[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

蒲生氏郷の通称について

【蒲生氏郷】
織豊期の武将。会津若松城主。利休七哲の一人。幼名:鶴千代、通称:忠三郎。諱:賦秀のち氏郷。洗礼名:レオンLeão(ポルトガル語)/León(スペイン語)。

【蒲生氏郷簡易年表】
弘治2 近江国蒲生郡日野に生まれる。
永禄11 忠三郎賦秀。
永禄12 信長娘冬姫を娶る。
天正1 近江鯰江合戦、越前朝倉攻め、近江小谷城攻め。
天正2 長島の合戦。
天正3 長篠の戦い。
天正6 摂津伊丹城攻め。
天正9 伊賀国攻略。
天正10 信州攻略などに参加。本能寺の変。
天正11 秀吉に従属。飛騨守。
天正12 小牧・長久手の合戦。伊勢松ヶ城に移る。
天正13 紀州攻め、越中佐々攻めに従軍。諱を氏郷に変更。大坂で洗礼を受け、レオンと称した。
天正14 侍従となり、松ヶ島侍従となる。
天正15 九州攻め。豊前巌石城攻めで武功を立て、羽柴姓を与えられる。
天正16 松坂城築城、正四位下左近衛少将となり、松坂少将と称せられる。
天正18 小田原征伐に参加。会津黒川城に転封。十月から大崎葛西一揆に出陣。
天正19 七月九戸の乱に参加。
文禄1 上洛・肥前名護屋に赴く。
文禄2 体調不良のため帰国。会津若松城本丸完成。
文禄3 上洛。吉野の花見に参加?
文禄4 2/7 伏見屋敷にて没。法号:昌林院殿高岩忠公大禅定門。

【蒲生氏郷書状リスト】(『近江国古文書志』蒲生郡編・上より)/『近江蒲生郡志』の復刻版)
15(768):元亀1/5/15 信長→蒲生忠三郎。領地方目録。/『氏郷記』
18(771):6/10 蒲生忠三郎賦秀→長命寺。/長命寺文書
19(772):天正10/12/29 忠三郎→。御免証書。/日野町立尋常高等小学校所蔵文書
20(773):8/21 賦秀→成願寺。/堅田町北川又三郎氏文書
21(774):6/2 飛騨守賦秀→町野新介。/市邊村糠塚野矢忠右衛門氏文書
22(775):天正12/6/18 光佐→蒲生飛騨守。/西大路村興教寺文書
23(776):6/18 頼廉→蒲生飛騨守。/同上
24(777):4/13 氏郷→蒲生源左衛門/日向国延岡堀暁太郎氏文書
25(778):天正12/9 筑前守→飛騨守。知行割目録/松坂雑集
26(779):天正12/10/16 飛騨守賦秀→儀俄忠兵衛尉。/出雲国松江市蒲生鏗氏文書
27(780):天正15/ 9 忠三。奉加帳。日野町馬見綿向神社文書
28(781):7/29 筑前守→蒲生飛騨守。/岡山県船木西川伊九太郎氏文書
29(782):天正17/9/1 氏郷→蒲生三河入道 。/出雲国松江市蒲生鏗氏文書
30(783):9/8 氏郷→町野左近助ら連名4人。/櫻川村平林田井きく氏文書
31(784):1/18 羽柴侍従氏郷→丹生泊瀬寺真海法印。/伊勢国多気郡佐那村光明寺文書
32(785):天正15/4/5 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
33(786):7/5 氏郷→町野左近助。/神宮文書
34(787):7/8 内宮長官守通→松ヶ島侍従。/同上
35(788):9/16 秀吉→松島侍従。/滋賀郡堅田町北川又三郎氏文書
36(789):天正16 羽柴飛騨守。氏郷町の掟の事。/松坂雑集
38(791):11/11 氏郷→源左他4人連名。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
39(792):11/6 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
40(793):11/18 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
41(794):11/26 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
42(795):11/27 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
43(796):4/23 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
44(797):7/26 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
45(798):8/26 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
46(799):8/27 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
47(800):9/3 氏郷→蒲生源左衛門。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
48(801):10/8 氏郷→源左。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
49(802):10/11 氏郷→源左。/日向国延岡堀暁太郎氏文書
50(803):9/18 蒲生飛騨守氏郷。/南比都佐村内池照光寺文書
51(804):9/15 羽柴忠三郎→光壽。/本誓寺文書
52(805):6/10 氏郷→蒲生忠兵衛。/出雲国松江市蒲生鏗氏文書
53(806):2/8 秀吉→町野左近助。飛騨。/朝日野村鋳物師安井彦三郎氏文書
55(809):2/9 町野左近助。会津宰相。/朝日野村鋳物師安井彦三郎氏文書

感想:
政宗の好敵手といえば、氏郷です。で、大崎葛西一揆の記述において氏郷が登場するのですが、政宗は氏郷を書状等では「忠三郎殿」と呼ぶ。成実は後半生で書いた『政宗記』の中の記述で「飛騨守」としています。しかし時期的には年表を見ればわかるとおり、「松坂少将」のはずの時代なのです。官位が進んだあとも、信長に貰った名前である忠三郎を使っていたのか、そしていつごろまで飛騨守と呼ばれていたのか。同じ時期に氏郷に会っていたはずの政宗と成実で呼称が違うことが不思議です。そして書いている時点が成実の方が時期的に後なので、逝去直前の呼称で呼ぶならわかります。が、飛騨守で呼んでいる。
よくわかりません。
で、年表と、『近江古文書志』に収録されている文書から、宛名および差出人としての氏郷記述を書き抜いてみました。最後ふたつの文書は死後直後のもので、文章内の呼称です。
【結論】
結局、よくわからないことがわかりました…。
・一応忠三郎と飛騨は多分平行して使ってる(た)?
・侍従も使ったことはある。
・基本署名は通称でなく、諱で。<しかし家臣宛限定かもしれない
・もうちょっとサンプルがないと、規則性は見えない…orz
・ジュスト右近さんはジュストって漢字で書いた文書が残っているらしいのですが、レオンはそういうのないのでしょうかね?

とまあこういう感じ…。で、Twitterで雑談してたら、氏郷は「何と呼んでもおれはおれだ」っていいそう…って話になって、すごく納得したのを覚えています…。そして御家断絶のせいだとは思いますが、多分そこまで残ってないのでしょうね…。残ると言うことは大変なことだと思います。つくづく、御子孫・家臣の方々のご苦労に感謝いたします…。
で、どっかで政宗宛の氏郷の書状の画像を見つけたのですが、キレイな政宗の字に比べて、氏郷の字は下手じゃないんだろうけど、元気いっぱい…というか、勢いがありそうで、とても納得したのを覚えています…。
氏郷ファンの方の、忠三郎が信長から貰った名前なので、大事に使っていたのかも?という推測を聞いて、もしそうだったら微笑ましいなあ…と思いました。
それにしても蒲生家中は蒲生+郷アタックと、忠攻撃の乱れうちで、もう誰が誰だかわからなくて困ります…。そういえば、独眼竜に源左衛門出てました。
あとまったくどうでもいいことですが、下間頼廉と本願寺光佐からの書状があって、かなりときめいた私は単なるのぶやぼマニアです…(笑)。

【20120616追記】
当ブログを読んでくださっている野崎様から次のような示唆をいただきました。

松田毅一『十六・七世紀イエズス会日本報告集』同朋社のルイスフロイス書簡では氏郷の過去の洗礼についての記事、同時進行の死亡記事とも「蒲生(レオン)飛騨守殿」と呼んでいます。目下および関係者以外は「飛騨守殿」だったのでしょう。
政宗公とは大名同士で対等だったので宛名を名前にしてもいいのですが、成実は臣下ですから「飛騨守殿」になるのです。氏郷が会津に行っても金森宗和が飛騨守になっても通称は変わらないはずです。間違えそうなときだけ「蒲生飛騨」になるだけで。
戦国時代の書状の宛名書は、特に私信の場合かなりランダムで、相手を尊敬する場合、威圧する場合など使い分けているようです。ケース・バイ・ケースで判断するしかないのでしょう。

自分で、官職名と通称の使い分けについての認識がよくわかっていないため、忠三郎というのが、若年期限定なのかと勘違いしておりました。たとえば、忠三郎→飛騨守→侍従(私はこうなるのかと思っていた。政宗は時期でくっきり名乗りを変えてるので)とかではなく、忠三郎=飛騨守=侍従になるという感じ?と思えばいいのでしょうかね。とりあえず氏郷は最終段階においても「飛騨守」通称を使っていたのは、事実のようです。
そう考えると、『政宗記』等で「飛騨守」表記なのも納得します。
野崎様、ありがとうございました。

でも高山右近との間はおそらく「ジュスト殿」「レオン殿」だったのでしょうね、多分。洗礼名をどうやって決めたのかは気になりますが、自分で選んだかと思うととても萌えます(*レオンは普通に動物のライオンという意味の他に、「勇猛果敢な人、肝が据わった人」という意味があります。ジュストは「正義漢、品行方正な人、戒律を守る人」)。

【20130224追記】先日性山公部分をぼーっと読んでいたら、なんの脈絡もなく蒲生氏郷の話題が出てきて、「えっ?年代おかしくない?」と思ったら、「信長が、輝宗が左京大夫になったけど次郞って書いてるのは、氏郷が飛騨守にになった後も忠三郎って書くみたいなもんです!」みたいな記述で、氏郷の忠三郎名乗りは当時の普通から考えると、ちょっと変わった例だと思われていたことがいきなりわかりました。やっぱり普通から見ると変なんだ…。あと信長がそういう人だったというのもあるのかもしれないですが。
個人的には氏郷が信長から拝領した名乗りである「忠三郎」を特別視していたことなのではないかなあと思ったりしています。