な事かと思います。和睦なれば、貴方の面目も通るのではありませんか」と書き、矢に結びつけ、一人呼んできて、矢を射かけたところ、その矢をとり、内へ入ってまた返してきた。
返事には「仰せの通り聞いているけれども、お会いすることができず残念です」といかにもはやばやと返事が返ってきた。小十郎の想像通り、心配しているのだろうかと思った。その返事を政宗公にお目にかけようと、自分の持ち場へ持って帰った。
そうこうしているうちに永沼の城主新国上総騎馬武者5,6騎・歩行の者100人ばかりを連れて、郡山の南から東へ通った。北の砦と窪田矢来の間を通った。私の担当の場所だったので、戦の中立かと思い、新国上総を砦の内へ押し入れた。
小十郎も同じように手勢を出し、二つの砦からくりだし、戦が始まった。敵勢は残りなく助け合わせ、政宗は手勢をお連れになり、朝5つごろから8つごろまで合戦になった。敵の首は200ほどうちとり、味方も6,70討たれた。
敵の砦へ二回も追い入ったのだけれども、味方はひとしばも取られず、切り上げた。政宗から使いが来て、きっと家中にけが人や死者が出て、草臥れているだろうということで、番の交代に左馬助をおつかわしになり、小十郎と私には帰るようにとの御言葉出会った。二人共の衆は帰るよう仰せだったので、二人へ矢来番を渡して、帰った。家老の面々、田村月斎、私をお召しになり、今日の合戦で、大きな勝利を得たので、後世の印象をよくするために、明日、会津・佐竹の陣所へ戦闘を仕掛けるようにということをご相談なさった。休雪斎が言うには、「とくに対陣するのに、こちらが人数が少ないのは、大変な事出ございますので、無用のことと思います」と言った。しかし政宗がしきりに対陣すべきと仰るので、もっともかと思い、合戦は慎むべきであると申し上げたのだが、今日不意に合戦で大きな勝利を得たため、最後までそれを言うものは居なかった。
もし明日戦闘を仕掛け、敵は大軍なため、分けられて、3方向4方向から合戦を持ちかけられたなら、こちらは少人数なので、どうするべきかと言った。月斎も休雪斎の言い分をもっともだと思った。今日の合戦で大きな勝利を得たので、余計にそう思われたのだろう。もし悪いことがあったとしたら、将来のことも無くなってしまうので、戦闘は無用で思うということを言った。多くの者が、月斎と休雪斎の言いぶんがもっともだと申し上げた。
戦をされ、戦の無様な印象ばかりになってしまうということを言う小野達も居たので、とにかく大ごとになるということで、出陣はおやめになった。
その後私の所へ自筆の書状を下され、今日の合戦の手柄は比べるもののない素晴らしい者だった。大軍を砦の中へ押し入れ、きっと家中のものたちはけが人・死人も多くいるだろう。明日の働きは臆病な意見に押されて中止になった。大変無念であるということを言われた。
岩城常隆公は義重の伯父であり、義広は従兄弟である。政宗公も従兄弟である。天正13年霜月の本宮への御働き(人取橋の戦)には常隆も義重と一緒に戦をしたけれど、御親戚の間柄である。とにかく、大変だと思われた。今回は出馬無く、無事を選ばれたようなので、石川大和昭光へ言い合わされた。
義重公は妹聟、政宗公・常隆公・義広公は名似ても、双方わけがたい関係でおられるけれども、そのころは会津と佐竹は味方して、郡山表に一緒に出陣して居られた。岩城より佐竹の陣所へは白戸摂津守、伊達の陣所へは志賀閑長斎を送られ、無事に和睦をするようになさった。始めは閑長斎も摂津守も双方より、人を出し、幣を使ってまねき、おくりを繰り返していたのだが、その後は義重公は政宗公へ申し上げられ、まず、鉄炮を打つことを止められた。砦城の番、窪田矢来番もあとあとのようにしていたけれども、鉄炮は打つのを止めた。
すると8月始めになって和睦が成立した。これからは昔のように仲良くするべきであるという常隆の意見なので、双方から代官をだして、面会したのち、石川大和は政宗の陣所へ来て、お会いなさった。
佐竹家中の小野崎彦次郎は私の所へ使いを送って、政宗公へお礼申し上げたいと言ってきたので、政宗がそうしたいのであれば会いたいとのことだったので、私の陣所に来ていたところ、私も一緒に行って、御目見得しました。その上8月16日、陣を払うようご命令になり、双方とも陣を引き払いました。政宗公は田村の仕置きのために宮森へ入られました。

感想

以前くじびきと小十郎というエントリーを書きましたが、そのときの戦の話です。
小十郎というか、片倉一家は、成実と親しいなあという印象があります。このくじ引きで相手を替えさせたことは家中で噂になったということなんですが、白石若狭はどう思ったのかな…気になります(笑)。

『伊達日記』54:郡山合戦

『伊達日記』54:郡山合戦

原文

一天正十六年六月十日比佐竹義重公。会津義広公仰合られ。岩城常隆公の人数五百騎御加勢。彼是安積へ御出馬候。政宗公聞召され。高倉か本宮へ働かしめられるべき由思召され。十二日宮森を御立二本松の杉田へ御馬を移され候。本宮へ御働候而。杉田より助の御人数指曳く仰付らるるべき由にて御在馬候へども。一円御人数少に候。子細は最上。大崎。相馬御敵に候間。其境は助懸之衆迄御人数一人も呼ばしめられず候。佐竹の人数四千騎之有るべきかと申唱候。初日に悪戸へ御働。其後郡山へ御働候而本宮へ御働はこれなきよし思召され。惣人数はたかくらに差置かれ政宗公。窪田山王山へ両日召上られ御覧成られ候。しかる処に佐竹あいづの野陣郡山近所へ相寄せられ近々と働候。右より郡山警固為しめられ鉄炮二百挺馬上卅相籠められ候。奉行大町宮内少輔。中村主馬。塩森六左衛門。小島右衛門遣わされ候。太斉金七は物頭には之無く候へども申請入候。其時分は山への通路も能候間郡山太郎左衛門参られ。郡山は近陣せしめるべきかと見え候。去りながら今に取詰られ候儀はこれなく候。左様の儀候はば追而申し上げるべき由申され罷帰られ候。翌日ははたらき候而西の台に土山を二つ築。小旗を立。町を見下鉄炮打候。此方よりも近陣と見え候と何も見申。郡山よりも左様に申上られ候に付。十四日に山王山へ御出御覧成られ。安積山にて御相談にて。御評定の衆は桑折点了。小梁川ていはん。白石若狭。我等。浜田伊豆。原田左馬助。富塚近江。遠藤文七郎。片倉小十郎。伊藤肥前。原田休雪。以上十一人。点了。ていはん。本は似合に候。子共名代相渡御相伴。又御弓矢の御相談衆に候。伊豆左馬助。近江文七郎は御宿老にて候。文七郎親山城は輝宗公御代に出身仕候。御親子御弓矢の時分御洞取みだし候を山城分別を以取納候。然る処に輝宗公不慮の御他界の砌。山城は煩にて御供仕らず候。御葬礼の一日前追腹仕候。文七郎は其子にて十七歳に罷成候。政宗公仰せられ候は。郡山近陣と相見え候。落城うたがいなく候條、御対陣成らるべき由思召され候。如何様に存ざれ候哉と御意候。点了申上られ候は。御尤に候へども敵は多勢。味方は六百騎には御過申さず候とて御対陣成らるべく候。若御陣所へ合戦を仕懸候はば勝利を失わるべく候由申上候に付。多分点了申さるる分尤の由申され候間。其日は落居申さず候。十五日に政宗公山王山へ御出御覧成られ候。又御相談候て。御意には山王山へ召上られ候間。敵御小旗を見知申すべく候條。郡山落城仕候はば御家の疵に成候。御弓矢の勝負を以御滅亡は世上の習に候間。是非共御対戦成らるるべき由仰出られ候。ていはん申上られ候は。相馬義胤田村を御取有るべき由思召。多分田村衆引付られ候。御本丸の御北様も仰分られ候へども。橋本刑部一人切腹を存詰。御本丸へ参。義胤を入申さず候故御取様候へども。各申組候衆は手切をも仕らず。今に城を持御後に差置かれ御対陣御物体無く候。去りながら大利成らるるべき御見当も候ば是非に及ばぬ由申され候。御意には。窪田。福原。高倉引続味方に候。縦田村の内にて悪事出候へども大川を隔。其上窪田。福原。高倉。郡山城主共人質を取候対戦極候者城を持替。手前の人数を以抱えるべく候。本宮二本松は成実抱候間機遣無く候。縦陣破候とも本宮迄卅里の道に候間。引除候とも急事有間敷候。是非共御対戦と思召さるる由御意候。御尤と存衆も候。又如何と申衆も候へども。名に疵付候より滅亡是非に及ばぬ由仰出され候間。是非申せられず候。左馬助申上らる者。左候者御陣場何方に候はん。伊豆申さる様に。沢沼を後に当面の原に御陣成られ然るべき由に候。肥前申され候は。大軍小勢弓矢作法は小人数にて場好に御陣然るべからず候。悪所を当若合戦に利を御うしなひ候はば除口の能地形を御見当然るべく候。大軍取廻働かれ候はば、御合戦成らるにて之在るべく候間。窪田を前にあて福原の前に御陣成られ候はば御合戦も成られ能之有るべき由申され候。小十郎も肥前申され候御陣馬然るべき由申され候。伊達申され候は。山王山へ上はたらき候はば御無人数を見切られ候はくるしからず候。合戦成られ能地形然るべく候。福原前は縦合戦に越度御取候共。福原へ御引籠候へば近々由申せらるに付福原前に落居仕候。肥前申され候は。今度御対陣なされ候はば。郡山の御助に候間御合戦は返々御無用之由申され候。政宗公仰せられ候は。肥前申処尤に候。敵は大軍。味方は小勢に候間合戦は入らぬ儀候。去りながら郡山筋に対陣を張。彼地落城候ては面目無き儀に候間。郡山の手詰により有無の合戦を成られ。郡山衆を窪田へ引取べき由仰られ候に付而。何も御意尤に候。末には有無の御合戦成らるべく候。若御合戦之無き儀目出度ことに之有るべき由申され候。彼肥前は名誉の者にて惣団扇休雪。肥前に仰付られ候者に候。窪田の城は飯坂右近。大嶺式部。福原の城へは瀬上中務。高倉の城へは大條尾張遣はされ候。本丸を請取べき由仰付られ候。明日御対陣と仰出られ候。其晩本宮に御在馬。十六日未明に打出られ福原前へ御備を立られ。それぞれに陣場割を仰付られ候。我等に御直に御意成られ候は。働候者山王山続に之有るべく候。窪田の方は植田にて水懸り候間一戦候とも成間敷候。其北の方原つづきにて場能候間彼口より仕懸べく候條。其所陣所に仕るべく候由御意に候間罷越見申候へば。御意の如く之原つづきにて一戦場此筋之有るべき由存候間。人数を繰出し陣場割仕候処。郡山。窪田の間へ働候敵の人数引返。山王山より段々に押備を立。一戦を持懸候へども。御無人数にて合戦大事之由何も申され候間。我等備より一人も出ず候故合戦之無く引上られ候。陣場の前に用水堀御座候を当に取。其日は陣屋をも懸けず。二重に五尺あまりに芝築地を付。明日働之有るべきかと相待候処に。十七日にも働之無く候間。又二重の築地を八尺計につき。陣場の廻を堀二重に堀懸日暮候。十八日普請打立候処に働御座候間。仕度致罷出。二重の築地の内にそなへを相立候。水田の前は田村孫七郎殿。同月斎。片倉小十郎陣場に候。味方も武立我等の陣場。田村衆。小十郎陣場の後へ惣備を打出られ候。敵一戦を持候て。会津の者に尾能因幡と申者人数二三百召連。山ノ根用水堀を埋させ路を扱候間。我等家中に鉄炮能打候もの八人申付打申すべく候。若敵参候はば構わず引除候へと申付候に。二三度参打候へば因幡腕へ当り引上候。其後は普請も仕らず。惣の鉄炮にてつるべを打たしめ引上候。保土原江南。浜尾善斎。其砌は会津へ奉公候間。先手を申され候衆に候。須賀川破候砌より政宗公へ御奉公申され候が。物語にて承候は。十七日にも御働有るべく候へども。三日の御働に人数も草臥候間。一日御休息候て十八日有無の御合戦と思召候処に合戦場と思召候地形に築地を築。堀をほり。城のごとくに相構え候間。先路次を造り候へと尾能因幡に仰付られ候。須賀川衆に先手を仕るべき由仰られ候。須田美濃。矢部下野。保土原江南。矢田野伊豆。浜尾善斎。何れも申され候は。敵の陣場普請も之無く候者。御先手を申衆候ても一仕候か。二重三重の普請と見え候処へ。何とも仕懸申べき様之無き由申上られ候。重而義重仰られ候は。縦者普請候共敵小勢に見え候間。御合戦に大利をえられぬ義はある間敷候。是非御先手を仕るべき由御意に候。重而須賀川衆申され候は。縦須賀川衆打死仕候ても。御合戦に大利を得られ候様に能にのみを仰付られ候はば御先手仕るべき由申上られ候。義重公会津衆を仰付らるべく候由御挨拶に候。須賀川衆は岩城衆を仰付られ然るべく候。左なく候はば御先手仕間敷由申され候。義重仰付られ候は。岩城衆は此度首尾計を以加勢に差越され衆をのぞみ申候は難題に申上候。是非共先手仕べき由仰られ候へども。何と御意候とも迷惑之由申され候。今日の御合戦相止られ然るべく候。成実陣場堀の如く普請を致候。南は窪田水かかり候而ひた白に候間旁御合戦成られ苦敷候。其上合戦始候はば窪田郡山よりも罷出べく候。押へは差置られ候へども。両所より罷出跡にて合戦候はば。御先手の戦仕苦に之有るべく候間相延られ。近々御取詰然るべき由申され候に付尤之由存ざれ。義重へ其通申上られ候に付。御合戦は相止。惣の鉄炮を集つるべを御打たしめ引上られ候由物がたり申され候。十九日二十日は何事も之無く郡山へも自由に通路を仕候。廿一日に敵足軽に奉行計付置られ。郡山と窪田の間少堀を堀鉄炮を差置。郡山の構鉄炮を打懸候間通路を仕苦成候。廿三日敵惣手を郡山窪田の間へ打下。取出の城を普請成られ候。政宗公も窪田へ御出馬候へども御人数無き間其防も成られ候。伊達上野足軽を少出し端合戦候。大和田佐渡御旗本衆に候へども罷越合戦に会。鑓疵太刀疵を請高名仕候。御法度背候間曲事にも仰付らるるべきかと存候処。比類無く仕候條御免成られ候而其日首を御覧成られ候。敵取出へ人数を籠置候間。通路不自由に成候。又廿六日に敵惣人数を打出。廿七日に取出成られ候。東の方に又取出の普請を成られ。定番に片平助右衛門を差置かれ候。其上会津四人の家老衆。日替の番手に居申され候。我等申上候は。御陣取の時分御合戦御無用之由何れも申上られ候へども。郡山通路へ取出の城を二つ築候へば。早通路成らず候間御合戦然るべく候。縦少の内は候とも御対陣の験之由申候へば。休雪。肥前抔申され候は。若候故左様の義申され候。此御人数にて何とて御合戦成らるるべく候哉。返々合戦と存間敷由申され候間是非に及ばず候。さりながら見合申度存候へども仕合無く罷過候。

語句・地名など

悪戸→阿久土
太斉→太宰

現代語訳

一、天正16年6月10日ごろ、佐竹義重公と会津義広公が言い合わせ、岩城常隆公の郡500騎の援軍を引き連れ、安積へ出陣なさった。政宗公はこれをお聞きになり。高倉か本宮への働きかけをするべきであると思われ、12日宮森を出発し、二本松の杉田へ移動なさり、本宮へ戦闘をしかねなさった。杉田からの援軍の差引もあるだろうと杉田に居られたのだが、この辺りは手勢が少なかった。
というのも、最上・大崎・相馬と敵対しているので、その境は援軍の衆まで一人も呼ぶことは出来なかった。
佐竹の軍は4000騎ほど有るのではないかと言い合った。初日に悪戸というところに出られ、その後郡山へ出られ、本宮への出陣は無いだろうと思われ、総軍は高倉に差し置かれていた。政宗は窪田の山王山へ二日間登られ、地形を御覧になった。
そのうちに、佐竹・会津の野陣が郡山の近所から戦闘をしかけていた。
なので、郡山の警固をさせた。鉄炮200挺、騎馬武者30を籠もらせた。
奉行は大町宮内少輔・中村主馬・塩森六左衛門・小鳥右衛門を遣わされた。太宰金七は侍大将ではないけれども、請うてきたので籠もらせた。
そのときは山への通路も自由だったので、郡山太郎左衛門が来て「郡山は近くに陣を敷くべきであろうと思われる。しかし、今に取り詰められることはないだろうが、そうなったら追って申し上げます」と言って、帰った。
翌日も敵は動いたので、西の台に土山をふたつ築き、小旗を立て、町を見下し、鉄炮を打った。こちらからも近陣となるだろうとみなそう思った。郡山もそのように言われたので、14日に山王山へ出馬なされて、様子を御覧になった。安積山にて相談をしたのだが、そのときの評定衆のメンバーは、桑折点了斎宗長・小梁川泥蟠斎盛宗・白石若狭宗実・私・浜田伊豆景隆・原田左馬助宗時・富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信・片倉小十郎景綱・伊東肥前重信・原田休雪斎の以上11人であった。
点了斎と泥蟠斎はもとは本家に仕えていた者だったが、子どもの名代として御相伴衆になっており、また戦の時には相談衆であった。浜田伊豆・原田左馬助・富塚近江・遠藤文七郎は、宿老であった。文七郎の親は輝宗公の時代に出世したものである。晴宗と輝宗が戦をして、非常に御親戚の中が乱れたときに、遠藤山城基信の裁量でうまく収まった。そして輝宗公が不慮の事件によってお亡くなりになったときに、基信は病により、御供出来なかった。葬式の一日前に追い腹をした。文七郎はその子で、17歳になったところであった。
政宗公は「郡山近陣となるだろう。落城は間違いないので対陣はろうと思うが、どう思う」と仰られた。点了斎は「もっとものことでありますが、敵は多く、味方は600を越えるかどうかなので、対陣するのであれば、もし陣所へ合戦を仕掛けるのであれば、勝利を失うだろう」と申し上げた。
おおかたの者は点了斎の言い分を尤もと思われたので、その日は落城はしなかった。
15日に政宗公は山王山へ出馬なされて、地形を御覧になられた。また相談なされ「山王三へ登ったところ、敵の小旗を見た。このまま郡山が落城したならば、家の疵になるであろう。戦の勝敗を以て滅びるのなら、それは世の中の習いであるので是非とも戦いをするべきである」と仰られた。
泥蟠斎は「相馬義胤田村を取りたいと思われ、田村の者たちは大部分が引き付けられている。本丸の北の方も言いくるめられているが、橋本刑部一人が切腹を思い詰め、本丸へ上がり、義胤を入れなかったため、城を取ろうとなさったが、それぞれ言い合わせた者たちは手切れにもならなかった。今に城を持ち、のちに差し置かれ、対陣されるのは勿体なく思います。しかし、大きな利を得られるであろう目星があるのなら、仕方ない」と言った。政宗は「窪田・福原・高倉は引き続き味方である。たとえ田村の領内で好くないことがあっても、阿武隈川を隔て、そのうえ窪田・福原・高倉から郡山の城主たちの人質を取っているので、城を持ち替え、手勢に加えるべきである本宮・二階堂は成実の両地であり、心配はない。たとえ陣が破れたとしても、本宮まで30里の距離であるので、退いたとしても危険なことはないだろう。ぜひ対陣を」と思っていると仰られた。もっともであると思った者たちもいた。また、それはどうかと言う者たちもいたのだが、家名に傷が付くよりは、滅亡の方がよいと仰せになったので、どうしてもと言う者はいなかった。
左馬助は「そうであるならば、陣場は何処になるるのでしょうか」と言った。伊豆は「沢沼を後ろに、前の原に陣をひくのがよいのではないか」と言った。伊東肥前は「大軍と少人数の戦の作法があり、少人数でよい場所に陣を引くのは間違っている。足場の悪いところに陣を引き、もし合戦していて利がないと思われたら、退く道がきちんとある土地を見つけなくてはいけません。大軍がとりまわして戦をしかけられたならば、合戦になるだろうから、窪田を前に、福原の前に陣を引くのであれば、合戦も上手くいくであろう」と言った。小十郎も「肥前のいうとおり出馬なさるのがいい」と言った。伊達(伊豆の誤字と思われる)は「敵が山王山へ働いたなら、こちらの人数が少ないのを見極められるのことが心配である。合戦になったとしてよい地形を選ぶことが大事であります。福原の前はたとえ合戦に利がなくとも、福原へ引きこもり、籠城するならば、近いです」と申し上げたので、福島前に落ち着かれた。
肥前は「今回対陣なされるのは、郡山を助けるためであるので、合戦は無用である」ということを申し上げた。
政宗公は「肥前の言うことはもっともである。敵は大軍。味方は小勢であるので、合戦はするべきではない。しかしながら、郡山筋に対陣を張られ、かの地が落城してしまっては面目がないので、郡山の手詰まりにより、仕方のない合戦となった。郡山衆を窪田へひきとるよう」と仰られた。みなそのお考えはもっともであると思った。そのため避けられない戦になるだろうと思われた。
「もし合戦にならないのであればめでたいことである」と言った。この肥前は非常に武功の者であるので、総軍の指揮を休雪斎と肥前に仰せ付けられた者である。
窪田の城には飯坂右近宗康・大嶺式部信祐、福原の城へは瀬上中務景康、高倉の城へは大條尾張宗直をおつかわしになり、本丸を受け取るように仰られ、明日対陣であると仰られ、その晩は本宮に在陣なさった。
16日未明に出発され、福原の前に備えをお立てになり、それぞれに陣場割りを命じられた。政宗が、私に直接「きっと働きは山王山の続きにあるだろう。窪田の方は植えられた田んぼで、水が入っており、戦には成らないだろう。その北の方は草原が続いて、場所がよいので、この方面から仕掛けるべきだろう。そこを陣所にするべきだろう」と仰ったので、そちらへ行き、見てみたら、仰るとおり野原の続きであったので、戦場はここのあたりであるだろうと思われた。人をくりだして、陣場割をしたところ、郡山・窪田のあいだへ向かっていた敵の軍勢が引き返してきて、山王山よりじょじょに押してきて、備えを立てた。一戦を持ちかけたが、こちらは人数が少ないので、合戦の方が大事であるとみな言っていたので、私の備えからは誰も出ず、合戦とはならず、敵は引き上げた。
陣場の前に用水堀があったのをちょうど使い、その日は陣屋も立てず、二重に5尺あまりに芝築地を作った。明日働きがあるかと待っていたのだが、17日にも戦闘は無かったので、また二重の築地を8尺ほどに作り、陣場の周りを堀を二重にして、日が暮れた。18日も普請をしていたところに、働きがあったので、仕度をして出発した。二重の築地の植えに、備えを立て、水田の前には田村孫七郎宗顕、田村月斎顕頼、片倉小十郎景綱の陣場となった。味方も私の陣場に立ち、田村衆や小十郎も陣場の後ろへ総備えを展開した。
敵は一戦を持ちかけてきた。
会津のもので尾能因幡と言う者が、手勢を2,300引き連れ、山のふもとの用水堀を埋めさせ、道を作ろうとしたので、私の家中で鉄炮に優れたもの8人を呼び、打つようにと命令した。もし敵が来たなら、構わずに退くように言いつけたので、2,3度打ったところ、因幡の腕に当たり、引き上げた。
その後は普請も為ず、すべての鉄炮を使い、つるべ打ちにして引き上げた。
保土原江南行藤・浜尾善斎という、そのころ会津へ奉公していたので、先陣を任されていた者であったが、須賀川が落城した頃から、政宗公へ仕えるようになった者が語っていたのは「17日にも働きがあるように思っていたけれども、3日の働きに、兵達もくたびれたので、1日お休みになって、18日に不可避の合戦となるであろう」と思われ、合戦常と思われた地に築地を築き、堀を掘って、城のようにそなえたので、先ず路地をつくろうと尾能因幡に命令した。須賀川衆に先陣を任せるよう仰ったので、須田美濃・矢田野伊豆・浜尾善斎のいずれもがいったところによると、敵の陣場普請もなかったので、先陣を仰せったのだろうか。二重三重の普請と見えたので、どう仕掛けることができなかった」と言っていた。重ねて、義重は「たとえ普請していても、敵は小勢であるので、合戦になれば勝利を得られないことはない。是非先陣をしよう」と仰られた。須賀川衆が重ねて「たとえ須賀川の衆が討ち死にしても、合戦に勝利をえられるようにご命令いただくのであれば、先陣を我々に」と申し上げた。義重公は「会津衆に」と仰せになった。須賀川衆は「岩城衆を」と言った。「そうでないのならば、先陣は請けない」と言った。義重は「岩城衆はこの度始めと終わりだけを以て加勢に付けられたものたちなので、先陣を申し付けるのは難しい」と仰ったので、「どのように思われても、困ります」と言った。
成実の陣場は堀のように普請を行い、南は窪田の方は水びたしになっていたので、合戦になったならば、苦労するだろう。その上合戦が始まったならば、窪田・郡山より、援軍が出てくるだろう。押さえは差し置かれるだろうが、両所から軍が出てきて合戦となるならば、先陣の戦は大変苦しいものになるだろうと思われたので、延期になり、近々取り決めるよう仰ったので、もっともであると思われ、義重へその通り申し上げられたので、合戦はやんだ。
すべての鉄炮を集め、連射させて、引き上げたことを語った。
19日20日は何事も無く、郡山までも自由に通ることができた。21日は敵足軽に奉行のみ付けて、郡山と窪田の間に小さな堀をほって、鉄炮隊を置いた。
郡山の構えは鉄炮を打ちかけたので通ることが難しくなった。23日敵は総軍を郡山・窪田の間へ打ち下し、砦となる城の普請を行った。
政宗公も窪田へお越しになったが、手勢が少ないため、防御され、伊達上野政景の足軽を少しだし、小さな合戦になった。大和田佐渡は旗本衆であったのだが、やってきて合戦に出くわし、槍傷・太刀傷を請け、功名を立てた。法度に背いたので、罰があたえられるかと思っていたところ、比べる者がない功を上げたので、政宗公はお許しになって、その日取ってきた首を御覧になった。
敵は砦へ手勢を置いたので、通ることが不自由になってしまった。
また26日に敵の総軍が出発した。27日に砦が完成した。東の方にまた砦の普請をし、常の番に片平助右衛門を差し置かれた。そのうえ会津四人の家老衆は日替わりの番になった。
私が「陣をとるとき、合戦は無用といずれも申し上げていたけれども、郡山への通路へ砦の城を二つ築けば、すでに通ることはできないので、戦になっていただろう。たとえ少しおくれても、対陣をするべきである」と申し上げると、休雪斎と肥前は「若いのでそのようなことをいうのだ。この人数でどうやって合戦ができるか。返す返す合戦とならないように」といったので、仕方なかった。しかし戦を仕掛けたかったのだが、しかたなく日は過ぎた。

感想

最後の所、一族の長老たちに若さを理由に諫められ、それを不満に思っていたことが書かれ、『政宗記』の方でも「21歳の6月、若輩心の愚案にて対陣の効なるに、是非防戦をと睨べけれども其時節なくして未待暮候」とあり、不満であったことが書かれています。

『伊達日記』53:大越紀伊退治の訴え

『伊達日記』53:大越紀伊退治の訴え

原文

田村月斎。梅雪。右衛門大輔。橋本。宮森へ参られ。小十郎。伊藤肥前。原田休雪を以申上られ候は。大越紀伊守事始より田村へ出仕仕らず。今度の謀逆も止候。彼二人引こもり居申候。彼城を取消され候様に仕度由申上られ候。御意には。急而大越仕様共具聞召され口惜思召され候去りながら一働にて落城仕義計がたく思召され候。左候へば佐竹義重安藝*1表へ近日御出馬之由聞召され候間。若彼城に御手間を取られ。其内義重出馬候はば彼城巻ほごされ候事如何に候間。御はたらき成らるまじき由御挨拶に候。又々申上候は。佐竹殿は御出馬必候はば御近陣持は御無用に候。一働は成られ下さる由にて我等を呼ばしめされ候間。本宮より宮森へ参候へば田村衆大越働かるべき御訴訟申上られ候。近日義重安藝表へ出馬之由聞召され候間。其の身を御代官として大越へ御働成らるるべく候間。罷越すべく候由仰付られ候。安積筋へは義重御出馬之儀承らず候。何方より申上られ候哉と申上候へども。御前の衆相相払われ須賀川須田美濃所より申上候由御意に候。拙者申候は。存之外に候。美濃は無二佐竹へ御奉公之由承候。扨は此方へ申寄られ候哉と申上候へば。両度人を遣候。初の筋は悪候間機づかひ候。重而も御意に候はば此筋を以仰下さるべき由申上候而。佐竹義重の出馬の儀も申上候而。其砌石川大和より八大と申山伏を飛脚に差越され候。其山伏に御たづけなされ候も右の通申候。和州よりは其沙汰之無き由御意候。則罷帰両日仕度申舟引へ罷越。大越の働候請町構引籠。二三の枢計持候間。此方よりも仕様べき之無く引上候。政宗公も御隠候而御出なされ候。然る処に小野鹿俣の人数東より働候。北の伊達衆引上候付而鹿俣衆へ出合。合戦候而頻に鉄炮の音仕候間。惣人数を打返。内々人数を押切候間方々へ追散。頸三十計取上引上候。翌日政宗公。宮森へ御帰る。御人数も相返され候。

語句・地名など

安藝→安積の間違い?

現代語訳

田村月斎・梅雪・右衛門大輔・橋本刑部少輔は宮森に来た。片倉景綱・伊藤肥前・原田休雪を通じて「大越紀伊守は始めから、出仕していない。今回の裏切りも来なかった。この二人は引きこもっている。彼の城を取り消したい」ということを申し上げた。
急いで大越のしたことの詳細をきき、口惜しく思われていたけれど、ひと働きのみにて落城したことがわかりがたいと思われた。すると佐竹義重安積方面へ近日中出陣されるとお聞きになったので、もし彼の城に手間をとられ、そのうち義重が出陣なされたなら、彼の城をまきほごされるとしたらどうだろうかというので、働きはしないようにとのおことばであった。
またまた申し上げたのは「佐竹どのが出陣必ずあるのならば、近陣をする必要は無いけれども、ひと働きをしてください」とのことで私をお呼びになったので、本宮から宮森へ参上すると、田村衆から大越紀伊が戦闘をするだろうと訴えられた。
近いうちに佐竹義重が安積方面へ出陣するだおるとお聞きになったので、今回は代官として大越へ戦闘を仕掛けるべきであるので、こちらへ来るようにと仰せになった。
安積方面では義重の出陣のことは聞かれなかった。どこから聞かれたのだろうかと申し上げると、周りにいた者たちを下がらせ、須賀川の須田美濃から連絡があったと仰った。私は「想定外であった。美濃は佐竹に無二の奉公をしていると聞いていた。さてはこちらへ内通しているのか」と申し上げたところ、二度を使わし、初めのうちは上手くいかないだろうと思い、心配していたが、何かがあったら、この筋を使って伝えるようにと申上、佐竹義重の出陣のことも言ってきた。
その頃石川大和から八代という山伏を飛脚として送られてきた。その山伏にお尋ねになったことも、その通りであった。大和からはその様子もないとの知らせであった。すぐに帰り、二日間で仕度し、船引へいうところへ行った。
大越の働きを請け、町構えは籠城していた。2,3曲輪を保っていたので、こちらからもするべきことがなく退いた。政宗公もお隠れになって出陣なさった。そうこうしているところに、小野・鹿俣の手勢が東から攻めてきた。北の伊達衆が引き上げたので、鹿俣衆の軍勢と出会い、合戦になった。頻りに鉄砲の音がしたので、総軍を引き返し、内々の手勢を押し切ったので、ほうぼうへ散っていった。首を30程取り、引き上げた。
翌日政宗は宮森へ帰った。軍勢も返された。

感想

田村衆の大越紀伊退治への訴えです。やっぱり会議中の描写がおもしろいと思います。

*1:安積

『伊達日記』52:田村衆の参上

『伊達日記』52:田村衆の参上

原文

月斎。刑部少は申に及ばず。梅雪。右衛門大輔其外相馬へ申合候衆も表立候衆の分宮森へ参。石川弾正御退治成られ。田村迄かたまり目出度由申上られ候。其内常盤伊賀守各相談の砌伊達へ頼入るべき由申出候付。何も其に落居の由聞召され御大慶に思召され候由御意にて金のし張の御腰物下され候。

語句・地名など

現代語訳

月斎・刑部少輔はいうに及ばず、梅雪・右衛門大輔その他相馬と申し合わせていた衆も表だった者たちも宮森へ参り、政宗が石川弾正を退治なさったので、田村まで団結し、めでたいことだと仰られた。そのなかに常盤伊賀守はそれぞれ相談をしていたとき、伊達へ頼るべきであると言っていたので、みなそれをもとに落城したと政宗はお聞きになり、大変お喜びなされたので、金熨斗張りの刀をお与えなされた。

感想

合戦後の後始末。これが政宗22歳のときのことです。

『伊達日記』51:相馬の田村攻め失敗

『伊達日記』51:相馬の田村攻め失敗

原文

相馬義胤築山に御座候間、其内弥田村衆申合られ御北様へ御内談と相見え候。五月十一日義胤従御使之由申候て。相馬家老に候新館山城。中村助右衛門と申者三春へまいり。其夜町にとまり申候。いづれも下々に申唱候は。伊達衆をも相馬衆をも三春へ入間敷由申定られ。両人衆参られ候は。明日義胤御見廻候様に御出城を御取成られ候由申候。十二日早天に山城助右衛門城へ罷上候。刑部少は切腹と存詰未明に参。三人共に奥方へ参酒をひかへ居申候。刑部少のものども五人三人宛鉄炮弓鑓武具持候而城へ入候。月斎。梅雪。右衛門太輔は参られず候。助右衛門。山城者も五十人計城へ参候へども道具は持たず候。義胤御出候由申に付。内へ入候者ども役所付候様に居候。梅雪其時城へ上申され候。奥方より刑部罷出られ候。義胤者城の下迄召懸候。宵より大越の人数城の東の林の内深き谷へ七八百程鉄炮弓鑓を持引付置候。然る所に刑部少輔。梅雪の手を取。兼て伊達衆をも相馬衆をも入間敷由仰合され。義胤を入御申之在るべき哉と申候へば。梅雪いやいや入申間敷由申され候。兼而梅雪も御見廻候様にて城を取らせしむ申すべき由申合為しめられ候へども。刑部少大功の者に候間入申すべき由申候はば即打たるるべきと存ぜられ。入間敷とは申され候と見え申候。刑部少其言に付具足を着申候に付。何も城へ入由者ども武具を着もふし候。義胤城半分程召上られ候処に。鉄炮弓を打懸防候間。御供衆三十騎計袴懸にて召連られ候へども罷り成らず。義胤御馬の平頭に鉄炮あたり。其より召廻し東の小口へ御出候へども。彼口も其通殊に地形悪候故成らず候。御跡に馬上三百騎余武具にて鉄炮も多く召連られ候へども遅候而用立たず。築山へも御帰無く直に相馬へ引除かれ候。大越伊賀守*1罷出御立寄られ候へと申候へども直に御帰候。新館。中村は城にて討たるるべきかと存候て。ケ様に御色立有るべき義になく候。御出御無用之義申すべきとて足早に出候を。鑓を付懸候へども。刑部少無用之由申候て押出。城は堅固に持候。田村より若狭所へ其段申来候間。早馬を以大森へ申上られ候條夜の四つ過ぎに相きこえ。則御早打成られ。若狭居城宮森へ翌日五つ時分召着れ。伊達信夫之人数参築山へ両日御働成られ候。田村に人数入候儀計難き由御意にて我等は十二日白石へ早打仕。そのまま指置かれ候間両日御供申さず候。十六日に小手森へ御働候間。参るべき由仰下され候條小手森へ参候処に。城を召廻御覧成られ。御責成らるべき由仰付られ。我等は築山より助の押へに差置れ候。其外の御人数御旗本衆迄相放られ。御責成られ候而落城仕放火なされ候。今度は取散に仰付られ宮森へ打返され。翌日田村の内大蔵と申城田村右衛門弟彦七郎と申衆居申され候。心替申候衆数多候へども手切れ申されず候。此彦七郎は築山へ節々参。今度義胤三春へ御越候御供も仕候而彦七郎城を御責なされ候。小口懸を成られ。町へ引こもり候から家も十計焼せられ候へども。内より一騎一人罷出でず。脇より助の衆も之無く候処に。卜雲と申田村より出家参られ候。彼出家を以月斎我等頼入御侘言申され罷出らるべきに落居申候へども。日暮候て宮森へ打返され候。惣人数はにしと申所に野陣仕候。つぎの日は石沢に相馬衆こもり候。御働成らるべき由打出られ候処に。彦七郎罷出られ候事おそく候間。御蔵の道つるいに惣手備を立罷出ず候者御責成らるべき由仰付られ候処に。彦七郎罷出御目見え申され。石沢への御先手致され候。石沢は田村の内にて小地に候へども。城能相馬衆相抱候而人数も多見え候間。近陣成らるるべき由にて其夜は西と申城。若狭抱の地へ御在馬成らるるべき由仰付られ候処。然るべき家之無きに付俄に東の山に御野陣成られ候。然る処に大雪仕。何も迷惑申候処に築山に火の手見え候間物見を遣候所。築山引除候而一人も居らぬ由申上候。石沢も除くべき候間いそぎ人数つかはされ候処に。軍勢参らず候。先に引のき候弾正親居候とうめきも引除候。弾正抱の地のこりなく落居。田村の内二ヶ所相済。宮森へ打返され御在馬なされ候。

語句・地名など

早天:夜明けの空。夜明けの頃。早朝

現代語訳

相馬義胤が月山にいらっしゃるので、その内ますます田村の者たちは申し合わせて北の方と内々の相談をなされたようだった。5月11日に義胤から使いを送って、相馬家老である新館山城・中村助右衛門という者が三春へ来て、その夜は町に宿泊した。下々の者たちは「伊達衆も相馬衆も三春へ入れないという事を定められたというのに、二人の使いが来て、明日義胤が見廻りに来るのであれば、城をお取りなさるつもりなのだろう」と言いあった。
12日の早朝に山城と助右衛門は城へ登った。橋本刑部少輔は切腹すると思い詰め、未明に登城した。三人共に、奥の方へ来て、酒を控えていた。刑部少輔の手下の者太刀は5人3人ずつ、鉄炮・弓・鑓といった武具を以て城へ入った。月斎・梅雪・右衛門大輔は来なかった。助右衛門と山城は50人ほど城へ参上したのだが、武器は持っていなかった。義胤が出発したと聞いて、城内へ入った者たちはそれぞれ役目についていたようである。梅雪はそのとき城へ上った。奥の方から刑部少輔が出てきた。義胤は城の下まで取りかかっていた。夜の内から大越の手勢が城の東の林の中の深い谷へ7,800ほどの鉄炮・弓・鑓をもち、持たせ備えておいた。
すると刑部少輔は梅雪の手を取り、かねてから伊達衆も相馬衆もどちらも入れるべきでないということをお約束され、義胤を入れるべきではないのではないかと言ったところ、梅雪は絶対入れるべきでないと言った。かねてから梅雪も見廻りのようにして城を取るべきであると語らいあっていたけれども、刑部少輔は武功の者であったので、聞き入れたならすぐに討たれるであろうと思い、入れてはいけないと言ったと思われる。刑部少輔はその言葉を聞いて、具足を着けたので、みな城へ入った者たちは鎧を着用した。
義胤が城なかほどまでに入られているところに、鉄炮・弓を打ちかけ防ごうとしたので、義胤の御供衆は30騎ほどいたが、袴を着ていたので連れてこられたけれども役に立たなかった。義胤の馬の平頭に鉄炮があたり、引き返し東の小口へ出られたけれども、その入り口も特に地形が悪かったため、脱出できなかった。その跡に鎧武者300騎余り鎧を着て鉄炮衆も多く引き連れて来たのだが、遅れ役に立たなかった。月山にもお帰りにならず、直に相馬へ退かれた。
大越紀伊守は義胤に立ち寄りくださいと言っていたのだが、直接お帰りになった。新館・中村は城の中で討たれるだろうかと思い、このように大がかりになるとは思わなかったため、入るのは止めておくべきと思い、足早に然られたのであろう。
鑓をつけかけたけれども刑部少輔は無用であると下知し、押し出し、城は堅く守られた。
田村から白石若狭のところへその様子をいいにきたので、早馬を使って大森へ申し上げたところ、夜の四つすぎにお聞きになり、すぐに出発なされ、若狭の居城宮森へ翌日の五つ頃に御到着なさった。伊達・信夫の手勢が来て、月山へ二日間戦闘をしかけられた。田村に手勢を入れることは難しいとお思いだったので、私は12日白石へ出発し、そのままそこにいるよう言われたので、二日間とも御供はしなかった。
16日に小手森へ戦闘するので、来るようにと言われたので、小手森へ参上したところ、政宗は城を廻り御覧になられ、攻撃するよう仰られた。私は月山から援軍が来たときの押さえにさしおかれた。その他の手勢や旗本衆まで放たれ、城をお攻めになられたので、落城し、火を付けられた。今回は撫で切りではなく、取り散らしにするようにと仰って、宮森へお帰りになられた。翌日田村のうち大蔵という田村右衛門の弟彦七郎という者がいた。心替えするものが多く居たけれども、関係を壊すほどではなかったが、この彦七郎は月山へ何度も参り、今回義胤が三春へ来たときも御供をし、彦七郎は城を攻めた。小口懸かりをし、町へ引きこもり空き家を10軒ほど焼かせたのだが、中からは一騎も一人も出てこなかった。脇からの援軍もないところに、卜雲という僧侶が田村より来た。その僧侶を介して月斎や私を頼み、訴えを申し上げた。おいでになるべきに落ち着いたけれども、日が暮れたので政宗は宮森へお帰りになった。総軍は西というところで野陣なさった。次の日は石沢というところに相馬衆は籠もった。戦闘しようと出立なさったのだが、彦七郎が出てきたが、遅かったので、蔵の道つるいに総人数を立て、出てこなかったのは、攻撃することを仰られたところ、彦七郎はでてきて、御目見得なされ、石沢への先陣を仰せつかった。石沢は田村領で、小さな土地ではあったが、城はよく、相馬衆を頼っている者も多くいるようだった。近陣しようということで、其の夜は西という、白石若狭の持つ地の城へ滞在するとのことを仰られた。しかし相応しい家がなかったので、急に東の山に野陣を敷かれた。そうしているところに大雪が降り、みな大変困っていたところに月山で火の手が上がったので、物見を派遣したところ、月山は全員退却し、一人も居ないということを申し上げた。石沢も退いたのではないかと、急いで手勢を使わされたところ、軍勢は来なかった。先に退いていた弾正の親がいた百目木も同じく退却していた。これで弾正が持っていた土地は残らず攻め落とされた。
田村の中の二ヶ所が片付き、宮森へ戻られ、ご滞在になった。

感想

相馬義胤が休戦協定を破り、田村へ攻め入ろうとして失敗した話がかかれています。
大雪が降ったということがかかれているのですが、もう5月なのに!?と驚いてしまいます。なんかの異常気象だったのでしょうか。

*1:紀伊守