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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『木村宇右衛門覚書』142:「四月二十日の江戸への発足と、白石の片倉小十郎屋敷でのこと」

『木村宇右衛門覚書』142:「四月二十日の江戸への発足と、白石の片倉小十郎屋敷でのこと」
(注を参考に、漢字・句読点などを変換・補足しました。原文はもっとひらがなです。抜粋です。)

原文:

(前略)…御乗り物に召させられ候時三之助を御側へ召させられ、ささせられ候。御脇指を御自身三之助に下され、広間に並み居たる家来の者共に、何も能承り候へ古備中は小十郎といふよき子をもち、大坂このかた世上に名をはつす武名うちつつき冥加あり。小十郎も果報なる者にて、利発なる孫を子にとりたつる。かまいてあまり馳走過ぐさずして、よきものをつけてむてに息災に育てさせよ。小十郎が子は余の芸能はいらぬ也。闇隅いやからぬ様に、野へも山へも徒にて連れ歩き、雨の降る時は裸足にして駆け歩かせよと仰せられ候へば、家来の者共涙を流し、両の手を合わせ、拝し奉る。扨又町外れに小十郎が畏まる。御乗り物下にをかせられ、御供の馬上衆三四人呼ばせられ候、山路八兵衛私なども召しによってかしこまり承候へば、小十郎手を取らせられ、御乗り物に引き入れさせ給ひ、其方事様々目安を以て申せとも証引せず、しきりに理をつめ申に付いて穿鑿遂ぐれば偽り多し。少分之事にいやといわれぬ事あれど、それは我等あらんかぎりは憎しみあって申とも心安かるべし。され共身頼努々あるべからず。第一傲る事有るべからず。明日にも天下に御大出来り、御先駆承ってむかふほどならば、其方に先を蹴散らさせ、成実に一方の団扇とらせ、三人心を合わするほどならば、時ならぬ花を咲かせん物をと思ふ也。かまいて息災に国の留守任する也。身の事日ましに病気重くおぼゆる也。あはぬ事も有るべしと御涙を流し給へば、小十郎は声を上げ、落涙仕候也。
其日は福島に御一泊、信夫の高湯取りよせ、夜もすから御入被成候也。

現代語訳:

(前略)駕籠に乗られる時、三之助を御側に呼ばれ、脇差しをくだされ、手ずから三之助に差してあげなさった。広間に並んでいた家臣達に、「皆よく聞け。先代の片倉備中景綱は小十郎重綱というよき子を持ち、大坂の戦以来、世の中に名前を残す武名を連ねるという神仏の加護があった。小十郎重綱も幸せ者であり、利発な孫を子にした。過保護になるあまり飽食しないようにして、よい師をつけ、何も持たせず、元気に育てさせよ。小十郎の子は余計な芸事などにかまう必要はない。野へも山へも徒歩で連れ歩き、雨の降る時は裸足にしてかけさせよ」とおっしゃられたので、家臣達は涙を流し、両手を合わせて拝み申し上げた。
さて、また町外れに、小十郎が慎んで座っていた。政宗は駕籠をお止めになり、供の馬上衆を三・四人お呼びになられた。山路八兵衛や私(木村宇右衛門)などもお呼びにより座ったところ、小十郎の手をお取りになり、駕籠に引き入れ、「おまえの事を目安を使って、証さず、頻繁に理屈を付けて言ってくる者が居ることについて、調べさせたが、嘘が多い。おまえは身分が低いゆえに、嫌といえないことがあるだろうが、我等があるかぎりは不快なことがあっても安心せよ。しかし、自分を頼むことは決してするでない。第一に傲ってはならない。もし明日にでも天下に一大事が起き、私が先鋒を承って向かうときであれば、おまえに先を蹴散らさせ、成実に軍配をとらせ(=指揮をとらせ)、三人で心を合わせるならば、時節はずれの花をさかせるのに、と思う。気を付けて元気で国の留守をせよ。自分の身は日ましに病気が重くなるようだ。おまえともう会えないこともあるだろう」と涙を御流しなさったので、小十郎は声を上げ、涙を流した。
その日は福島に一泊なさり、信夫の高湯温泉の湯を取りよせられ、一晩中お入りになった。

【メモ】
三之助は景綱のひ孫で、重綱の孫。男子が無かったため松前藩初代藩主安広に嫁いだ娘・喜佐の外孫景長を養子とした。やや病弱であったとされる。

感想:

前にあげました『政宗記』11-7『名語集』56に該当するエピソード。
寛永13年4月末、死を覚悟して公方家光との最後の対面のため江戸へ登る政宗が、白石に立ちより、小十郎重綱との最後の別れをするシーンです*1
前にもかきましたが、小十郎重綱は讒言により謹慎中で、前半の三之助のお披露目の場には居ることができず、最後の対面をするために町外れでひっそりと待っていました。
で!
『政宗記』では、三之助に手ずから脇差しを差し、元気にそだてろ、と周囲に言い、その意見に皆感動して涙を流した、とあります。
『名語集』では、小十郎重綱を駕籠に引っ張り入れ、讒言を気にするなということ、傲ってはいけないという領主としての戒めを伝えた後、そしておまえと自分と二人でなら名をあげられるのだがなあ、と述べた、とあります。
これが。
木村本では、(上でかきました通り)「明日にも天下に御大出来り、御先駆承ってむかふほどならば、其方に先を蹴散らさせ、成実に一方の団扇とらせ、三人心を合わするほどならば、時ならぬ花を咲かせん物をと思ふ也」と、言ったと。
どうですかこの殺し文句。家臣として、武士としてこれ以上の殺し文句ありますか。いやない(反語)。大坂の陣で先陣を私に!と重綱がいって、政宗がほっぺたにかみついて「当たり前だろ…」エピソード(『片倉代々記』)も有名ですが、このセリフ、本当に殺し文句です。讒言に苦しめられていた当時、何があってもおまえの方を信じている的発言を聞いて、本当に小十郎は感動したことでしょう。
そして「世の中に一大事があれば…」なセリフ。「小十郎に先陣を、成実に一方の指揮を任せ、三人で心合わせれば、もう一度花を咲かせられるのに!」という文章に、智の小十郎・武の成実…みたいなイメージが今では強いので、「あれ?逆じゃない?」と感じられるかもしれません。しかし、小十郎は小十郎でも重綱は勇武な鬼武者、成実はもちろん年齢もありますが、若いときから調略を得意としており、『政宗記』からもわかるように、本来は猪武者というよりは知的水準の高い武将でもあります。
そして政宗が臨終間際までそんな野望を捨てていなかったことが(もちろん本気ではないにしても)切なく響きます。かなわないとわかっていながらも抱き続けていた夢。泣けます。

しかしこの大事なセリフを、肝心の成実がかいてない!
『政宗記』記述で、白石で皆で不安な予感の気持ちを尋ね合った…というエピソードがありますので、成実は白石までは一緒にいて、白石で別れた(で、おそらく亘理に戻った)ようですので、このシーンもおそらく一緒にいたと思うのですが*2、もしかしたら木村や名語集筆者ほど(物理的に)側近くに居らず重綱との会話を知らなかったのか、聞こえなかったのか、もしくは意図的にかかなかったのか…です。名語集筆者は木村と同じような位置に居た人物と思われますね。
そして…私は…ライターとして、客観的記述という意味で、成実より木村宇右衛門の方が正直で信頼できる人だと思っています(記憶力もいいし、詳細を見ているし、意図があまり混入されない)。比べて読むと、成実は全体把握は上だと思いますが、詳細よりも骨志を、そして意図を優先させるところがあるライターのように感じています。読み物としては個人的には成実のものの方が好きなのですが。
真相はわかりませんが、きっと政宗の後ろで守護霊をやっている(断言)景綱も喜びで悶絶していることと思われます。
こういうセリフを人にきちんと言える政宗という人の性格が、とてもステキだと思います。*3

【追記】『片倉代々記』読んでたら、次のような文が。他の部分はほとんど同じなので、略しますが、ここだけ。

重綱は聲を発して感涙すれば、御駕は既に発しけり。

重綱は声を上げて泣いたが、駕籠は既に出発していた。

…だれか本当に映画化しろ!(泣)

*1:まあこんなドラマチックな別れをしておきながら、小十郎はその後江戸に行き、政宗ともフツーに会ったりしてるわけですが(笑)

*2:断言はしませんが

*3:もちろん『白達記』の記事で述べたように、恐いときはホントに恐く、冷たい相手には本当に冷たいのですけど!(笑)