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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』

『政宗記』3-11:黒川月舟死罪逃れらる事

『政宗記』3-11:黒川月舟斎が死罪を逃れたこと 原文 今度大崎との戦に、伊達の勢不手際なるは、黒川月舟逆心の故也。政宗重ねては先、月舟居城の黒川を押倒し、其れより大崎をと思はれけれども、大崎と取組玉へば、跡の如く佐竹・会津・岩城・白川、各本宮…

『政宗記』3-10:永江月鑑死附弾正誓紙

『政宗記』3-10:長江晴清の死と弾正が誓紙を提出したこと 原文 去ば月鑑は、相馬義胤の子舅なり、故に大崎下新田の合戦にも、月鑑人数は玉なしの鉄砲を打。此のこと政宗聞給ひ、居城の深谷は大崎境、況や義胤縁者といひ、亦も逆心危しとて、先秋保摂津守と…

『政宗記』3-9:最上より大崎へ使者の事

『政宗記』3-9:最上から大崎へ使わされた使者のこと 原文 最上義顕より野辺沢能登と云臣下を、大崎の蟻ヶ袋へつかはし給ひ、月鑑に対面して何と語りけるやらん、月鑑をば本の深谷へ相帰し、安芸一人能登同心して、小野田の城代玄蕃・九郎左衛門と云両人に渡…

『政宗記』3-8:月舟訴訟之事

『政宗記』3-8:黒川月舟斎の訴えのこと 原文 去程に伊達の二陣、上野・伊豆を始め、師山の南の畑に控へたりしが、先陣の者ども通り過して引付けんとて、先へ押通らんと進みけれども、切所の橋を引れ通りけること叶はず。あまつさへ桑折・師山両城の敵共、前…

『政宗記』6-11:猪苗代弾正望附新国上総降参事

『政宗記』6-11:猪苗代弾正盛国の望みと新国上総の降参 原文 去ば知行判之割、右にも申す弾正忠節の始より、望の勧賞一紙に書立差上けるは、 一 会津御手に入程ならば、北方半分を下置るべき事。 一 猪苗代を持兼、伊達へ引除候はば、三百貫の所、堪忍分を…

『政宗記』6-10:会津にて知行判之事

『政宗記』6-10:会津で知行割りをしたこと 原文 斯て義重、田村の領内大平を攻落し給ふと云ども、其後別の手際もなく、況や次男義広は、会津を鈍性し給ひ、彼是無手際にて、同年の七月二十日に帰陣し給ふ。扨常隆も帰陣坐す。是に依て伊達より、田村へ遺し…

『政宗記』6-9:会津家老忠節事

『政宗記』6-9:蘆名の家老たちの寝返りのこと 原文 かかりける処に、三橋在馬の中、会津の家老富田美作、平田不休・同名周防・彼三人、「今度御忠節の其賞に、某とも前々持来ける本領は申すに及ばず、三人へ備付の与力の身代相立てられ下さらはんや」と申す…

『政宗記』6-8:田村警固事

『政宗記』6-8:田村領の警固のこと 原文 されば右にも申す、同年五月より、義重須賀川へ打出かふか、政宗三橋在馬の内、義重、常隆へ云合せ、南筋より働き給ふと聞へ、伊達より田村へ加勢として、大町参河・中島右衛門・宮内因幡を遣し給へり。義重田村の大…

『政宗記』6-7: 摺上合戦

『政宗記』6-7:摺上原の戦い 原文 去程に六月五日の卯刻に、万づ評定し給ふべきとて、各猪苗代の城へ召寄給へば、「会津より働なり」と申す。「昨日も働と申程に、新橋迄景綱・成実出けれども、偽なり。今回も其分ならん」と申しければ、弥人数見けりと云、…

『政宗記』6-6:常隆小野より佐竹・会津に進事

『政宗記』6-6:岩城常隆、小野から佐竹・会津に進んだこと 原文 同三月、常隆田村の小野より、佐竹・会津へ打出給へと進め給ふ、両大将此義にうなづき、五月廿八日に岩瀬の郡須賀川迄馬を出し、三家の相談にて、政宗領分田村へ働くべしと云へり。政宗是を聞…

『政宗記』6-5:宇田新地駒ヶ峯出城

『政宗記』6-5:宇多郡新地・駒ヶ嶺城の開城 原文 同五月、常隆は田村の小野に在陣、義胤も同内岩井沢と云所に御坐。相互の評定にて田村の中を働き給ふ。是に依て田村へ伊達よりの警固に、大条尾張・瀬上中務・郡摂津守三人、遣し給ふと云ども、義胤尚も働き…

『政宗記』6-4:阿久ケ島出城附高玉落城

『政宗記』6-4:阿久ケ島出城と高玉の落城 原文 同四月、片平助右衛門申合の手切に付て、政宗米沢より出られけるに、信夫の大森へ田舎道八十里なれども未痛給ひて、山中なれば乗物も相叶はず、日懸には成兼、二十二日には板屋と云処に一宿し給ひ、二十三日に…

『政宗記』6-3:大越紀伊守生害之事

『政宗記』6-3:大越紀伊守が殺されたこと 原文 同四月、常隆小野におはす中、大越紀伊守思ひけるは、「只今まで岩城を頼むと雖ども、小野・大越の抱岩城より未果しては成り難く、然らば、政宗へ背き末の身上大事に思ひ、伊達へ忠をなさん」とて、三春に本田…

『政宗記』6-2:片平手切附岩城手切事

『政宗記』6-2:片平親綱の手切れと岩城の手切れ 原文 同三月、政宗宣ひけるは、「痛未だ十分には無れども、助右衛門申合の手切、程延ける事如何なれば、出ける事は叶はずとも、先手切せよ」と宣ふ。故に同十六日と申合、其旨米沢へ申ければ、助右衛門手切の…

『政宗記』6-1:政宗落馬附片平忠節

『政宗記』6-1:政宗の落馬と片平親綱の内応 原文 去程に、天正十七年己丑の正月、政宗二十三の時、落馬し玉ひ足を打折給へり。然ども療治を以て平愈為すと雖も、未痛み玉ひて馬を出される事相叶わず。是に付て、片平助右衛門申合の手切も相延ける也。同月助…

『政宗記』3-7:黒川月舟晴氏逆心附弾正気遣

『政宗記』3-7:黒川晴氏の裏切りと弾正への気配り 原文 されば伊達へ晴氏逆心の子細をいかにと申すに、其昔月舟伯父に黒川式部と云けん者を、輝宗代々月舟方より奉公に差上けり。爾るを信夫郡飯坂城主右近、右の式部を聟にして名代を譲らんと云契約也。爾り…

『政宗記』3-6:氏家弾正忠節の事

『政宗記』3-6:氏家弾正の内応のこと 原文 去程に義隆へ刑部一党訴訟の旨を弾正聞て、「安からざること也、返忠の徒党共逆意のときは、某一人思詰名生に於いて籠城ならば、岩出山より取移し、滅亡の御供こそ思ひしに、今又我を退治とは移れば替る世の習ひ、…

『政宗記』3-5:大崎陣之事

『政宗記』3-5:大崎での戦のこと 原文 同十四年七月、政宗仙道の軍募りて四本松二本松迄で手に入玉ひ、八月始めに米沢に帰陣し給ふ。然る処に大崎義隆の家中二つに分り政宗へ申寄、其根本を如何にと申すに、其頃義隆へ拒障上の新田刑部と云、双びなき義隆崇…

『政宗記』7-12:須田訴人事

『政宗記』7-12:須田伯耆の訴え 原文 かかりけるに、氏郷大崎へ働き出名生の城を攻落し、松森へ引上給へば、政宗家に須田伯耆と云いける者、何と気遣ひけるやらん、蒲生四郎兵衛と云氏郷家老者を頼み、「今度一揆へ政宗も内通して、已に氏郷を討果さんと云…

『政宗記』7-11:秀吉公奥州下向附大崎・葛西一揆事

『政宗記』7-11:秀吉公の奥州下向と大崎葛西一揆のこと 原文 去ば秀吉公、北条氏政へ「其方自害ならば、子息氏尚をば出城させん」と宣ふ。故に氏政切腹し給ひ、小田原一宇落居の上、秀吉公会津へ下向し給ふ事、其聞こへに依て、政宗米沢より御迎に出給ひ、…

『政宗記』7-10:会津より米沢へ本意の事

『政宗記』7-10:会津から米沢へお帰りになられたこと 原文 去程に、政宗下向の刻、浅野弾正少弼の親類に、同苗六右衛門と申せし人を差副、会津を受取御検使にて下り給ふ故に、六右衛門を様々馳走し給ひ、会津を渡し御身は本の米沢へ移し給へり。然るに、大…

『政宗記』7-8:会津にて騒げる事附平田忠節

『政宗記』7-8:会津にて騒動があったことと、平田の内応 原文 かかりける処に、小田原留主の内に、三夜程会津中以の外騒ぎける由、成実は其事存ぜぬ処に、宝尺と云山伏、成実に語りけるは、「会津騒ぎ夜に入ければ、方々へ荷物を隠し、昼の商も好物をば出さ…

『政宗記』7-7:秀吉公へ御目見の事

『政宗記』7-7:秀吉公へ面会なされたこと 原文 然れば秀吉公、御陣場は小田原一宇目の下なる山也。然るに、彼の山を要害に取立、石垣を仰せ付らる。故に御身も曲隶に腰を掛られ、扨御前には家康・利家を始め、各諸大名衆詰られける。其場に於て、政宗御礼仕…

『政宗記』7-6:太閤秀吉公小田原御発向

『政宗記』7-6:太閤秀吉が小田原に向かい出発したこと 原文 去程に主君信長公への謀反人、明智日向守を討随ひ、其天命を以て四国・鎮西・中国に至る迄残りなく治め、天下を掌の中に握り給ひし上は、今より関東、夫より陸奥国へと志し、天正十八年に小田原北…

『政宗記』7-5:政宗敵対給大将衆の事

『政宗記』7-5:政宗と敵対なさった大将のこと 原文 一 佐竹義重は、新羅三郎の末、政宗へは伯母聟なれども、敵対給へり。扨太閤秀吉公の御時は、死去にて、家督義宣関ヶ原の御軍に、石田へ一味に依て、身代僅十八万石に成、佐竹より出羽秋田へ国替なり。 一…

『政宗記』7-4:会津にて政宗越年の事

『政宗記』7-4:政宗が会津にて年を越したこと 原文 天正十七年六月、政宗二十三歳の歳、会津へ所地入其暮の越年に、譜代幷会津・仙道の新参衆、残りなく相詰祝儀を申し納め、由々敷正月斜ならず。同十四日には、嘉例の謡始乱舞の上、例年の如く自身の酌にて…

『政宗記』7-3:政宗関東望附岩城武略事

『政宗記』7-3:政宗が関東侵略を望んだことと岩城の攻略 原文 されば、会津・仙道残りなく治め給へば、来春には佐竹へ馬を出すべきため、先岩城へ武略をし給ひけり。是に仍て岩城の臣下志賀閑長と云ける者へ、片倉景綱書状を以て、「累年岩城は隔て給ふ御中…

『政宗記』7-2:須賀川合戦附落城

『政宗記』7-2:須賀川の合戦とその落城 原文 明ければ二十六日の寅の刻より、須賀川へ押寄給ふ。兼て伊達の備定めを今度は引替、須賀川よりの降参衆先陣にて夫へ、会津新参へ譜代衆を取加え、各西の原に陣を取る。政宗は家老の者共、其外四五十騎召連、八幡…

『政宗記』7-1:須賀川陣事

『政宗記』7-1:須賀川の戦のこと 原文 去程に天正十七年己丑六月、会津をば思ひの儘に治め、在城となる。然りと云ども、須賀川は未だ敵対給ふ。其子細をいかにと申すに、城主盛行死去たりと云ども、盛行の後室政宗へ恨を含み、彼城を踏へ佐竹・岩城を頼み給…

『政宗記』8-9:伏見出御附御最後

『政宗記』8-9:秀次の伏見出発とその最期 原文 去ば秀次公、聚楽を出御有て東福寺辺を御行給へば、大谷刑部少輔・増田右衛門尉出向奉り、御奥近ふ伺公して、「伏見にては以ての外なる御立腹也、此儘直に出御ならば、已に御命も危ふ覚へ候。申し兼たる御事な…