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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『名語集』56:江戸に上る、増田にて郭公を聞く、白石にて片倉小十郎に会う

『名語集』56:江戸に上る、増田にて郭公を聞く、白石にて片倉小十郎に会う
(*この文の小十郎はすべて景綱ではなく、重綱です)

原文:

一、ほどなく四月二十日になれば、御供の衆は、夜のうちより御城へ相詰め申し、朝の御膳、岩沼にて召し上げらるるはずにて、夜あけなば御たちと仰付けられ。七つ時より御起(おひる)なり。旅の御出立あそばされ、御座の間に御出で候へども、つくづくとなされ、御はなしもなく、わきより申上ぐる事もなく、御座敷さびかへり、其の事となく、ものわびしき御様子に見え申す故、伺候の衆も、「いかさま、今朝の御気色、あしきと覚えたり」と、諸人心すすみなし。すでに夜明けぬれば、御座敷立たせられ候が、あなたこなたに御目とまり候御有様にて、ねんごろに御覧なされ、御なごりをしげにおはします。後に思ひあはすれば、かようにあるべき前表*1にてやあらん。さて乗物にめさせられ、次第々々に騎馬の御供、御徒の衆、御送りの衆、うちつづきたり。常々、江戸御上り、又近きあたりの御出の御供にも、勇みすすみてさざめきしが、此の度は、上一人より下々まで、ひそめきたるさまにて、御供す。「御心もとなく、ことかりそめにて、今立ちかへる心もちにて、さびかへりたる有様、ものすごく見えし」と、御供の衆、我れ人寄合ひて、一つ心にかたりしこそ、ふしぎなれ。惣じて、郭公を御閑所にてきかせらるることを、いまいましく思召して、年ごとに其の時節には、郭公おとづるるよし申せば、あなたこなたに人を御つけ、その所々へ御出聞かせられ候ては、「めでたしめでたし」と、御悦びなされ候。このごろあなたこなたにて、郭公承り申すよし聞召して、夕べまで山辺にて御膳などあげられ、聞かせられたく思召し給ひしかども、遂に御聞きなく候ひしが、二十日の朝、御乗物、増田と申す在家を過ぎさせ給ふに、いづくともなく、郭公ひとつ飛び来たり、路地の柳にちかぢか羽を休め、聲をやみもなく鳴き、御乗物の先にしたがひ、一町ばかりが間鳴きつづけ、東をさして飛びさりぬ。諸人これを見て、「此ほど待たせられしが、御門出めでたし」と、よろこびけり。さて、岩沼御殿にての御諚には、「今朝のほととぎす、聞かぬものはあらじ。われ七旬になるまで、今朝のやうなる事おぼえず。始めて一聲きくだに、めづらしくおもひしに、乗物のうちより、ちかぢかと鳥のすがた、しかも一町ほど見たる事、つひになし。江戸への門出よし。江戸にての仕合、思うやうなるべし。ただし、身のためには悪しき事もあらん」と、御はなしなされ候。諸人も「誠にふしぎなりし事」と、申しあへり。其の夜は、白石に御泊りなされ候へば、片倉小十郎居城へ御成り、種々の珍物をととのへ、御馳走述べつくしがたし。然るに悪しきものありて、小十郎身の上、あしき事を書立てて、目安にととのへ、申上ぐるものあり。いろいろ忍びに、御詮議候へども、皆そらごとなれば、かへりて讒人の心をさげすませたまひ、国に讒人あれば、其の国治まりがたき事を、深く御悲みなされ候。次の日、小十郎御膳をあげ申され、御機嫌を伺ひ、「冥加のために、御盃を三之助に下され候へかし」と申上ぐるを、聞かせられぬ御様子にて、四方山の御はなし遊ばされ候。ややありて、御ついで見あはせ、「三之助にはいかが」と、また申上げ候へば、其の時御諚には、「以前もいひ、又もいふ。さようには申さぬものぞ。其の身などに気を付けらるる我等にてはなきぞ。酒はとくにも飲まするはずなれども、わざと控ゆる子細ありてささぬぞ。小十郎子はもたず、あの孫を取立て、誠に如何様にがなと不便に思ふゆえ、下々の者までも、手の上の玉のごとく、いたはり育つると見えたり。げにまこと、四つ五つなれば道理なれども、以前我が前にて、あぐみて見えたりし時は、小十郎常に不便に思ふ心をひきかへ、俄にあさましく、いたき思ひならん。其の子を座敷へ呼び出して、盃のとりまはし、忰なれば、いかばかり難儀におもふべし。又わきよりは、見苦しき有様、さすがの小十郎が子には、似合わぬなどといふ者もあるべし。それならば、小十郎がためあしく、恥を与ふるに似たり」と仰せられ、さて御立の時、御乗物の前へ召寄せられ、ささせられし御小脇差を三之助に下され、みづから御さし、「さてもさても小十郎果報の者かな。是ほどよき子を、よき者にあづけて育てさせよ」と仰せられ、さて小十郎を、御乗物のうちへ御ひき入れ、「其の方事を、悪しきものありて、十度にあまり、種々目安を以て、我に讒す。されどもいつはりなれば、疑ふにも及ばず、打捨てぬ。たとへ憎しみにて、如何様にいふとも、我等あらんかぎりは、何事も心やすかれ。只、讒者の国にあるこそ、うたてけれ、我とても、幾年か延ぶべき。我がなからんのちは、万づ身を慎み、怒を抑へ、国のまさに久しからん事を心がけ、ひとへにはからへ。奢るは身命を失ふ根本ぞ。明日に何ごとあるとも、其方と我れこそあらめ、老の思ひ出に、その方が名をも揚げさせんものを」仰せられしかば、小十郎、感涙を袂にうかべ、君も御涙にむせび、白石をたたせらる。

現代語訳:
まもなく、4月20日になったので、供の者は夜のうちから城へ詰め申し上げた。朝の御膳は岩沼で召し上がられる予定で、夜があけたら出発だ、とご命令になった。七つ時(午前四時ごろ)から目覚めていらっしゃった。旅の用意をされ、御座の間にいらっしゃったのだが、しんみりと物思いにふけられて、お話もなく、かたわらから申し上げることもなく、御座敷はひっそりと静まりかえった様子で、そのこととは関係なく、(政宗が)なんとなく寂しい様子に見えたので、供の者も「どうみても、今朝の御様子は、悪いように思える」と皆心が進まなかった。すでに夜は明けていたので、座敷をたたれたのだが、あちらこちらに目がとまられる様子で、じっくりと御覧になって、名残惜しげでいらっしゃった。後から考えてみれば、このようになる前兆だったのだろう。
さて、駕籠に乗られ、順々に騎馬の御供衆、御徒衆(徒歩のもの)、見送りのものが続いた。いつも江戸への上京のときや、また近くへのお出ましの御供であっても、やる気が逸って皆騒がしいのだが、今回は、上から下々の者まで皆声をひそめながら御供した。「ぼんやりしていらっしゃって、儚い様子であるので、今振り返る心境で、ひっそりとしずまりかえっている様子が、非常に寂しく感じる」と、御供の者も、私も、集まって、心を一つに語ったことは、普段では考えられないことだった。
大体、郭公の鳴き声を閑所でお聞きになることを縁起が悪いとお思いになって、毎年その季節の時には、郭公が訪れていることを申し上げれば、あちらこちらに人をやり、そのところどころへお出かけになって聞かれては、「よかったよかった」とお喜びになった。最近、あちらこちらで郭公が聞かれていることを聞かれ、昨日の夕方まで山辺で弁当を持って行かれ、聞きたいとお思いになっていたのだが、ついにお聞きになることが出来ずにいたのだが、20日の朝、乗り物が増田という民家をお通りになった時に、どこからともなく、郭公が飛んできた。路地の柳ちかくに羽を休め、ずっと鳴き、政宗の駕籠の先に従って、1町ほどの間鳴きつづけ、東に向かって飛び去った。みなこれをみて、「これほどまたせられたことがかなったのは、この門出はめでたい」と喜んだ。
岩沼御殿での御言葉では、「今朝のほととぎすは、みな聞いたろうな。私は70になるまで、今朝のようなことは覚えがない。一聲聞くのだって珍しく思うのに、駕籠の中から、ちかぢかと鳥の姿を、しかも1町の間も見たようなことはほんとにない。江戸への門出はよい。江戸での予定あ、きっと思うようになるだろう。ただし、体にとってはよくないこともあるだろうなあ」と、お話になった。みなも「本当に思いがけないことだ」と話し合った。
その夜は白石にお泊まりになり、片倉小十郎重綱の居城へお成りになった。様々な珍しいものが用意され、心のこもったもてなしは、言葉で言い尽くし難い。
このとき、悪い者がおり、小十郎の身上について悪いことを書き立て、目安に出し、讒言申し上げた者がいた。いろいろと密かに調べ、物事を明らかにして、皆虚言であったことがわかったのだが、政宗は、かえって讒言した者の心を軽蔑し、国に讒言する者がいれば、その国の治世が難しいと、深く哀しまれた。
次の日、小十郎が御前をあげてご機嫌を伺い、「御礼として、盃を三之助に下されませんでしょうか」と申し上げたところ、政宗は聞こえなかった様子で、雑多な世間話をされていた。しばらくして、おりを見て、「三之助にはどうでしょう」と申し上げたところ、「さっきもいい、また言う。そういう風には言うべきではない。おまえなどに気を付けられるような自分ではない。酒はすぐにでも飲ませたかったが、わざと控える理由があってしなかったのだ。小十郎は子を持たず、あの孫を子として取り立てた。本当にどんなようすであろうかと可哀想におもうから、下々のものまでもが、手の上のたまのように、三之助をいたわり育てると思う。本当に4,5つだから仕方ないけれども、以前自分の前でむずかしいことをなしとげられずうんざりする様子を見せたときは、小十郎がいつもかわいがっている様子を思い、逆に嘆かわしく、辛く思いであった。その子を座敷によびだして、盃の取り回しをさせれば、子どもなので、どれほど大変に思うだろうか。またはたからみると、見苦しい様子で、小十郎の子どもには似合わない子であるという者もあるだろう。それならば、小十郎に悪く、恥を与えるようなものだ」とおっしゃった。
さて、出立の際、駕籠の前へ三之助をお呼びになって、さしておられた小脇差を三之助に下され、お手自らお差しになって、「さてさて小十郎はなんと幸せ者だろうか。これほどよき子は、よき者に預けて、ちゃんと育てさせよ」とおおせられた。
そして小十郎を乗り物の中へ引き入れ、「おまえのことを、悪いことがあると十度以上も目安を使って私に讒言する者がいる。だが、すべて虚言で、疑うにも値せず、打ち捨てた。たとえ憎しみであっても、どのようにいわれていても、我等がいるかぎりは、安心しろ。ただ、讒言する者が国にいることが、とてもなげかわしい。私も、もう年々も長生きは出来ない。私が死んだあとは、万事身を慎み、怒りを抑え、国が長く続くように心がけ、よく治世せよ。奢ることは、心と体を失う根本である。明日どんなことがあっても、おまえと私がいれば、最後の思い出に、おまえの名を揚げさせるのがだなあ」と仰せられたので、小十郎は感動の涙を袂に浮かべ、政宗も涙を流され、白石をお発ちになった。

感想:
先日上げた『政宗記』11-7に該当するエピソードです。
寛永13年4月末、死を覚悟して江戸へ登る政宗、その途中で郭公をやっと見たこと、そして小十郎重綱との別れのシーン。
すみません、ちょっと興奮しすぎて荒ぶる事をお許しください…。これがあらぶらずにいられるだろうか、いやない(反語)。
事柄はほぼ同じなのですが、『政宗記』で載せられていない、最後の小十郎重綱への言葉が感動的です。というか、『政宗記』の記述だと政宗が泣いたことかいてないし、小十郎の涙の意味だって伝わりませんよ! 
小十郎重綱は当時、讒言により苦しめられて謹慎中で、最後の対面です。
これドラマ化してください! 何この台詞! なにこの殺し文句!!(泣)
ものすごいいいシーンですよ…!! 落ち着いてマジメに読んでられない…。
政宗の絶対の信頼の言葉。もう二度と会えないと思っている、ものすごく慕う主から別れ際にこんな事言われたら泣きますよね…。成実はどうしてこの台詞を削ったんだよ!(笑)
そして木村本によるともっとすごいセリフが…(笑)。まだオチがあります…。>>準備中。もうちょいとお待ちください。
…でもこれ読んだあとで、小十郎が追いかけ組*2で江戸行ってた…と知り、茶を噴きました…。こんな感動的な別れをしといてからに…!!(笑)
とりあえず近日中に木村本の記述を載っけます。しばらくお待ちください。

*1:せんびょう。ものごとの起こる前触れ。前兆

*2:すごいたくさん家臣が江戸行って、そのせいで「もうくんな!」みたいなことになってたらしいです…ああ政宗慕われてますね…