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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』

『政宗記』5-8:岩城へ景綱使者附成実異見

『政宗記』5-8:岩城へ景綱が使者となったことと成実の意見 原文 去ば今度対陣の無事を、常隆扱ひ給ひ相済ければ、自今以後仰合らるるのためにとて、景綱を岩城へ遣し玉ふ。大森迄罷帰と承、岩城の体を尋ね聞んがため、成実二本松より大森へ参る。故に景綱語…

『政宗記』5-7:三春番代附浪人払

『政宗記』5-7:三春の城代をさだめたことと浪人払いについて 原文 同八月十九日、田村月斎・同名梅雪・従弟右衛門・橋本刑部、宮森へ来て、「今度相馬義胤三春を取るべく、兵乱も北の方本城におはして、内通の故也、去程に北の方を隠居なさせ参らせ、政宗公…

『政宗記』5-6:最上より泉田安芸返し給事

『政宗記』5-6:最上から泉田安芸重光をお返しになられたこと 原文 去ば右にも申す、安積の軍前に最上義顕、両国境鮎貝藤太郎を語らひ、米沢へ手切なれば、今最上との戦なり。爾るに、義重・義広伊達へ再乱して、仙道へ発向し給ふ故に、政宗最上をば差捨、安…

『政宗記』5-5:岩城より無事扱事

『政宗記』5-5:岩城による和睦が成ったこと 原文 去程に佐竹義重は、岩城常隆・政宗扨成実には伯母聟なり、故に会津義広は、義重の次男にて、常隆・政宗へも従弟なり。爾るに、天正十三年乙酉十一月十七日に、義重本宮へ働き給ふに、会津・岩城・石川・白川…

『政宗記』5-4:窪田番手持附矢文事

『政宗記』5-4:窪田の守備の組み合わせと矢文のこと 原文 されば伊達より窪田に、取手やらひを取立給ひ然るべしとて、窪田の川を外に構ひ堀を堀、土手を築、柵を付けり。故に伊達の侍大将各召寄給ひ、取手の番を鬮取にさせ玉ふ。其衆は浜田伊豆・原田左馬介…

『政宗記』5-3:須賀川衆先陣辞退事

『政宗記』5-3:須賀川衆が先陣を辞退したこと 原文 かかりける処に、其頃須賀川よりの物頭に、須田美濃・矢田野伊豆・矢部下野・保土原江南・浜尾善斎以上五人也。然るを義重今度の戦陣をば、須賀川衆にと宣ふ。五人の者ども、「成実陣場に普請もなければ、…

『政宗記』5-2:陣場定事

『政宗記』5-2:陣場定めの事 原文 然して後、原田左馬介「今度の御陣場は、何方ならん」と申す。浜田伊豆「保沢の沼を御後に、西の原に好かるべし」と申す。伊東肥前「大軍と小勢とは、軍の作法御坐、無勢にて場好に御陣場に然るべからず、悪所を前に当て、…

『政宗記』5-1:安積郡山対陣事

『政宗記』5-1:安積郡山での対陣のこと 原文 去程に天正十六年戊子の六月、政宗二十二歳の年、四本松の宮森におはしければ、佐竹義重本宮にて、無手際なる遺恨解さずして、二度乱を起し、御子義宣、二男会津の義広、此三大将へ石川大和守昭光・白河義近・須…

『政宗記』4-9:大越退治訴訟之事

『政宗記』4-9:大越紀伊守退治の訴え 原文 去程に、月斎・梅雪・右衛門・刑部、また宮森へ来て原田休雪・伊東肥前・片倉景綱を以て申けるは、「大越紀伊守始より三春へ出仕もなく、今度義胤三春を取んとし給ふ術も、彼者一人の謀叛に仍て、未居城に引込ける…

『政宗記』4-8:義胤、田村取損給之事

『政宗記』4-8:相馬義胤、田村を取り損ねなさったこと 原文 同五月、政宗は大森に義胤は月山に御坐す内、田村の家来義胤へ尚も心を合せけるに、夫に又三春の城に御坐ける政宗姑母儀は、義胤の伯母にて御坐しけるが、其頃政宗へ恨みを含み、相馬へ傾き、田村…

『政宗記』4-7: 田村家老衆訴訟之事

『政宗記』4-7:田村の家老衆の訴えについて 原文 同四月、石川弾正逆意に付て、相馬へ傾く者ども伊達を守人々も、政宗時刻を移さず打出給ふべしと、田村にて積りけるに、左もなかりければ、何れも不審を立るは理りなり。然りと雖ども、政宗にも亦十分なる子…

『政宗記』4-6:会津より働之事

『政宗記』4-6:会津からのいくさのこと 原文 同四月五日の夜、大内備前伊達への蒐入降参のこと会津へ聞へ、会津の衆須賀川へ云ひ合せ、安積表へ打て出働きの由其聞へあり。故に片倉景綱に其旨告知せければ、時刻を移さず居城を打出、二本松へ来て信夫の勢を…

『政宗記』4-5:石川弾正草入之事

『政宗記』4-5:石川弾正が草を入れたこと 原文 同四月十二日に石川弾正、若狭領地西といふ処へ草を入、其身も自身しこみに出、内より早朝に出ける者を一両人討て取り、是を城中にて知合、出ける人数と弾正取組城内へ追込、其より取付攻けるに、鉄砲頻りに小…

『政宗記』4-4:大内備前政宗前相済ける事

『政宗記』4-4:大内定綱、政宗との対面をすませたこと 原文 同年三月二十三日に、玉ノ井にての競合相過、成実二本松へかへりければ、右より申し合せの大内備前・片平助右衛門、伊達へ参るべきを待んとて、片倉景綱二本松へ出向ふ。爾る処に四月五日の夜、鍛…

『政宗記』4-3:成実領地草調儀之事

『政宗記』4-3:成実領地での草調儀のこと 原文 されば奥州の軍言ばに、草調儀或は草を入る、或は草に臥、亦草を起す、扨草を捜すと云ふ有。先草調儀とは、我領より他領へ忍びに勢を遣はすこと、是草調儀といへり。扨其勢の多少に依て一の草・ニの草・三の草…

『政宗記』4-2:大内備前手切之事

『政宗記』4-2:大内定綱の手切れのこと 原文 かかりける処に、仙道安積の郡太田・荒井・苗代田とて、二本松より隔りけれども、二本松の領分なり。故に義継生害の一乱にも、三ヶ所の民ども迄、方々逃散しあき地となる。爾して後政宗二本松を手に入給ひ、成実…

『政宗記』4-1:大内伊達へ望之事

『政宗記』4-1:大内定綱伊達への転身を望むこと 原文 天正十五丁亥の年、政宗二十一歳のとき、最上・大崎へは軍なれども、安積表は先何事なく静謐の分なり。かかりける処に、会津より大内備前、成実処へ申しけるは、「四本ノ松一宇打明ける事別に非ず、会津…

『政宗記』3-11:黒川月舟死罪逃れらる事

『政宗記』3-11:黒川月舟斎が死罪を逃れたこと 原文 今度大崎との戦に、伊達の勢不手際なるは、黒川月舟逆心の故也。政宗重ねては先、月舟居城の黒川を押倒し、其れより大崎をと思はれけれども、大崎と取組玉へば、跡の如く佐竹・会津・岩城・白川、各本宮…

『政宗記』3-10:永江月鑑死附弾正誓紙

『政宗記』3-10:長江晴清の死と弾正が誓紙を提出したこと 原文 去ば月鑑は、相馬義胤の子舅なり、故に大崎下新田の合戦にも、月鑑人数は玉なしの鉄砲を打。此のこと政宗聞給ひ、居城の深谷は大崎境、況や義胤縁者といひ、亦も逆心危しとて、先秋保摂津守と…

『政宗記』3-9:最上より大崎へ使者の事

『政宗記』3-9:最上から大崎へ使わされた使者のこと 原文 最上義顕より野辺沢能登と云臣下を、大崎の蟻ヶ袋へつかはし給ひ、月鑑に対面して何と語りけるやらん、月鑑をば本の深谷へ相帰し、安芸一人能登同心して、小野田の城代玄蕃・九郎左衛門と云両人に渡…

『政宗記』3-8:月舟訴訟之事

『政宗記』3-8:黒川月舟斎の訴えのこと 原文 去程に伊達の二陣、上野・伊豆を始め、師山の南の畑に控へたりしが、先陣の者ども通り過して引付けんとて、先へ押通らんと進みけれども、切所の橋を引れ通りけること叶はず。あまつさへ桑折・師山両城の敵共、前…

『政宗記』6-11:猪苗代弾正望附新国上総降参事

『政宗記』6-11:猪苗代弾正盛国の望みと新国上総の降参 原文 去ば知行判之割、右にも申す弾正忠節の始より、望の勧賞一紙に書立差上けるは、 一 会津御手に入程ならば、北方半分を下置るべき事。 一 猪苗代を持兼、伊達へ引除候はば、三百貫の所、堪忍分を…

『政宗記』6-10:会津にて知行判之事

『政宗記』6-10:会津で知行割りをしたこと 原文 斯て義重、田村の領内大平を攻落し給ふと云ども、其後別の手際もなく、況や次男義広は、会津を鈍性し給ひ、彼是無手際にて、同年の七月二十日に帰陣し給ふ。扨常隆も帰陣坐す。是に依て伊達より、田村へ遺し…

『政宗記』6-9:会津家老忠節事

『政宗記』6-9:蘆名の家老たちの寝返りのこと 原文 かかりける処に、三橋在馬の中、会津の家老富田美作、平田不休・同名周防・彼三人、「今度御忠節の其賞に、某とも前々持来ける本領は申すに及ばず、三人へ備付の与力の身代相立てられ下さらはんや」と申す…

『政宗記』6-8:田村警固事

『政宗記』6-8:田村領の警固のこと 原文 されば右にも申す、同年五月より、義重須賀川へ打出かふか、政宗三橋在馬の内、義重、常隆へ云合せ、南筋より働き給ふと聞へ、伊達より田村へ加勢として、大町参河・中島右衛門・宮内因幡を遣し給へり。義重田村の大…

『政宗記』6-7: 摺上合戦

『政宗記』6-7:摺上原の戦い 原文 去程に六月五日の卯刻に、万づ評定し給ふべきとて、各猪苗代の城へ召寄給へば、「会津より働なり」と申す。「昨日も働と申程に、新橋迄景綱・成実出けれども、偽なり。今回も其分ならん」と申しければ、弥人数見けりと云、…

『政宗記』6-6:常隆小野より佐竹・会津に進事

『政宗記』6-6:岩城常隆、小野から佐竹・会津に進んだこと 原文 同三月、常隆田村の小野より、佐竹・会津へ打出給へと進め給ふ、両大将此義にうなづき、五月廿八日に岩瀬の郡須賀川迄馬を出し、三家の相談にて、政宗領分田村へ働くべしと云へり。政宗是を聞…

『政宗記』6-5:宇田新地駒ヶ峯出城

『政宗記』6-5:宇多郡新地・駒ヶ嶺城の開城 原文 同五月、常隆は田村の小野に在陣、義胤も同内岩井沢と云所に御坐。相互の評定にて田村の中を働き給ふ。是に依て田村へ伊達よりの警固に、大条尾張・瀬上中務・郡摂津守三人、遣し給ふと云ども、義胤尚も働き…

『政宗記』6-4:阿久ケ島出城附高玉落城

『政宗記』6-4:阿久ケ島出城と高玉の落城 原文 同四月、片平助右衛門申合の手切に付て、政宗米沢より出られけるに、信夫の大森へ田舎道八十里なれども未痛給ひて、山中なれば乗物も相叶はず、日懸には成兼、二十二日には板屋と云処に一宿し給ひ、二十三日に…

『政宗記』6-3:大越紀伊守生害之事

『政宗記』6-3:大越紀伊守が殺されたこと 原文 同四月、常隆小野におはす中、大越紀伊守思ひけるは、「只今まで岩城を頼むと雖ども、小野・大越の抱岩城より未果しては成り難く、然らば、政宗へ背き末の身上大事に思ひ、伊達へ忠をなさん」とて、三春に本田…