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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『奥羽永慶軍記』「伊達安房守成実牢浪の事」

『奥羽永慶軍記』
奥羽の戦国争乱を奥羽全域にわたって通観した唯一の戦記物。著者は出羽国雄勝郡横堀(秋田県雄勝郡雄勝町)の人戸部一斎正直。三十九巻。元禄十一年(一六九八)正月の自序がある。標題は奥羽における永禄―慶長の間の戦記という意味だが、実際の内容はそれよりも広く、天文三年(一五三四)の岩城重隆息女の婚約にからむ岩城・白川対伊達の戦いから始めて、元和八年(一六二二)の最上義俊の改易、奥羽における戦乱の終結にまで及んでいる。かなり雑然とした記述で、信頼しがたい部分も多い。多く先行の家史・戦記を材料としているらしいが、他の記録にみえない記述もみうけられる。『(改定)史籍集覧』八に収められ、また送り仮名などを補った校注本が『戦国史料叢書』二期三・四として出版されているが、いずれも中央の情勢などに関する部分を一部省略したものである。
(大石 直正)-『国史大辞典』奥羽永慶軍記の項より

『奥羽永慶軍記』は天文より元和年間に至る東北の争乱を描いた軍記物語です。
もちろん伊達のことも詳しく、政宗の家督のことからずっと書かれています。
「伊達安房守成実用心隙もなく」「成実は物に馴れたる若者にて」(「二本松及び返攻、玉の井合戦の事」)などという記述があります。筆者は、おそらく『成実記』や『政宗記』も参考にしていたでしょうし、成実を将としてかなり評価している節が窺えます。

「伊達安房守成実牢浪の事」
原文:
【成実、高野山に入る】
爰に伊達政宗の一門伊達安房守成実、東国に名を得し武功の兵なりしが、政宗伏見在勤中に高野山に入にけり。成実、今何故に高野山に入しと其心底を尋るに、未だ年三十に足らず、菩提を祈らんとて出家遁世の望にもあらず、政宗を深く恨る子細有ての事なり。抑此成実、父は伊達稙宗三男伊達兵部大輔実元なり。然るに実元若年の頃、上杉実定*1の養子の約あるゆえ、実元とは号しける。其頃両上杉、北条氏康父子の為に武威を奪はれ、上州を退き、越後の長尾謙信を頼み、伊達には実元が兄晴宗、其子輝宗と父子不和に成て、実元越後に行事叶はず。されども上杉より竹に雀の幕の紋を得し故、伊達家の紋とぞ成しにける。是実元一度上杉の養子と約せし故なり。其子今の成実、父に劣らぬ剛強の兵にて、十三の初陣より以来、既に九ヶ年の兵乱に軍功挙て数えがたし。然るに政宗叔父石川昭光・同高林上野介政景等は録重くして、成実は左もなければ、述懐して高野山には入しなり。
政宗此事を聞給ひて、「是全く成実が僻事にあらず、政宗が誤なり。」と後悔し給ひて、昭光・政景に下知して「安房守が怒りをなだめ、呼返されよ。」と宣へば、昭光・政景「さん候。」とて桑折大蔵・蟻坂丹後を使として、政宗誤り給へる所を悔給ふ事具にいひ含め、高野にぞ遣はしける。両使登山して成実に対面し、言舌を尽しぬれども、成実ゆめゆめ立帰るべき色もなし。実にや成実恨める処至極なれば、其心の解る迄はと、使再三に及ぶといへども、後は返答もなく、行方知らず成ぬ。
去程に成実が郎党羽田右馬介早く奥州に馳下り、成実が妻、家中の男女を引具し、ひと先づ出羽の方へ落行き、我が主安房守に運をひらかせんと思ひ定めて、奥州にぞ下りける。
【政宗、成実の居城を討つ】
又政宗思はれけるは、「成実行方知らず成る事定て何方にも立忍び、公方へも奉公して政宗に肩を並べんとてこそ浪人とは成りつらめ。定て本国の舘を破らるべし。」と思ひて、郎等どもを下し、「他国へ引退かずと言事あるべからず。急ぎ渠原を討てこそ。」と宣ひて、我が居城岩出山の留守居屋代勘解由兵衛が許へ飛脚を以て、「成実が女房を始、家人どもをも討果せよ。」と下知せらる。此飛脚羽田右馬介に先達て下りければ、屋代頻りに人数を集め、都合二千余人角田の城にぞ取掛りける。角田城中の者どもみなみな主の安房守と同意に政宗を恨める者どもなれば、今此際に及んで一人も落んと思ふ者はなし。昨夜馳下りし羽田右馬介を始として、石川弥平・伊場小二郎・遠藤・金沢(津)・内ヶ崎・江尻・日根津・萱場・手坂など百余人切先をならべ、駆出駆出大勢を突き立て、おひなびけ、息をも継かず相戦ふ。実に彼等成実が武勇に疵を付けじと、互いに諫め、いさめられ、今日死狂ひの鑓先に向ふ者こそ不運なれ。されども小勢といひ、其身鉄石にもあらざれば、或は討れ或は手負ひ、残り少なに成りぬ。寄手も流石名を恥る者どもなれば、切られても、突れても事ともせず、一旦に攻れば、城中纔卅四人に成て、然も戦ひつかれ手負はぬ者もなし。今は是迄なりとて本丸に引入りて、四方の門戸を閉じ、女童三十余人有しを引寄せ引寄せ刺殺し、具足を脱て縁に居流れ、腹切て臥たりけり。寄手八方を打破り、我劣らじと乱れ入り、一々首を取にけり。
彼等は皆実元・成実二代諸所の戦場に親子兄弟討死の家を継し者もあれば、みづから度々の武功に輝宗・政宗より感状を賜り所持せし者も多し。兎に角に臆病なるはあるべからず。されば武士の身命を顧みず、武功を励みぬる事も、恩賞を給はり、子孫栄えんと思ふが故なり。其甲斐なき事を恨て、今斯くの如く討果されし事哀なりし有様なり。
此事成実聞て、其怒り天にも通ずるばかりなり。夫より相州に下り、小田原近所下郡と云所に蟄居せしが、家康公の上聞に達し、即召出され、百人扶持を与へ給ふ。是を政宗聞給ひて、召返し給ふべきよし訴訟に及ぶに、内府公政宗によろづ他事なかりければ、是非なく御暇を給ひけり。其上上杉景勝より五万石知行を与へんと再三の使を以て是を招く。然れども其頃は石川昭光・高林政景・片倉小十郎など成実が方へ内通して、「是非に立帰り候らへ。」と異見度々なれば、今は成実鬱憤も薄くなりて、伊達家をも引切がたく、会津は辞して参らず、終に仙台に下りけり。されども、暫く浪人にて慶長五年の合戦には石川に属し、白石・福島の戦などに相働く。此乱以後は政宗対面有て、亘理郡にて三万石を賜るなり。

メモ:
さん候:さようでございます。

感想:

  • 出奔先が相模国下郡(一般的には相模国糟谷とされる)となっている。
  • 屋代景頼が政宗の命により、角田城を攻めたことになっている。(『世臣家譜』によると羽田右馬介実景屋敷にて討ち死に)
  • 成実の妻子が角田城にて討ち死にしたことになっている。(正室亘理氏は文禄四年六月四日に死去)
  • ウィキペディアの屋代景頼の項に「成実の妻子が角田城で討ち死にしたとされているのは独眼竜や永岡本によって流布した俗説」って記述がありますが、独眼竜で書かれた描写の元ネタは、確実にこの本だと思います。で、永岡本もこれを元ネタにされたので、独眼竜に先んじて、同じような展開になったのだろうと推測(永岡慶之助『伊達政宗』は1985年に青樹社より刊行)。
  • 前述のとおり、成立が元禄11年とされている。性山公・貞山公治家記録の成立は元禄16年なので、ほぼ同年代と言っていいと思われる。自序によれば、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したという。

…と、『治家記録』などによる「正史」との相違点が少々見受けられますが、出奔ー帰参の流れは、元禄の頃にはだいたい「こういうこと」として流布していた…ということが推測できます。成実が何らかの恨みを抱く→政宗は成実の所為ではなく自分が悪いと表明・帰参説得→しかし恨みを理解するまでは帰らないと主張→行方知れずに→政宗の疑心暗鬼により、角田城召し上げ→成実相模へ→家康に召し抱えられる→政宗の奉公構により→石川・留守・片倉らによる説得→帰参、という感じ。
ちょっとおっと思ったのは、羽田が「出羽に行く」と言ってるという記述があることですね。…なにか伝てがあったのでしょうか。
屋代景頼は一時期政宗の信頼を得ますが、その後慶長12年に突然改易され追放されます。各地流浪を経たのち、死亡しますが、景頼の子三郎兵衛はなんと成実に拾われ、明治まで亘理伊達氏に仕えました。
この出奔時羽田と袂を別った白根沢らは政宗に仕えます。その後忠宗の代に成実が白根沢を推挙し、礼に上がった白根沢に対し成実が「推挙したのは公のためであり、自分はおまえを許さない。二度と顔を見せるな」と薙刀を持って怒った…という逸話があります。
その他、羽田の孤立と他家臣との対立を示唆する史料(『仙台志料』)もあり、やはり出奔事件の原因・経緯についてはいろいろと不明な点、そして隠された部分が多いように思います。まあいくらでも記録の上書きをできる存在になれた成実が黙して語らなかった(書かなかった)のですから、結局推測しかできませんが。
しかし個人的には、政宗の名誉のためにさまざまな不都合なことが隠蔽された*2のなら、なぜそれをこの事件に関してはそれをしなかったのかということも気になります。偽の理由をでっち上げて徹底的に隠すことも成実の執筆能力ならできたと思うのですが、それをしなかったということは、逆に成実の意志と意図を感じる…気がするのですが、どうでしょうか。

*1:原文ママ。定実の誤り

*2:成実がそれを行っているらしき節は各種論文にて指摘されております。黒嶋敏「はるかなる伊達晴宗」、石田洵「摺上原合戦の物語化」など