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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

成実は政宗臨終に間に合ったか?

こないだからずーっと、『政宗記』・『名語集』・木村本を付き合わせて、議題【成実は臨終の江戸行きついて行ったか行ってなかったか】【そして『名語集』さんは誰か】についてグダグダ考えていたのですが、まったく予想もしないところからの、いきなり情報がきました。

そもそも、

  • 『政宗記』記述に、白石まではともかく、その後の日光・江戸での描写に、木村や『名語』後半からの聞き書きで書けない部分がない。(資料があれば書けるレベルしかない/そして成実は見てないことを見てきたように書ける人)
  • そして幕臣と会っているのに、成実がいたらしき記述がまったくない。居たら絶対会って相手させられてるはず。
  • 臨終前後の女性記述から、おそらく『名語』後半さん(=小川?)と成実はノットイコール。(行ってたとしても、多分非常時でも、成実が女房たちがいる場所には居るはずがない)
  • 6月1日覚範寺での棺との再会の描写が明らかにおかしい。

→これは行ってないなー多分…orzと確信はないなりになんとなく思って、まあ私は絶望の淵をね、さまよっていたのですよ…。
で、だ。
昨日史料オフで、しぎのさんの治家記録の前の部分に、『石川氏一千年史』がファイルされてたので、てきとーにパラ見してました。三代の石川(伊達)民部宗敬が、葬儀では一門筆頭だったので、烏帽子と何着てたんかな〜*1程度の興味でパラパラと…。
そしたら!!

「寛永13年4月20日政宗江戸へ。5月14日、民部江戸に向かって角田出発。藤田(福島県)にて上京差し止めの命令があったので、角田に戻る。5月18日、伊達安房(成実)、江戸に赴くと聞いて、また出発する。古河(茨城県)に至ったところで、政宗の薨去をしり、空しく帰る」

その後民部さんは途中の宿で合流してるんですが、5月18日、成実が江戸に向かったと聞いて、民部は再出発した…!!??
つまり、

  • 成実は政宗と一緒には行かなかった(おそらく白石でお見送り組)。
  • 民部と同じタイミングの14日の追いかけ組でもなかった。
  • でも差し止め命令が出た後(13日より前に発令)で、それを振り切って行った。
  • 間に合ったか間に合わなかったは『政宗記』・『名語集』・木村本・『治家記録』にも一切の記載なし。
  • 小十郎は民部よりもっと早くに行った組(20日には江戸にいる)。おそらく5月上旬ごろ出発組。
  • てなわけで『政宗記』日光〜江戸で家光御成あたりは全部聞き書き確定。居なくてあれかいたのか…すっかり騙されたわ…orz

これだけでだいぶ萌えすぎて困るのですが、最大の重要ポイントは以下の通り。
さて成実は臨終に間に合ったか間に合わなかったか?

早駕籠の速さ

赤穂浪士のときに、二人の伝令が江戸ー赤穂を620㎞を5日で早かごを使って移動したと言われているそうです。普通でかかる17日かかる距離。でもこれは浅野内匠頭の切腹・藩取りつぶしを知らせるもので、二人居たのはどちらか死んでもいいぐらいに緊急事態だから。食事は駕籠の中でにぎりめしを、用便はしびん使用…と思われるほどの早さ、ついでに睡眠もほぼ不可能で寝ずに休息もとらず24時間行ったのではないか…だとか。
たしかに政宗の危篤も緊急ですが、成実はなにしろ69歳のおじいちゃんですので、そこまでハードな旅は無理だろうし、しなかっただろうと。
あと、馬はもちっと早いですけど、公道を幕府の許可なく馬では走れない。訃報の知らせならもしかしたら幕府の特例許可あったかもしれないけど、この段階で多分馬は使えない。てなわけで早かごで。
赤穂浪士スピードで行けば、仙台ー江戸(365㎞)も3日で着けますが、さすがにおじいちゃんな成実では無理です。あと上京が表向き禁止されてるのでそこまで大仰にいけないと思われます。
普通の参勤交代では一日40-45㎞で移動したようです。でもそれだと8日以上かかる。臨終に間に合いません。実際石川民部は上京直前の古河で訃報を聞いています。古河から江戸は61.4キロ。まだ一日以上はかかる予定。おそらく民部は参勤交代レベルの速さで行っていたようです。
で、上の赤穂浪士スピードで時速を計算すると、早駕籠自体のスピードは時速5.6㎞ほど。駕籠は交代だとして、24時間から睡眠8時間、食事2回×1時間休み引くと14時間。一日8時間で8.1日、一日10時間で6.5日、一日12時間で5.4日。年齢と必要な休息を考えると、ちゃんと宿とって休息しつつだと、このあたりが限界かと。

出発日時は?

石川民部が成実の上府を知ったのが18日。成実は17日以前に出発したものと思われます。でももしかしたら角田と亘理はお隣なんで、朝通りがかった一行を見たのを昼〜夕方に民部に報告、そのまま民部も出発とかもあるかもしれん。成実が18日出発だとしたら、18日入れても臨終に間に合うには丸6日しかない。10時間ペースでも危ない。そしておそらく8時間ペースあたりと思われる民部さんは間に合わなかった。
小十郎は20日にすでに江戸にいるのが確定なので、それ以前に行った組。そして、上府差し止めがいつでたかわからないけど、13日の治家記録にその話が載ってる。利根川で人止めしたとか、お忍びで来る人がいたとか。成実が民部と同じく14日に出発してたら同じようなタイミングで差し止めに遭遇したと思うが、14日の時点では成実はおそらく上府体勢には入ってなかった。成実の上府を民部が知るのにタイムラグがあったかどうかによるけれど、一番遅くて18日朝にでたとしたら、おそらく間に合ってない。でも15日ぐらいのタイミングで成実が出発して、18日にお隣の角田の民部が知るとかは逆に時間あきすぎでおかしいので、やっぱ直前の17日に出発…と推測すると、10時間ペースで急いで、早くても23日の着。24日未明の臨終に間に合うかどうかの瀬戸際(旅装とく時間も休む時間もなさげなレベル)。

「(13日頃)病弱は日々に重くなり、国許の藩士で走り登るもの多く、街々所々に宿泊しているので、内藤外記・柳生但馬から注意があり、利根川に人止めを置いて押し返したが、忍んで登る者が多かった」治家記録解説より

「日ましに御病気おもらせ給ふと聞しかば、片倉小十郎をはじめ御国の諸侍とるものもとりあえず、我先にと馳せ上る」『木村宇右衛門覚書』

で、家光がそれ聞いて感動した…みたいな。でも忠宗が止められないから、公儀から人止め命令(栗橋にて)を出した。国許にももう来るなっていった。でも思い入れで上京してくるのは、大目にみるから忍んで来い、みたいな感じだったとか。ちなみにこの命令は7日から13日の間には出てた模様。
みんな御屋形様ラブはいいが、一門衆まで一斉に続々とお忍びで上府して大丈夫なんか仙台藩…。一番空き巣が入るのは葬式の日なんだよ!気を付けなよ!(笑)

寛永13年5月
13:これより前に上府差し止め命令出る/
14:石川民部宗敬、角田から江戸に向かって出発、福島県藤田で上府差し止め命令のため角田に帰る/
15:
16:
17:
18:民部、成実の上府を知り、再び出発/政宗やや小康状態/
19
20:小十郎はすでに江戸に/御成の準備
21:家光御成/
22:殉死の願いのこと/夜、政宗危篤/
23:政宗危篤から回復/めごからの願いを却下/片付けを命じる
24:未明政宗逝去/民部古河にて訃報を知る/
その後、民部は栃木県那須郡芦野で仙台へ帰る一行に合流。

結局どうなんですか?

わかる手立てがあるなら逆に教えてください…orz タイムマシン貸してよ!(泣)
ただまあ成実様は「実盛見て二人でだだ泣き」を、「みんな感じ入って泣いた」とか書く方ですので、覚範寺で「みんな棺にすがって泣いた」はおそらく本人も確実に泣いたのだとは思うんですけど、江戸に向かったことは確定なわけですから、6/1に覚範寺ではじめて再会…てのではないと思う。差し止めや旅の途中で死んだの知ったのだったら、民部みたいに帰る途中で合流するだろうし。木村本にある、民部や他の人のように帰り道で合流した組の記述には入ってない。
上府後の記述がないのは、書きたくなかったからであって、書いてないから即居なかった、かどうかはわからない。成実はとくに疑わしい(木村さんなら別だが)。
さあどうでしょうか。もちろん私は間にあっていてほしい派です…よ…。
やー成実は、飛ばすでしょう。そして意地でも間に合うでしょう。
だってあと10年生きるんだから、まだ元気だって(笑)。

*1:後で見たらやっぱ布衣でした。