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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

成実家臣メモ『亘理世臣家譜略記』より

『亘理世臣家譜略記』から、主だった家臣を抜粋します。記述を要約。
もとの世臣家譜略記には各家代々の名前が載っていますが、成実・宗実あたりに仕えただろうと思われる代の名前のみあげています。様々なエピソードが書かれていてとても興味深い。

・志賀家(着座右一番座)

隆義(四郎右右衛門太輔)―隆正(備後・内膳)
元岩城家家臣。岩城を立ち退き大崎にいたころ、実元によって客分となる。その後、家臣となる。

・濱田家(着座左一番座)

利元(半四郎)―旨利
利元は晴宗宿老濱田伊豆景宗の曾孫、三男筑前宗実入嗣の際政宗によって家老としてつけられる。利元の妻於虎は宗実の実母果学院の姪(鳥居左之助安長の娘)。

・佐瀬家

常種(大和守・信濃守)―常祐(内膳)―俊常―常之
常和は千葉常胤6男千葉胤頼の十三世孫。会津芦名家の重臣。会津四天王の一人で、六万石を食み、坂下城に住まっていたが、天正17年芦名氏が滅び、浪人となった。常祐は白石宗直と懇意にしていたので出入りしていたところ、政宗に囲碁の相手を申し付けられ、その後禄を賜るようになる。元和元年、宗実の傅役を仰せつけられ、室長沼氏は御局となる。常儀は寛永10年政宗の命により亘理伊達氏に仕えるようになる。

・常盤家

勝定(伊賀・和泉)―某(与惣兵衛・伊賀)―実定(隼人・信濃)―吉定
先祖伊賀勝定は田村隆顕の姪、常盤左馬介の次男。常盤郷を賜り、名字とする。田村氏離散により、勝定が二本松に立ち退き、与惣兵衛・隼人は二本松または角田に住んでいた。文禄元年隼人が17歳で成実に仕えるようになり、実の偏諱を賜った。出奔の際も供をした。慶長7年亘理拝領の際、返礼として宇佐美長光の刀を献上する使者を務めた。吉定は寛永15年成実が上府の際供として登ったが、その際陽徳院から様々な品を賜った。成実はこれを辞退したが、その後会う度挨拶したという。正保3年成実の追善のために吉定が高野山にあがった際も、江戸に立ちより陽徳院と面会し、高野山の土産を献上したところ、一同に料理を賜ったとする。

・上田家

永庵―良庵
永庵は始め政宗に仕え、その後政宗の命により宗実へ客分として仕えていた。永庵病死の後、子良庵は将軍家医師川野良以の弟子になり、江戸にいたが、宗実が忠宗に懇願したことから亘理伊達氏に仕え始める。

・只野家

日向―三郎左衛門―太兵衛―三郎左衛門
諱伝わらず。日向は始め政宗に仕えていたが、宗実入嗣に伴い、中老御役に召し抱えられる。

・羽田家

因幡守(粟野作左衛門)―次男実景(右馬介)―実景(丹後)―実兼(宇兵衛・ 将監)
近江国羽田郡の出身。因幡守は稙宗に仕え、その後粟野作左衛門と称するがその子故あって断絶したため、次男右馬介実景は姓を羽田に戻す。天文年間実元入嗣の際家老として代々仕える。右馬介は成実に仕え、よく武功を知られた。

・遠藤家

信綱(越中)―実定(与惣右衛門)
信綱は元々政宗に仕え、宗実養子に際して亘理へ来た。

・柴田家

常州赤柴郡の生まれで、参州に住まっていたところ、政宗の代に一家そろって仙台へ引っ越した。果学院が宗実を生み、宗実が成実の養子となったことから、正保3年亘理へ。その後荒浜にて刃傷事件を起こす。

・鳥居家

康永―康則
康永は果学院の兄。宗実養子に伴って亘理へ。

・志賀家

品清―清賢

・常盤家

景定(縫殿丞)―俊定(隼人七郎左衛門・五郎兵衛)
景定は常盤実定の三男。成実の代に召し出され、仕えていたところ、黒川仲庵の事件があり、仲庵娘を娶り、知行を継ぐ。寛永15年忠宗の銀子拝領の御礼のため成実が上府したとき、二の門まで駕籠で登る許しを得たが、駕籠を降りた後景定と清野左京*1が手をとりお供をした。しかし、側まではいけずにいたところ、内藤外記(正重)が出迎え、そのままつきしたがうよう指示をもらったので、殿中までお供した。着座のそばから3,4間外にいろと内藤に言われ、成実が軍談を語る間詰めていた。成実はゆっくりと戦物語を語り、馳走を賜り、家光もこれを陰からお聞きになって賞賛されたと外記から聞いたという。

・黒野家

五郎太夫―覚兵衛―覚兵衛―覚兵衛
五郎太夫は北条氏直の家臣で、常陸黒田城の城主であった。小田原攻めで北条氏が滅びた後、家中は離散し、黒田城は大久保相模守(忠隣)が拝領し、五郎太夫は忠隣に仕えていた。そのとき意図あって小田原かすや村に引き込んでいた成実を、計略を以て禅庵堂という寺に入るようにし、町割をして、家中ごと住まわせた。この町は成実町と呼ばれて後年においても門前にあったという。禅庵堂の主は白籏市郎右衛門といい、五郎太夫子の覚兵衛の伯父にあたる者であった。市郎右衛門は忠隣の執権で、三年の間成実の世話をした。その後、大久保忠隣の仲立ちによって、家康から十万石の扶持をもらい、仕えるとりきめが成立していたが、政宗から奉公構があり、とりやめとなり成実は帰国した。その際、もし何かあれば奥州へくるよう伝えられていたが、その後大久保家と本多家の対立があり、よんどころなく立ち退いた五郎太夫が亘理を訪れ、仙台への繋ぎをつけて欲しいと願いでたところ、亘理にて休息をすすめられ、客分に召し出され、屋敷を賜り、ついに家臣となった。五郎太夫が病死した際は、追悼のため成実がじきじきに焼香に訪れたという。二代目覚兵衛は大坂の陣や仙台の屋敷普請などに働いたという。
*2

・深田家

勝光(甚五左右衛門)
勝光は蒲生飛騨守氏郷の家臣で、四天王の一人。蒲生家離散に伴い、亘理を訪れ、仙台への取り持ちを頼んでいたが、隠居したので宗実預かりになり、そのまま亘理に仕えることになった。力自慢の人だったという。

・遊佐家

某(左藤右衛門・内蔵)—常高(左藤右衛門・伊与)—品高(左藤右衛門・伊与)
内蔵は上方出身。畠山義継に仕え、東川端城に住まっていた所、常高が義継へ恨みがあり、実元と面識があり、輝宗へ奉公したく仲介を頼むため、二本松を立ち退き八丁目へ奉公しはじめた。政宗よりも朱印状をあてがわれていた。常高は成実に仕え、出奔中も供し、ついに家臣となった。

・真柳家

長門—伯耆—六左衛門—六左衛門
長門は成実に仕えていたが、出奔したためいろいろなところで与力奉公し相続していた。志賀備後から成実の帰参を聞き、再び仕え始める。

・伊場野家

広昌(遠江)—広義(内蔵丞)—弥左衛門—七平—七平
朝宗が奥州に下向したとき供をした伊場野庄司の子孫という。実元の上杉入嗣の際に稙宗の命で従う。遠江広昌は天正のころ成実に従い武功をあげる。天正14年人取橋の戦いで討ち死に。広義は天正17年19歳(成実より4つ下)で、郡山合戦で鉄砲玉をうなじに受けるが、生涯取り去らず、これをひねって遊んだという。酒好きで、70で死んだ際、死後にこの鉄砲玉を抜き取り、武具の中に入れさせたという。

・萱場家

時政(宮内)—元時(源兵衛)
元信長家臣。時政のときに稙宗へ従属。実元入嗣の際に稙宗に命じられ仕える。源兵衛は長鉄砲に秀で、寛永2年の政宗の鷹狩りにて鶴を撃ったという。

・牛坂家

某(佐渡守)—某(佐渡)—実隆(佐近)—某(佐渡)—興隆(喜四郎・喜左衛門)
元北条家家臣で下野宇都宮に在住していた。永正の役に際して尚宗に属し、その嗣子佐渡は実元の入嗣に際し、稙宗の命で士大将としてお供する予定だったが入嗣が中止になったためそのまま実元に仕える。左近実隆は成実に仕え武功をあげた。喜四郎興隆は若林の頃に、政宗じきじきに祖父の左近実隆の武功を讃えられ、盃・脇差しを賜り、喜右衛門と改名する命を受けて改名した。

・松下家

岡左馬助—忠左衛門—忠左衛門—庄右衛門—長兵衛
左馬助は成実に仕え、大坂の陣に供をする後に松下に改姓。

・屋代家

景頼(勘解由・日向)—三郎兵衛(作兵衛・藤右衛門)—三郎兵衛
政宗に仕え、信頼篤かったが不始末があって召し放され、その後成実に召し抱えられて代々仕えた。角田城を接収の際、羽田らを討ち果たした本人。
*3

・但木家

直次(越後)—五郎左衛門
越後は実元に仕え大森時代から成実に仕える。生前追い腹の願いを申し上げたところ辞退を言い渡されたが、強く願い、許しを得た。成実が正保3年6月4日逝去すると、大雄寺へ日に三度参り続け、20日に殉死。辞世「おのづからすます心の雲晴れてまことの月のひかりをぞ見る」

・常盤家

元定(蔵人)—清定(左之助・蔵人/内蔵助吉定の4男)
元定は常盤信濃実定の次男。成実に仕え、37歳にて殉死。
辞世は「月の入るあとをしたいてやがて身は同じ道にと行くすえの空」

・前田家

実信(左門・図書)—実繾(半蔵・図書)
図書実信は幼少時より成実の下で養育され、13歳のとき成実によって元服し、実の偏諱を賜り実信を名乗る。47歳で殉死。辞世は「をしと思う月にこころをおもい入りてかげも我が身もともに消えぬる」半蔵実繾も同様に13歳で宗実によって元服した。

・阿部家

淡路—新助
淡路は武蔵国阿部豊後守の子。兄弟三人とも諸国武者修行に出たところ、実元に見出され、傅役を頼まれ*4家臣となる。成実二歳の頃という。兄文五郎は仙台で仕えていたという。

【20130904追記】
成実に殉死した家臣は以下の通り(末尾年齢は成実との年齢差)。

  • 常盤蔵人元定/昌安盤公禅定門/37歳-42

「月の入るあとをしたいてやがて身は同じ道にと行くすえの空」

  • 但木越後直次/関翁秀公禅定門/65歳-14

「おのづからすます心の雲晴れてまことの月のひかりをぞ見る」

  • 前田図書実信/玉峰全公禅定門/47歳-32

「をしと思う月にこころをおもい入りてかげも我が身もともに消えぬる」

  • 小川五兵衛高家/伝宗的公禅定門/43歳-36

*1:この清野がおそらくヒゲ剃毛エピソード登場の清野?

*2:この項の内容にかなり動揺しますが、しかし突然の「十万石」記述でいきなりどこまで信じていいかの信憑性が一気に減少…。

*3:諸国流浪の後、近江にて死去したとする説もある。

*4:輝宗の喜多や小十郎の傅役任命も思いますけど、伊達家はふらっと来た新参の人に大事な嗣子の養育係任す伝統でもあるんですか?(笑)と疑問が…。