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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』12-1:病気の事

『政宗記』12-1:病気之事

原文:

同21日に白石を立給ひ、一両日相過道中より異例の心地出給ふ。然りといえども、大相国家康公二十一ヶ年の御年忌、其年に相当り、公方家光公日光山の堂々とも御建立に仍て、政宗道中より直に日光へ、同二十五日に社参なれば、公家衆下り給ひ、其日の御参詣、折節神前に於いて猿楽ども御法楽*1の能始りければ、政宗は先僧正の許へ入、万事終て後社参の処に、今度御堂修造惣奉行伊丹播磨守案内し給ふ。かかりけるに、宮仕神楽を奏し、政宗向拝し給へば、宮人御幣を三度礼し、供饗に銚子を取添へ、神前より持参して、三々九度を進め参らせけれども、気色は弥増にふさぎ給へば、急ぎ下向と思はれけれども、播磨守「此御山の御造営一宇の御奉行、某に仰せつけられ、このごろ公方家光公成らされ給ひて、御感の旨某式迄冥加に叶ふ、御苦労ながら迚も此一山を御見物有て、公方公思し召し立たるるに、ヶ程の御建立、神前に於いて御褒美ならば、御一言にて御感の上、憚りながら御序に御取合せ下さるならば、某式も運を開き候」迚、奥の院迄案内し給ふ。尚も機嫌重かりけれども、和利なく上り給ふ。庭前の石壇今一つにし給ひ、上へ立給ふとて、倒れ給ぬ。起こし参らせければ、右の指の脇少し切て血の出るを包ませ、御堂の前に立給ひ、「心静かに拝し奉るべし、貴所は先下向あれ」と宣ふ。播磨守やがて下向し給へり。政宗御堂の庭に立て、「是より下向あるべし、倒れまじき処にて、倒れたるは、日光へも此度限りの御告とみへたり、方々見物迄になさん」迚夫より今市の宿に帰り給ふ。去ば爰に不思議也事にや、志賀栗毛といふさしも秘蔵なる馬、其日の引替*2となりて、御山の下馬に引立ければ、一段心地よげなる馬の、如何有やらん、二三度嘶き俄に倒れて死入ぬ*3。薬を用ひ本気となり、夜に入今市へ引返しけるに、少しも病るけしきなし。尓るに彼馬政宗病気の刻より、食事を留て死しけるは気象なりとぞ人申ける。又今市へ着給ひ、行水の上りに、髪を結せ玉へば、座敷の庭に樅の木有へ、後の方より鳩の如なる鳥飛来て彼樅の木に羽を休めけり。南次郎吉・加藤十三郎側に有けるが、見咎めければ、色々様々の毛色、中々言語に及ばず。実に唐鳥とも言うべきや、余りの不審さに其の旨申しければ、政宗見給ひ「あれこそ鶉とて、容易里近く来るは稀なり」と宣ひも果たさずに、飛立日光の方へ行、其跡を見れば煙の如くなるもの、政宗の後より樅迄引はへ、樅より又鳥の跡を慕ふ。二人の小姓忰なれども、さすが二世の供迄、勤ける者どもなれば、兎角のことをも言わずして、逝去し給ふ後、是を最後の物語になす。四月二十八日に江戸へ着給へば、二十九日の辰の刻に松平伊豆守*4上使と為る、炎天の折柄上着、殊に道中より常ならず病気の旨其聞へ到て、笑止の旨、御諚*5にて病体能々承れと宣ふ。伊豆守へ対面有て、「先上意の趣勤て浅からず、やや久しく尊顔拝し奉らず折節、明日は朔日なれば、登城をとげ、御礼申し上げるべし」と御請にて、翌日卯の刻より登城し給ひ、御目見得相過、午の刻に下着し給ふ。尓して、其日に又安部豊後守*6上使にて、御鷹の鳥を下され、「惣じて詣大名衆、毎年四月替りと定め給ふを違えずして、左程の病気に押て上り給ふこと、其程痛入思召されけり、気色弥宣わず、養生の為驢庵法印を御直に、仰せつけられ相構て明日より取詰るべきこと肝要」との上意なり。

現代語訳:
寛永13年4月21日に白石を出発し、一日二日過ぎたころ、常にない様子になられた。が、この年が家康公21年の年忌に当たり、家光公が日光山の社殿を建立なさったので、政宗は旅の途中で直接日光へ寄り、25日に参拝された。公家衆がお下りになって、その日の参詣のちょうどそのとき、神前にて猿楽・法楽の能が始まった。政宗はまず僧正のところへ入り、すべて終わったあとまた参拝されているところに、今度は御堂修造惣奉行である伊丹播磨守が取り次ぎを頼んできた。このようであったときに、奉納神楽を演奏し、政宗が向拝なると、神主は御幣を三度礼拝し、供物に銚子を取り添え、神前から持ってきて、三三九度を(政宗に)おすすめになったのだけれども、顔色は一段と悪くなったので、急いで帰途につこうと思ったのだが、播磨守が「此御山の御造営一宇の御奉行、某に仰せつけられ、このごろ公方家光公成らされ給ひて、御感の旨某式迄冥加に叶ふ、御苦労ながら迚も此一山を御見物有て、公方公思し召し立たるるに、ヶ程の御建立、神前に於いて御褒美ならば、御一言にて御感の上、憚りながら御序に御取合せ下さるならば、某式も運を開き候」*7といって、奥の院まで案内された。さらに気分が悪くなっていたけれどもしんどそうに(階段を)お上がりなさった。庭の前の石段があとひとつになったとき、上へ立とうとしてお倒れになった。起こし申し上げたところ、右の指の脇が少し血が出てしまったのを隠し、お堂の前にお立ちになり、「心静かに拝礼申し上げたい。あなたは先にお帰りください」とおっしゃった。播磨守はすぐにお帰りになった。政宗は御堂の庭に立って、「これから帰ろう。倒れるべきでないところで倒れたのは、日光へお参りできるのも今回が最後だというお告げだと思う。お前たちも見る価値がある思い出になるだろう」とってそれから今市の宿にお帰りになった。
そうしたら、このときに思いがけない怪しいことが起こった。志賀栗毛というとても秘蔵の馬が、その日の乗り換えの馬で、御山の下馬所に連れて行ったら、ひときわ状態がよさげに見えた馬が、何があったのだろうか、二三度いななき急に倒れて気絶した。薬を使って正気を取り戻し、夜に入って今市へ連れて返ったが、病気のような様子はなかった。なので、かの馬は政宗の病気の刻から、食事を食べなくなり、死んだのは宇宙の理であると人は申し上げた。また今市へ到着し、体を清め、髪を結わえなさったところ、座敷の庭に樅の木があったところへ、後ろの方から鳩のような鳥が飛んできて、樅の木にとまり羽を休めた。南次郎吉・加藤十三郎が、見て気づいたが、その羽は色とりどりで、容易に言い尽くせない様子であった。本当に唐鳥とも言うべきだろうか、余りの不思議さにそのことを申し上げれば、政宗はそれを見て「あれこそ鶉(からばと)というものだろう。簡単に人里近く来るのは珍しい」とおっしゃる間に、鳥は日光の方へ飛び立っていった。そのあとをみれば、煙のようなものが政宗の後ろから樅まで伸びて、樅からまた鳥のあとをついていく。二人の小姓たちは疲れたようだったが、殉死の供まで勤める者達であるので、あれこれのことをいわずに、政宗がお亡くなりになったあと、これを最後の物語とした。
4月28日に江戸に着いたところ、29日の辰の刻(午前8時頃)に松平信綱が上意としてこられた。暑いなか江戸へ登られたこと、特に旅の途中から普段と違って病気である旨は伝わっており、大変なことであるから、家光の命令にて、病気の様子をよく聞いてこいとおっしゃった。政宗は伊豆守と対面し、「先ほど言われた様子はそれほど深刻ではなく、ここのところしばらくお顔を拝見しておらず、明日は一日なので、登城をし、お礼申し上げます」とお請けになり、翌日卯の刻(午前6時頃)登城なされ、会見を無事なされ、午の刻(正午ごろ)にお帰りなさった。そしてその日にまた老中阿部忠秋を使いとして鷹を下され「大名は毎年4月参勤交代であると定めた決まりを破らずに、これほどの病を押して江戸へ登ったことん、深く感じ入りなされた。様子は問わず、養生のため、驢庵法印をよこされ、準備なされ、診察を受け、明日から養生につとめることが大事である」とのご命令であった。

感想:
政宗が日光に立ちよったときの様子が書かれています。政宗の辛そうな様子と、空気読めない奉行の伊丹播磨守のことば、そして転倒してしまった政宗の様子。最後の家康との対面はその様子が想像出来るような臨場感があります。
そして馬の怪異と、不思議な鳥の話。遣いの言葉から家光からの心遣いと政宗への親しみの様子がわかります。「大したことないから登城します」と言う政宗の最期の意地を感じます。
それにしても成実の文章は情景・心情描写がとてもおもしろいです。政宗のしんどい様子に気づいてない様子の、播磨守ののんきな長セリフ(私には意味がよくとれないのですが、にもかかわらず)にイライラしてるような成実の心情が感じられるように思うのですが、深読みしすぎですかね…?

*1:神仏へたむけにする舞楽など

*2:乗り換えの馬

*3:気絶

*4:老中信綱

*5:命令

*6:老中阿部忠秋

*7:各言葉の敬語の対象が上手くつかめず、意味が上手くとれません…。ご助言いただけたら嬉しく思います…。