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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』11-7:江戸へ御立給事

『政宗記』11-7:江戸え御立給事
原文:

*1二、三月より、或遊山*2或何ぞに寄ず、ややもすれば「来る春は、何としても下り難し、在府の慰も是迄ならん」と宣ひけるが、程なく卯月*3になりければ、「其月廿日に立給ふべき」と宣ふ。かかりけるに、政宗常々郭公の初春を望み給ひ、いつも来る年の夏毎に郭公参りたりと聞給ひば、其方此方へ人を付、只今音信ると申しければ即聞き給ひ、障子を明け、目出度いとて悦び給ふ。去程に其の夏も「旅は万づ懶きに、如何にもして国本にて、責ては一声も聞かん」とて、爰彼の山々へ行給ふと云へども、未だ音信ざれば、余りのことにや立給へる宵十九日にも仙台城廻りの林へ出て、恋路*4の山今廟所の場にて弁当をつかひ給ふ。「扨も此山は下は川、仙台・若林目の下にて、海上迄もみへ渡り、景成ことは又よにもあらじ。明日予が死するとも、二世*5の屋敷は是なるらん。忠宗へも其旨必ず心えよ」と宣ひ、一首連ねんとのことにて、
鳴ずとも何か恨みん郭公時も未来の夕暮の空
と詠じ、日暮に帰り給ひ、翌日廿日の明方に、若林を立給ふ。朝の認め*6は、兼ねてのごとく岩沼の筈にて、海道を通り給へば、何方よりかは、郭公来て路地の柳に羽を休め、大勢の供なれども少しも是を物ともせず、如何にも木伝乗物立けるを見下ろし、ひたもの音信、其より乗り物通りけれども、鳴きながら十四五間程先立一町斗附、道の東へ飛去ぬ。近頃望給へる郭公、目近く音信ければ、門出目出度とて、供の諸人悦ぶことをををかたならず。去れば、政宗岩沼の城へ入て、目近き者どもに、「今日の郭公は何れも聞たるや、我七十なれども、初声を聞だに珍敷に、況や乗物の内より、鳥の姿を目近うみて、十四五間先立つことついに覚わざる義也、今度江戸への門出には、仕合ならん、但又不仕合の瑞相か」との宣て、認め過に岩沼を立て、其夜は刈田の白石、片倉小十郎*7居城へ着給ひ、草臥しとて認過に、軈て寝給ふ。翌朝は気嫌能、酒の前に小十郎孫名代のため養子に候三之助目見えを申す。其後又酒半に右の三之助*8寄馬に畏るを、日頃寵愛し給ふ、南次郞吉、三之助を見て「冥加の為御盃を被下如何」と申す。少しも耳入給はて、色々咄ともなり、ややひさしくあって亦其旨伺ひければ、「重ねては左様に不申物也、汝共に心を付られう我には非ず、盃疾に遣はす筈なれども、態と控える処あり。其子細を如何と云ふに、小十郎男子を持たず、孫を子に取立、誠に不便を如かざること不庸常、勿論家来の者も、手の上にのせ馳走せん事疑いなく、未だ五六歳なれば、僻ことには非れども、以前目見の刻、一円あきれたる体なり。小十郎も日来の不便を、今亦引替俄かに難ならん。尓るに、其子と呼て盃を呑せんこと、忰なれば物事小十郎さこそ気遣ひ候らはん、扨其色を脇よりみては見苦しく、小十郎には不似合杯云者どもも有べし。其れならば、仮初めながら、小十郎ため吉事には非ずして、却て皆悪事なり」と宣ひ盃をば給わずして、立給ふとき、三之助を乗物の前へ召て、差給へる小脇を、自身差し為し給ひ、「小十郎は果報者なり、ヶ程に能子を迚も能者に預て取飼せよ」と宣ひ、浅ざることどもなれば、諸人感じ奉り、小十郎も過分がり声を立て落涙なり。扨物毎吉凶無ことにや、常々仮初、鷹野にも情深く御坐せば供の者勇み悦ぶこと斜めならず。尓るに、其日若林を立給ふに供の者何とやしたるらん、心勇まず江戸への供といへども勇々敷心地少しもなく、我人ともに其日の暮には、面々我宿々へ帰と斗りの思ひにて、扨も不審さの余りに、白石にて相互の心を尋ねければ、何れも心中同意なるは、ヶ様有べき瑞相にて、江戸へ著給ひ、治定一両月をも経ずして、死骸へ附いて下りけるこそ、不思議なれ。

現代語訳:
寛永13年、2月3月から、気晴らしに外出するときや何かによらず、ことあるごとに「来年の春は、どうやっても下る(仙台に帰る)ことは難しい、仙台での楽しみもこれまでだろう」とおっしゃっていたのだが、ほどなく4月になったので「その月20日に出発しよう」とおっしゃった。だが、政宗はいつも郭公がはじめて鳴くのを聞きたがって、毎年夏ごとに郭公がきたと聞けば、あちらこちらへ人を遣わせ、いま鳴いたと申し上げれば、すぐ耳を傾け、障子を開けてめでたいとお喜びなさった。なので、その夏も「江戸への旅はなにごとにつけてもおっくうなので、どうしても国許で、せめて一声だけでも聞こう」と、あちらこちらの山へ行かれた。しかし、郭公はまだ鳴かなかったので、思いあまってか、出発する前日である19日にも、仙台城の周りの林に出て、越路の山の現在廟所となっている場所で、弁当をつかわされた。
「この山は下は川で、仙台・若林が目の下で、海まで見通せる。これほど景色がいい場所は他にない。明日自分が死んだとしても、あの世の住まいはここがいい。忠宗にもそのことを伝えて欲しい」とおっしゃり、一首を詠もうとされ、
「鳴ずとも何か恨みん郭公 時も未来の夕暮の空」
とお詠みになった。日暮れにお帰りになり、翌日20日の明け方に若林を出発なさった。朝の食事はとりきめのとおり岩沼の予定であったので、海道をお通りになったら、どこからか郭公がとんできて、庭の柳に羽を休め、大勢供の者がいるのにも関わらず全くこれを気にしないようすで、木の上から輿を見下ろすかのように、ひたすら鳴いた。輿が通ったのだが、鳴きながら14,5間(25〜27メートルほど)先に立って1町(109メートル)ほどついてきて、道の東へ飛び去った。大変に望んでいらっしゃった郭公が間近で鳴いたので、何と目出度い門出であろうかと供の者はみな大喜びした。
そして、政宗は岩沼の城へ入ると、そば仕えの者たちに、「今日の郭公をみんなきいただろう。私は70だけれども、初声を聞くのは珍しいのに、まして乗り物の中から、鳥の姿を間近に見て、14、5間先だって伴うなんてことは思い出せないことだ(=はじめてだ)。今度の江戸への門出は運命だろうか。あるいは不運の兆しだろうか」とおっしゃって、食事が終わると岩沼を発ち、その夜は刈田白石の、片倉小十郎重綱の居城へお着きになり、疲れたとして食事後にすぐにお眠りになった。
翌朝は気分がよく、酒宴の前に小十郎の孫で、(嫡子がいなかったため)養子になった三之助景長が御目見得をした。その後、またその三之助が酒宴の途中で寄馬(多くの馬を一カ所に寄せ集めること)を怖がったのを見て、寵臣の南次郞吉という者が、三之助を見て、「お礼として三之助に盃をお下されては如何ですか」と申し上げた。しかし、聞こえなかったようで(政宗は応えなかった)、いろいろと他の話にもなり、少ししばらく経った後でまたそのことを伺ったら、「重ねてそのようにいうものではない。お前たちに注意される私ではない(=いわれなくてもわかっている)。盃はすぐに遣わしてやりたかったが、わざと控えたのである。その理由はどうしてかというと、小十郎は男子を持たず、孫を子に取り立てた。まことに尋常でなくかわいがっていることだろう。もちろん家来の者も、手の上にのせ馳走する(=ちやほやかわいがる様子)ことは疑いようがない。まだ5,6歳であるから、それは悪いことではないが、以前目見えしたとき、(三之助は)すっかり呆然とした様子であった。小十郎も、日頃のかわいがりを急に態度を変えるのは難しいだろう。だから、その子と呼んで盃をとらせたら、自分の子どもであれば、小十郎もそれほど気遣いはしないだろうが(孫なので)その様子を脇から見ているのも忍びなく、小十郎には相応しくないという者もいるだろう。それならば、仮のことではあるが、小十郎のためによいことではなくて、かえって悪いことだろう」とおっしゃり、盃をお与えにはならなかった。
出発なさるとき、三之助を駕籠の前へお呼びになり、さしていらっしゃった脇差しをご自身で三之助に差してあげ、「小十郎は幸せ者だ。これほどによい子はよい者に預けて、養い育てよ」とおっしゃり、とても深いご意見だとみな感動し申し上げ、小十郎も感動して声を立てて涙を流した。
そんな風に、いいときも悪いときも、家臣の落ち度などを許し、鷹狩りなどのときでも情愛深くていらっしゃるので、供の者は非常に興奮し喜ぶことこの上なかった。
しかし、日頃はそうであるのに、若林をお立ちになった其の日は、供の者たちはいったいなにがあったのか、気持ちが進まず、江戸への供だというのにはやる気持ちが少しもなかった。私も他の人同様にその日の夜には、それぞれ宿へ帰るだけの気持ちだった。それで、納得がいかないあまりに、白石でお互いの気持ちを尋ねあったところ、皆思っていることは同じで、このような前兆があり、江戸へ到着なさって、それからふた月も経たずして、死骸とともに同じ道を下って仙台へ帰ったことは、本当に考えられないことだった。

感想:
政宗が死期を悟り、江戸へ上がる前の様子。
いつも聞くのをとても楽しみにしていた郭公の初音を、どうしても聞きたくて、出発前日*9にまで経ヶ峰まで出かけて郭公を探したが、見つからなかった。しかし道中たまたま郭公がずっと付き従い、激しく鳴き、これは縁起のいい瑞相だと喜んだ…のが前半。
江戸への道中白石に立ち寄り、小十郎重綱の孫で三代目白石当主となることになった三之助景長と対面したときの話が後半。どうして盃をとらせなかったかという政宗の深慮の理由が明かされます。
そして最後に、これが最後の旅路となることを予感してか、家来たちが抱いていた何ともいえない不安感が、なんともいえない哀しさを感じさせます。
個人的に、成実は今日○○があった…とただ書くだけではなく、最後にちょっと私見や心情をつけたすクセがあるように思うのですが(比較対象が木村しかいませんけど)、この章は特に、なんともいえない雰囲気を持っているように思います。最後に書かれている、一行の内心に漂っている、最期の予感というものがさびしく思えます。

*1:寛永13年

*2:山に遊びに行く/気晴らしに外出する。行楽。

*3:4月

*4:越路

*5:あの世

*6:食事

*7:重綱・重長

*8:景長

*9:治家記録によるとこの日は「前日19日ではなく18日」と注がありますが、18日奥山大学らと経ヶ峰に行き、19日茂庭邸での饗応のあと、知らせを聞いて再び郭公探しに山へ行ったようです。