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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

2015-05-25から1日間の記事一覧

『政宗記』7-5:政宗敵対給大将衆の事

『政宗記』7-5:政宗と敵対なさった大将のこと 原文 一 佐竹義重は、新羅三郎の末、政宗へは伯母聟なれども、敵対給へり。扨太閤秀吉公の御時は、死去にて、家督義宣関ヶ原の御軍に、石田へ一味に依て、身代僅十八万石に成、佐竹より出羽秋田へ国替なり。 一…

『政宗記』7-4:会津にて政宗越年の事

『政宗記』7-4:政宗が会津にて年を越したこと 原文 天正十七年六月、政宗二十三歳の歳、会津へ所地入其暮の越年に、譜代幷会津・仙道の新参衆、残りなく相詰祝儀を申し納め、由々敷正月斜ならず。同十四日には、嘉例の謡始乱舞の上、例年の如く自身の酌にて…

『政宗記』7-3:政宗関東望附岩城武略事

『政宗記』7-3:政宗が関東侵略を望んだことと岩城の攻略 原文 されば、会津・仙道残りなく治め給へば、来春には佐竹へ馬を出すべきため、先岩城へ武略をし給ひけり。是に仍て岩城の臣下志賀閑長と云ける者へ、片倉景綱書状を以て、「累年岩城は隔て給ふ御中…

『政宗記』7-2:須賀川合戦附落城

『政宗記』7-2:須賀川の合戦とその落城 原文 明ければ二十六日の寅の刻より、須賀川へ押寄給ふ。兼て伊達の備定めを今度は引替、須賀川よりの降参衆先陣にて夫へ、会津新参へ譜代衆を取加え、各西の原に陣を取る。政宗は家老の者共、其外四五十騎召連、八幡…

『政宗記』7-1:須賀川陣事

『政宗記』7-1:須賀川の戦のこと 原文 去程に天正十七年己丑六月、会津をば思ひの儘に治め、在城となる。然りと云ども、須賀川は未だ敵対給ふ。其子細をいかにと申すに、城主盛行死去たりと云ども、盛行の後室政宗へ恨を含み、彼城を踏へ佐竹・岩城を頼み給…