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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』1-2:大内に暇給事

『政宗記』1-2:大内に暇給ふ事

原文:

(伊達史料集上より。送り仮名など自分が読みやすいように付け加えています。例:依て→依りて、など。原文そのままではありません)

同正月(天正十三年)政宗十八歳の年、大内申しけるは、「今程雪深くして屋敷の普請もなりかねければ、此隙に御暇給はり、四本松へ帰り支度をなして、妻子と共に引具せん」と申することを、政宗聞き給ひ、「其の身より思ひよりて参りける上、争で怪しむべき」とて、暇を出し本領四本松へ返し給へば、雪も消し弥生の末になりけれども、参ることはさて置きぬ。音信とてもなかりけり。故に伊達の臣下遠藤山城基信、大内に諫めをなすと雖も、佐竹・会津へ引き合いければ、参るべきこと思ひもよらず。是に依りて、政宗即時に押し寄り退治せんと評議ありて、已に打ち立ちけれども、近年佐竹・会津・岩城・石川・白川・須賀川(二階堂)、各伊達へ和睦の上、万事終わりて静謐なりしに、今又佐竹・会津・大内に引き合い、楯突といふも政宗未だ廿にもなり給はで、大内を退治とあることならば、老朽の佐竹義重を始め、近国の大進衆敵となり玉ふべきことを、輝宗流石笑止に思ひ給ひ、政宗へ異見有りて人数を入り、宮川一毛・五十嵐芦舟という両使を以て、大内所へ輝宗より宣ひけるは、「政宗田村へ首尾一篇の憤りなれば、伊達へ身を打ち任せ、さて事を無事に候はば、争か身代悪かるべし」と宣ふ。大内、「仰せは有り難けれども、一旦背き奉る上は、滅亡を覚悟なり」と申す。重ねて又原田休雪・片倉意休(壱岐景親)を遣はし、「気遣の旨十分也、さらば人質にて事をすまし、政宗の憤りを休むべし」と宣ふ。是又叶ふまじきと申払ひ、其の上備前親類被官に、大内長門と云ひける者、日頃は米沢へも数度使いに差し上げ父子ともに知り召さるる者也、其の頃法体して我斎となのる。彼は両使に向かいて「旁何と進め給ふとも備前は承引あるまじきに、入らざることを宣ふものかな、縦ひ承引なきとても何とし給ひ候うべき、伊達の軍なりとも、別に替わりたることよも候うべきか」と申す。両使これに腹立して、「其の方米沢へ被為召し上がり給ふべきやと、爾らざれば四本松を退治し給ふべき、如何様にも末にはみべきぞ」と申しけれども、其后は兎角を構はざるゆへ、両使進るに及ばず。休雪・意休帰参して其の旨を申しければ、「政宗是非大内を退治して、首を軍門に可見」と宣へども、子細有りて人数を出し給ふこと延引し給ふ。去れば、政宗伊達臣下、原田左馬介宗長(宗時)・片倉小十郎景綱を召して宣ふことは、「右に会津より使者を以ての理りにも、大内備前免許に於いては本望の至りなり、米沢へも引き越すべし、会津にて全く構はあるまじきとて、今又大内楯を突くこと、悉く皆会津よりの底意なり。かくのごとくの手たて、隣国までの其の響き遺恨の次第なり、去る程に会津へ手切れをなして、軍合戦にも取り立てんとは思ふ、何方も切所にて思ひの儘に相叶はず。若しや彼の地へ武略を廻し、一味をなしける者あらば、軍に取り立て此の意趣届けたし」と宣ふ。左馬介、「某与力の会津牢人平田太郎右衛門と申す者差し遣はし拵へ見申すべきか」と申す。政宗、「其の者の底意は如何」と尋ね給ふ。委しくは存じ候はねども、常は賢く候程に、御奉公に二心はよも有るまじきか」と申す。さらばとて、越させ給へば、会津の北方に柴野弾正と云いけん者、忠にせんとて其の外弾正一味の輩共一両人も語らひ、政宗馬を出されなば手切れをせんと約束なり。是に依りて、同十三年乙酉五月二日に、左馬介遣はし給ふに、申倉越と云ふ難所を打ち越え、弾正所へ参りければ、城をも持ず屋敷構に居ける程に、左馬介遠慮なれども、少分ながら流石に人数を相具し、空しく帰らんことを如何とや思ひけん、火の手を挙げて手切れなれば、今津衆以ての外取りみだし、味方は方々助け来たりけれども、か様なりは会津中心替わり候べきとて、我は人さては人と相互いの疑心にて、焦燥の処へ、武略の使平田太郎右衛門忽ちに心変わりして、会津の謀反は柴田弾正一人、伊達よりは原田左馬介無勢にて只一頭なりと、敵陣へかけ入り告げける程に、敵軍是に力を得て、一戦を待ちかけければ、何にかはよかるべき、思いの外なる敗北にて、与力家中悉く討ち死になれば、左馬介弾正を妻子ともに漸く引き取る。されば政宗、同三日に会津より田舎道六十里北、扨米沢よりも同十里なる、会津領の境檜原と云ふ処へ馬をだされければ、即時に檜原は手に入れけれども、今度は先会津への初の手切れなれば、密のため米沢の軍兵迄にて出給ふに、左馬介敗軍なりと聞き、五月五日に惣軍を檜原へ参れと触れ給ひ諸勢参るを待ち給へば、其の間に会津の人数は大塩へ楯籠もり、城は堅固に相抱へけり。伊達勢も同八日に、大塩の上の山まで働きけれども、山中にて道一筋なれば、備えを立べき地形なし。大山隔て後陣は檜原を引離れざれば、合戦には及ばず、近々と働き引上、先小心者をば返し給ひて、御身は檜原におはします事。

笑止:笑いが止まること・困ったこと
法体:入道して剃髪すること
手切:戦闘状態に入ること
切所:きれどころ。要害
会津の北方:現在の喜多方市地方
申倉越:米沢市喜多方市の境の大峠
我は人さて人は我と相互いの疑心:心乱れて互いに疑いあうこと
大塩:福島県耶麻郡北塩原村大塩

現代語訳:

『政宗記』1-2:「大内に暇を与えになったこと」
天正13年政宗18歳の時、大内定綱がいうには、「いまのように雪が深くて屋敷の工事もできないので、この間に休暇をいただき、四本松へ帰り、準備をして、妻子と一緒に連れてきます」と言うのを、政宗はお聞きなさり、「おまえが思い立ってこちらへ来たのだから、どうして疑うことがあろうか」と暇をだし、本領である四本松へお返しになった。しかし雪も消え、3月の末になっても、一向に帰ってこない。便りもなかった。なので遠藤山城守基信が大内に催促したが、佐竹・会津との付き合いがあるので、参上する気はないと返した。
そのため、政宗はすぐに攻め入って退治しようと評議をし、すでにそれを決定したのだが、近年佐竹・会津・岩城・白河・須賀川など、各伊達の血族と和睦をし、すべて終わって静かに落ち着いている状態であったので、いままた佐竹・会津・大内とことを構えるとするにも、政宗はまだ20にもなっておられず、大内を退治するとなると、年老いた佐竹義重を始め近国の大名衆が敵となるであろう事を輝宗は懸念し、政宗へ意見して人を遣わした、宮川一毛・五十嵐芦舟という使いを大内へ遣わした。
「政宗は田村への体面上怒っているが、おまえが伊達へ身を任せ、ことを無事に行えば、おまえの身代は保証しよう」と大内におっしゃった。大内は「仰せはありがたい事であるが、一旦背いた上は、滅亡を覚悟している」と言った。輝宗は再び原田休雪斎・片倉意休斎を遣わし、「気遣いは十分である。では人質を送り、政宗の憤りをなだめなさい」とおっしゃった。これもまた無理だと拒絶され、定綱の親類筋で、米沢にも何度も使いとして来たことがあり、親子ともに顔を知られていた、大内長門という者がおり、当時出家して我斎と名乗っていた。長門は遣いにむかって「そちらがなんとおすすめくださいましても、定綱は聞き入れることはありません。不必要なことをおっしゃいますな。聞き入れないというのにどうにかしようとなさるのは、伊達の軍であっても同じなのですかね」と言った。遣いの二人はこれに腹を立て、「おまえが米沢へ来ないのであれば、四本松を退治するであろう。将来をみていろよ」と言ったが、その後は相手にしなかったので、遣いは進めるのを辞めた。休雪と意休が帰参して政宗に申し上げると「政宗は大内を退治して首をさらしてやる」とおっしゃったが、事情があって軍を差し向けるのは引き延ばしていた。
すると、政宗は原田左馬助宗長(宗時)と片倉小十郎景綱を呼び「これは横に会津からの使者が居るが故に断ったのだろう。備前への許しについては以前からの望みである。米沢へくることも会津は全く構わないと言っておきながら今このように大内が楯突くのは、すべて会津からの操りである。このようなやり方は隣国まで伝わり、遺恨を残す。なので会津との交渉を辞め、合戦しようと思う。しかし要害であるので思い通りにはいかない。もし彼の地へ謀略を廻し、こちらに内応しそうな者がいたら、こちらの軍に取り立てて、この意見を届けたい」とおっしゃった。
左馬助は「自分の与力の会津牢人で、平田太郎右衛門という者を遣わして、説得してみましょうか」と言った。政宗は「其の者の望みはなんだ」とおっしゃった。「詳しくは知らないが、賢い男なので、裏切ることはないでしょう」と言った。ではそうしようと、行かせたら、会津の北方に柴野弾正と言う者が従うといって、一味の者数名と語らい、政宗が軍を出したなら内応するという約束した。
これによって天正13年5月2日に、左馬介を遣わしたところ、申倉越という難所を越え、弾正のところへ行ったのだが、弾正は城も持たず屋敷に居た。左馬介は考えたが、隊を引き連れ来たのに空しく帰るのはどうかと思ったのだろう火の手を挙げて合戦状態になった。今津の衆は取り乱し、味方は助けに来たが、会津の心変わりであろうかと、互いに疑い合い、焦っていた。
平田太郎右衛門は心変わりし、裏切ったのは柴田弾正、伊達からは原田左馬介無勢で一頭であると敵陣へ駆け寄り告げた。敵陣はこれに勢いをなし、一戦を構えようとしたが、どうしたらいいだろうかと、想像しなかった敗北を喫し、与力や家中はことごとく討ち死にしたので、左馬助は弾正を妻子とともに引き取った。
すると政宗は同3日に会津から田舎道を六十里北、米沢から十里のところにある、会津領の境檜原というところに出陣した。すぐに檜原は手に入れたが、今度は会津との初めての戦闘開始であったので、米沢の守備兵まで動員していたので、左馬介が敗走したと聞いて、5月5日に総軍を檜原に進軍せよとふれを出し、諸勢が来るのを待った。其の間に会津の者達は大塩へ立て籠もり、城の守備を固めた。伊達勢は同8日に大塩の上の山まで出陣したが、山の中で道が一筋だったので、陣をする地形がなかった。大山を隔てて、のこりの軍勢は檜原を離れることができなかったので、合戦にはならず、身分低い者達を返し、政宗自身は檜原に滞在した。

引具す(ひきぐす・いんぐす):一緒に連れて行く
音信(いんしん):便り・通信。
笑止(しょうし):困ったこと/気の毒なこと・痛ましいこと/恥ずかしく思うこと
旁(かたがた):「人々」の敬語
免許:一般には禁じられていることをある者に許すこと
兎角(とかく):あれこれ・様々・いろいろ/いずれにせよ・とにかく