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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

創作におけるイメージの変遷

おもしろい記事を見つけました。
betelgeuseさんによる「伊達政宗の眼帯。1987年にNHKから広まる流れについて」
政宗の眼帯使用イメージについての考察です。
http://parasiteeve2.blog65.fc2.com/blog-entry-476.html
独眼竜以前からの映画での鍔眼帯、従来からの創作における柳生十兵衛との混淆など、興味深いです。バサラの政宗にいつの間にか剣豪イメージつきそう…とかも。そんなことになっているのですか…?(笑)
そして眼帯使用=独眼竜の系譜に連なるという意思表明である、というところがまたおもしろい。
独眼竜以前は疱瘡で目を失ったということもあまり流布していなかった…というのが意外な指摘でしたが、たしかに昔は矢で負傷して失明…という話の創作をいくつみた気がしますが、今はまったく見ません。
あと、政宗の右眼が大きくなってだんだん腫れてきたのでそれを片倉小十郎景綱が切り取った…という逸話がもう定説ですけれど、瑞鳳殿の発掘結果により政宗の右眼は眼球は損なわれていなかった(白濁して視力を失ったのは事実?)と知ってずっこけたファンは少なくないと思われます…orz この逸話は『片倉代々記』の記述に基づいたエピソードですが、後世による政宗の近侍伝説の一環と思われます。武の成実、智の小十郎…というある種神話的な構図といいますか。*1 二人の位牌が納められているのも。ど、どこまで信用していいんだろうな、逸話系は…。

御存知の通り、大河独眼竜政宗は最高視聴率47.8%を記録し、従来の政宗イメージを大きく塗り替えました。

平均視聴率39.7%は、大河ドラマの歴代トップを誇っており、最高視聴率47.8%は、『赤穂浪士』(53%)、『武田信玄』(49.2%)に次ぐ第3位の記録である(2010年8月現在)。
ーwiki「独眼竜政宗」の項。

先日の週刊現代の北大路欣也&ジェームス三木対談においても、開始3話でみるみる視聴率が上がっていき、自分に変わって視聴率が落ちたらどうしようと渡辺謙氏が心配していた…という記述がありました。今よりも多くの人がテレビを見ていた、そして核家族化以前の祖父母と同居が多かった多くの家庭で大河ドラマが見られていた時代、独眼竜によって政宗イメージは流布・定着していきました。
創作によって広まるイメージが史実と離れることがいけないとか、そういうイメージに騙される人が愚かだとか、そういう指摘がしたいのではありません。私も独眼竜好きから入りましたし、あの作品はドラマとしても、歴史創作としてもよくできたものでした。
ただ、何がきっかけでどう変化したかを知るのが、創作に触れるのとは別に、楽しい。

独眼竜によるイメージの流布

独眼竜によって広まった成実についての創作イメージはこんな感じだと思われます。

  • 学友として資福寺で友に虎哉宗乙に学んだ、といういわゆる資福寺設定。

虎哉宗乙が米沢に来た時期(元亀3年/政宗6歳・成実5歳)、もしくは小十郎が近侍しはじめた頃(天正3年/政宗9歳・成実8歳)から、資福寺でともに学んだ…という設定は、多くの創作家に好まれよくつかわれている設定ですが、おそらく二人が同年代であることから連想されたもの。
大河ではさらに、義姫に時宗丸が疎まれ、資福寺での共同生活を終了させられ(その後元服・家督相続後に本役で再登場)、そしてその後さらに、小田原参陣を目指す政宗を止めようと成実に直談判する義姫が、傍若無人な成実の態度に決裂…という展開もあります。これはおそらく49話で描かれた最上接収を効果的に見せるための、ジェームスさんが創作された義姫と成実の対立描写だと思われます。
実元死亡時の天文の乱告白前後の描写からも、実元と竺丸の立場の対比、そしてその子である成実の出奔への流れ…を考えて効果的に創作してらっしゃったように思います。

  • 出奔したのち、角田城接収に応じなかった家臣・妻子が角田城にて成敗された。

景頼が留守居役を務めていた時期に、一門の伊達成実が伊達家から出奔したため(文禄4年(1595年)秋から慶長3年(1598年)までの間)、居城の角田城を接収に赴き、抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余を討取っている。なお、この時に景頼が成実の妻子を殺害したというのは昭和62年(1987年)のNHK大河ドラマ独眼竜政宗』における創作に過ぎないが[1]、同年12月に刊行された新人物往来社の『三百藩家臣人名事典』などがあたかも事実であるかの如く記載したため、このような謬説が流布されるに至ったのである。
注1:成実の家族を角田城接収の際に死亡させる設定は、これ以前にも永岡慶之助『伊達政宗』(青樹社、1973)に見られ、あるいはこの小説がこの種の創作の最初の例とも考えられる。
Wiki「屋代景頼」の項

慶長3年にあったとされる角田接収の際、羽田実景らを屋代が討ち取ったのは事実ですが、角田城ではなく、羽田屋敷にて(世臣家譜)。そして室は出奔に先だつ文禄4年に死亡。側室がいた可能性もありますが、少なくとも亘理氏ではない。この設定が永岡慶之助氏の小説に最初に見られる…とありますが、これはおそらく『奥羽永慶軍記』「伊達安房守成実牢浪の事」が元ネタ。永岡先生、ジェームス氏はおそらくこれを参考にして創作なされたため結果として似たのだと思います。
で、独眼竜はドラマなので、ドラマチックにするために角田城でのことにされたり、継室が省略されたりするのは全然OK。結果としてキャラクターの性格付け(直情だが一途な成実の性格付け)のためになっている改変なら、するのは当たり前のことです。

毛虫と百足

ところが、独眼竜放送後どこから発生したのかわからないイメージが、「成実の前立ては百足」説です。
成実の具足・前立て・陣羽織についてはこちらが詳細。

  • 「伊達成実の具足と陣羽織」サイト成実三昧

http://shigezane.fc2web.com/majime/nazo/gusoku.html

  • 「伊達成実の甲冑〜伊達市開拓記念館〜その2」サイトしげ部

http://sigechannohe.blog.fc2.com/blog-entry-201.html
独眼竜政宗のアバン解説「伊達成実と片倉小十郎」で、前立てに関する解説がありましたが、そこでは毛虫の言及はあったものの、百足には言及せず。*2

ポスト独眼竜作品

独眼竜以後の政宗創作の主な流れはこちら(もちろん政宗創作はたくさんたくさんありますが、定説流布に貢献してそうなもののみ)。

  • 信長の野望』シリーズは1983年から発売された歴史シュミレーションゲーム。当時の中高生男子に絶大な人気を誇っていました。今の中高生よりみんなが一斉に同じゲームをやり、その体験を共有する…というのが主流だった時代なので、あの世代(アラサーよりやや上の世代から下)の男の人は地元武将以外の有名じゃない武将は小説やドラマではなく、信長の野望で覚えたという人が非常に多かったです。

成実が登場するのは2作目から。しかし浪人中だったり、生年没年が間違っていたり。本格登場するのは3作目『武将風雲録』。*3

  • 『戦国群雄伝』1988年12月発売

章 所属国 身分 武将姓 武将名 政治 戦闘 魅力 野望 感情 義理 相性 部隊 生年 登場 寿命 PC FC 政戦 備考
S2 大和 浪人 伊達 成実 60 85 80 80 90 A 80 B 50 C 騎馬 1557 1593 28 F × ○ 145 -

シナリオ 国 身分 武将姓 武将名 政治 戦闘 教養 魅力 野望 義理 相性 寿命 誕生年 登場年 軍師 PC版 CS版
S1 陸奥 待機 伊達 成実 76 85 69 72 68 4 2 3 1568 1583 軍師 ○ ○
S2 陸奥 待機 伊達 成実 76 85 69 72 68 4 2 3 1568 1583 軍師 ○ ○
S3 陸奥 待機 伊達 成実 76 85 69 72 68 4 6 3 1568 1583 軍師 ○ ×
数値データは『火間虫入道』http://hima.que.ne.jp/index.shtml より引用。

→成実は未登場。

→成実はサポートキャラとして登場。鎧を着るシーンはないため、百足かどうかは不明。
政宗は主人公格として最初から登場。筆頭・英語使用・暴走族的な描写…などで、一躍政宗ブームを巻き起こし、今に至る。
2008年ごろから歴女ということばがメディアで使われはじめ、その代表例としてBASARAが取り上げられるようになった。そして2008年からカプコンと自治体とのタイアップにより、BASARAバスや2009年都知事選ポスターなどに起用されたことから政宗の新イメージとして流布し始める。もちろん極端なキャラクターのため、史実と混同する層はそこまで多くないと思われるが、伊達氏とは関係ない仙台城址の護国神社にBASARAの痛絵馬が多数奉納されるなど、イメージの塗り替えにはだいぶ貢献?している模様。

  • 『戦国★男士』は2011年10月から放送されたTVK制作の特撮ドラマ。伊達政宗が現代の高校生…という設定ですが、成実は一つ年上の従兄弟として登場し、百足の絵入りの赤いスカジャンを着ています。

この独眼竜〜BASARAの間にいつの間にか成実の前立て=百足説が定着したと思われます。というのも、個人的な印象ですが、独眼竜〜90年代半ばまでは百足説を聞いたことがなかったのです。だいたい良心的な解説では「毛虫(百足説もあり)」「百足(毛虫説もあり)」と併記してあるのですが、創作ではどちらかといえば百足優勢。もちろんもともと毛虫も百足も不退転の覚悟の表明として信仰されてきた経緯もありますが、いつの間に、なんのきっかけで百足優勢になったかがわからない…。Wikiに書かれてから…というのもあると思うのですが、Wikiに載ると云う事はそれ以前になにか動きがないと…と思うのですが、きっかけが不明です。
可能性としては、信長の野望関連の書籍で流布?/ネットの逸話サイトなどで流布?ですかねえ…?

まとめ?

後世の人間にとって、創作と歴史を切りわけることは少々困難です。弁慶や山本勘助の例を出すまでもなく、後世の人たちの願望によって、イメージは移り変わっていきます。周囲や創作に関わる人たちだけではなく、本人たちの手によって伝説化が生前から行われることもままあります(成実の『政宗記』・奥羽軍談による上書き、政宗による田村伝説の創成など)。今の人が自分の記憶を改竄することがあるように、当時の人も時と場合に応じて、記憶を変容させます。*4
そしてそれは現在進行形で進んでいます。
たとえば有名になった成実の右手の火傷ですが、『政宗記』にあれほどはっきり書いてあるにもかかわらず、昔はそれを採用する創作家は皆無でした。もちろん政宗がメインの創作でそこまで書く必要はないと判断してエピソードを削った作家も多くいたと思われますが、少なくとも以前はここまで流布していませんでした。
熱意のある創作家やライターや研究者によって、イメージは具現化され、様々に広がっていきます。そういう具現化能力者に恵まれた創作が花開いていくのは、もはや国民的英雄となった坂本龍馬司馬遼太郎の例を見てもわかります。そして残念ながら、熱意のあるそういう人たちに恵まれない題材はどんどん歴史に埋もれて、知られることすらなくなっていきます。熱のある創作に恵まれた題材はそれに熱狂したかつてのファンである新しい作り手によってまた甦ります。もちろんヒットするかどうかは時代の空気と合うかどうかというのもありますが。
独眼竜政宗はそういう意味で、政宗創作における一大具現化作品だと言えるでしょう。*5 『ぼんたん!!』(阿部川キネコ先生/2007年1巻発売)では、後書きで独眼竜を資料として見られたことが書かれていたり、大河ネタが随所にちりばめられていたりして、インスパイア先として明示されています。大河ファンとしてはもう腹筋崩壊ですよ…。
そして最近増えた、その影響を受けた(眼帯つけた)政宗創作の流れ。そしてつけない政宗創作もどんなものが今後生まれるのか、楽しみでなりません。

で、肝心の百足の流布について何か情報ありましたら、是非お願いします!
百足の方が絵としてかっこいいから、たしかにゲームやマンガで使われるのはわかるんですよね…。毛虫をかっこよくかくのは…どう考えても…。まだ伊達市の方にある熊毛の方なら…どうにか…なるんでしょうか…?(笑)

*1:元服の時に成実が宝刀持ちを、小十郎が剃刀を務めた…てのもおそらくそれ系。大河の原作である山岡荘八は採用していましたが、冷静に考えると身分的に無茶です…。

*2:ちょっといま何話かがわかりません。あとで調べて付け加えます…。

*3:ウチの弟がやっていたのはこれでした。輝宗シナリオをやっていると、政宗の翌年に出てきます。

*4:個人的には、義姫&竺丸事件が一番あやしいと思います。

*5:まあ私もさすがに萬屋錦之介映画公開のころの政宗ブームとか知らないのでどんな感じだったのか気になりますけど