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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

出奔関連記述@治家記録

出奔関連記述@治家記録

成実の出奔に関する記述を治家記録から抜粋してみました。

巻19/慶長3年
○此年、石川大和守殿昭光へ、釆地二百貫文御加増を以て、伊具郡角田へ在所替仰せつけられ、志田郡松山より移住せらる。去る文禄の比、公、大和守殿嫡子中務殿義宗奉公の存念を感賞し玉ひて、釆地二百貫文を充行はる。大和守殿本知六百貫文に、右の御加増、今度の加増都合千貫文の禄に成し遣はさる。角田は元と伊達藤五郎殿成実在所なり。是より前、成実、故ありて伏見に於て出奔し、相州小田原の内糟谷邑に退去せらる。或いは云ふ、成実出奔の故は、公御先陣の毎度に武功ありといへども、上野介殿政景・大和守昭光などよりは小身なるを以て、連々不快に思はれ、且つ故ありて伏見より紀州高野に引退かる。政景・昭光を始め、各笑止に思はれ、また公の御内意もありしや、桑折点了斎・蟻坂丹波を以て両度まで異見に及ばる。然れども承引なく、其の使い三度に及びし時、家老羽田右馬助に、角田家中の者引き除くべき由を命ぜられ、在所へ指し越され、其の身は行方不知に引き去らる。因りて公より、岩出山御留守居屋代勘解由兵衛景頼に、成実家中引き除く様に下知すべし、若し異議に及ばば、討ち果たすべく由仰せ下さるに就いて、景頼人数を率い、角田にて行きて下知す、右馬助は私宅に引き籠もり、男女三十余人討ち死にし、金須・内ヶ崎・沢尻・白根沢・石川以下数多の者は、景頼下知に従い、且つ奉公す。右馬助同意の者は皆出奔して、角田遂に落去すと云々。
成実出奔せらる年月知らず。蓋此の年の事と見へたり。角田落居の事も委しく伝わらず。

簡単に訳:
石川昭光に角田への配置換えを命令、志田郡松山から移住。
文禄年間に政宗は昭光嫡男義宗に二百貫文を与えた。もともと昭光は六百貫文だったので、この加増で千貫文の禄を食むこととなった。角田はもと伊達藤五郎成実の城だったが、これより以前、成実がある理由によって伏見から出奔し、相模国小田原糟谷村に退去していた。また一説によると、成実出奔の理由は、戦において武功あるにも関わらず留守政景・石川昭光より禄が少ないのを理由にずっと不快に思っており、かつ理由があって、伏見から紀ノ國高野山に退去した。政景・昭光を始め、それぞれ大変だと思い、また政宗の内々の意志もあったのだろう、桑折点了斎宗長・蟻坂丹波を遣わして、二度まで異見された。しかし成実は聞き入れることなく、遣いが三度に及んだとき、成実は家老羽田右馬助実景に角田家中の者に退去せよと命じ、角田へ遣いを出し、自身は行方不明となった。そのため、政宗は岩出山留守居役の屋代勘解由兵衛景頼に成実家中を引き退かせるよう伝えさせ、もし抵抗するなら討ち果たすよう命じた。景頼は手勢を率いて、角田に赴き、下知した。実景は私宅に引き籠もり、男女三十余人が討ち死にした。金須・内ヶ崎・沢尻・白根沢・石川以下多くの者は、景頼の命令に従い、本家に奉公した。実景に同意の者はみな出奔し、角田はついに接収された。
成実の出奔した年月は知られていない。だいたいこの年の事と思われる。角田接収の事も、詳しくは伝わっていない。

巻20/慶長5年
白石城を攻めたまふの時節、伊達藤五郎成実相州より帰参せられ、即ち御目見仰せつけらる。藤五郎殿先年出奔し、相州糟谷邑に退去せらるのところに、今度昭光・景綱より内意申し遣はし、帰参せらる。或いは云ふ、成実、小田原下郡に屏居せらる。大神君より御扶持百人分を賜ふ。公御訴訟あるに因りて召し放さる。今度、景勝より五万石を以て招かる。公の敵人に仕る事は本意にあらずとて応ぜず。昭光・景綱・伊達上野介殿政景取り持ちを以て、遂に召し返され、先づ浪人分にて昭光の備えに加えられ、出陣せらると云々。

簡単に訳:
白石城攻めの頃、伊達藤五郎成実が相模国より帰参され、すぐに御目見得を命ぜられた。
藤五郎は数年前出奔し、相模国糟谷村に退去されていたのだが、石川昭光・片倉景綱より内々の意志を伝え、帰参なさった。また一説には、成実は小田原下郡にて隠居していた。徳川家康より百人扶持を賜っていたが、政宗が奉公構を行ったことによって、再び放逐された。また、景勝から五万石で招かれたが、政宗の敵である存在に仕えることはできないと言って応じなかった。石川昭光・片倉景綱・留守政景らの取り持ちを介して、ついに再度召し抱えられることとなった。まず、浪人扱いで、昭光の軍に加えられ、出陣されたという。

巻21/慶長7年
○晦日丁巳。伊達安房殿成実へ御書を以て、片倉備中元在所亘理郡亘理城を居城とし遣わされ、当所に於いて、采地二十二箇邑、高三百五十六文の地を賜ふ。御書左に載す。

今度、片倉備中事、白石の地へ相移さるべく候由、申しつけ候。これによりて、其の方の儀、亘理へお越し有るべく候、様体に於いては、石見守口上に申し含み候、恐々謹言。
極月晦日
                            政宗
伊達安房守殿

今年成実、兵部を安房と改めらる。月日知らず。

簡単に訳:
大晦日。伊達安房成実へ元片倉景綱の在所である亘理城を遣わすことを命じた。

今度景綱に、白石城へ移るよう申しつけました。これによって、あなたは亘理へお越しくださいますよう。状況については、茂庭綱元に伝えておきました。恐れながら謹んで申し上げます。
12月晦日
                            政宗
伊達安房守殿*1

この年成実は通称を兵部大補から安房守と改める。日付けは明らかでない。

メモ:
貞山公治家記録の成実出奔〜帰参〜亘理拝領についての記事を三つ。
成実がいたとされる相模国糟谷村(現:神奈川県伊勢原市糟屋)はこちら。太田道灌の墓所があるそうです。

伊勢原市役所
また、私は「相模国下郡」はずっと「しもごおり」という地名なんだと思っていましたが、もしかしたら神奈川県足柄下郡(あしがらしもぐん)ではないかと思います。大久保忠隣が支配していたところが足柄下郡です。
忠世の庇護を受け、黒野覚兵衛という者に世話になっていたらしい(亘理町発行冊子『伊達成実』より←【追記】『亘理世臣家譜』の黒野家の項からとわかりました)*2

感想:
はずかしながら、最近まで、ある小説*3で、成実が餌をつけずにずっと毎日釣りしてる…て描写の印象がとても強かったので、糟谷は神奈川県の海辺のどこか…だと調べもせずに信じ込んでおりました…。な、内陸だとは…!!(むしろ山のそば)創作のイメージって強いですね…。先日ググってみてびっくりしました…(笑)。やはり自分で調べないとだめですね…。
とりあえず仙台藩の「正史」である治家記録での記述はこのようになっています。
ところで、

出奔の理由についても、家中での席次を石川氏に次ぐ第二位とされた上に禄高も少なくされたことへの不満が原因であるとする説、秀次事件への政宗の連座を避けるために嫌疑の内容を自らが被って隠遁したとする説などがある。また軍記物においては、秘密工作実行のために政宗の命を受けて出奔したと描くようなものもある(『蒲生軍記』)。
【Wikipedia伊達成実/出奔の項】

とwikiにはあるのですが、正直この『蒲生軍記』の出典が不明です。『氏郷記』なのか『蒲生氏郷記』なのか『蒲生軍記』なのか、そしてどれに載っている本のことなのかが不明です*4
一応国史叢書版『蒲生軍記』はざっと目を通しましたが、蒲生氏の記録(勿論氏郷は文禄四年に死去している)なため、他家の陪臣である成実についての記述なんて入るような隙がないように思うのですが、当該箇所をご存じの方いらっしゃいましたらご一報下さい。他の『氏郷記』系史料も目を通す予定で、見つけ次第この記事にも訂正・注釈を入れます。
出奔自体も、私はずっと文禄四年八月の誓詞提出以後あたりのタイミング(秀次事件がらみ)か…と思っていたのですが、最近慶長かもしれない…と思うようになりました*5。そうするともしかしたら秀吉の死関連のごたごたにまきこまれた可能性もあり…。いろいろと想像が膨らむところです。
なにか新史料でも見つかればおもしろいのですが…。

*1:政宗文書2/1199の政宗→成実書状

*2:忠世は文禄三年死去。子の忠隣が跡を継いでいる

*3:ええ…永岡慶之助先生のね…

*4:『氏郷記』は同名異書がたくさんある

*5:もちろん印象のみの根拠で、確証はありません