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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

成実の謡本について

Twitterでお近づきになりました、能をやっていらっしゃる柏木ゆげひ(@kashiwagiyugehi)様から、亘理伊達家(伊達市開拓記念館)に伝わる謡本のことを教えていただきました。柏木様が成実に興味をお持ちになったのも、この章での記述があったからだそうです。

このエントリは
表章『喜多流の成立と展開』平凡社/1994
第四章「古七大夫の芸風と人柄」第四節「古七大夫節付け謡本をめぐって」の3「伊達市開拓記念館蔵二番謡本-伊達安房本-」
を参考にしています。

喜多七大夫についてのWikiページはこちら
伊達氏開拓記念館に所蔵されているこの謡本は、古七大夫節付本と金春七郎安勝節付本の混在する江戸初期筆二番綴謡本。
五冊が金春七郎安勝節付本:采女・三井寺、難波・邯鄲、松風・千手重衡、呉服・加茂、天鼓・遊行柳。
五冊が古七大夫節付本:源氏供養・杜若、百万・柏崎、朝長・清経、短冊忠度・八嶋、三輪・竜田(それぞれ3/3、3/8、3/14、5/20、7/10の「喜多七大夫」の奥付)
このうち、七大夫本の五冊に「伊達安房守様参」の宛書があるそうです。

この本では、

  • 七大夫が「喜多」姓を使用していたのが寛永初年から寛永中期以前と推測されること(その後は「北」を使用)
  • 宗実の安房名乗りが承応元年3月19日以降であり、七大夫が承応2年正月に没しているため、3月前半の日付けを含む安房本を依頼した「安房」が宗実ではあり得ない

ことから、謡本奥書の「伊達安房守」は伊達成実と考えるのが妥当である、としています。

寛永年間に、実盛を見て政宗と成実が号泣したこと(『名語集』「能を観て感泣す」の記事、参照)や成実屋敷での饗応での能を催していること、七大夫が元和9年には既に伊達家に出入りしていたことから、当時の伊達安房である「成実が七大夫に謡本の節付を所望することは十分あり得る」と書かれています。
そして金春安勝の活動時期・七大夫の使用姓の変遷から、「伊達安房本は寛永初年から寛永9年以前に書かれたものと推測される」と、結論づけています。
寛永初期ということは、伊達の側の認識としても、まあ「伊達安房守=成実」だよなあと思います。

ここからちょっと能について無知な私にはよくわからないのですが、どうもこの本の成立過程・内容がやや特殊らしいのです。
政宗が無類の能好きであったことはよく知られていますが、政宗は七大夫を贔屓にしていたものの、桜井八右衛門安澄を金春流に入門させていたことからもわかるように、伊達藩の能は金春流が中心なのだそうです。
ですが、この謡本は本文が金春流なのに節つけが喜多七大夫(つまり喜多流)という、特異なケースなのだそうです。この時代にまだ流派の境がきっちりしていなかったことが推測されるらしいのですが、定説の例外にあたるものなのだそうで、定説に「限定を添える必要があることを教えてくれたのが、伊達安房本だった」と書かれています。

「寛永初年当時は、観世系統の上掛りと金春系統の下掛りの差こそ、役者にも能楽愛好者にも明確に意識されていただろうが、金春流・金春流大蔵派・金剛流・喜多流・春藤流・高安流といった下掛り内部の謡の流儀差は、さほど強く意識されていなかったらしい。だからこそ、伊達安房は自己の謡本の節付を金春大夫安勝にも大蔵大夫氏紀にも北七大夫にも依頼し、今日の眼には別系混在に見える本を調えただろう。その把握が仮に誤りでも、古七大夫の第一人者としての声望は既に高かったはずであるから、伊達安房が言わば混合流の本を作ったことは十分納得できる。」
ーー表章『喜多流の成立と展開』より

……ということらしく、正直素人である私にはさっぱりわかっていませんが、やや成立が特殊であること、それが能の流派の成立過程を推測する上でちょっと重要なものだったりする…ようなのです。で、前述の柏木ゆげひさんは伊達成実や伊達家の能にも興味を持つようになられたのだそうです。

亘理町史の成実の項や、亘理町発行の小冊子「伊達成実」に、「熟年期〜老年期の成実の周辺に、たとえば政宗の能や歌のように熱狂するような楽しみがあった感じがしない(それなりの嗜みはちゃんとあったように推測はされるのに)」…という内容の記述があります。
それは自分も常日頃思っていたのですが、この謡本のことを聞きまして、意外なところからの反証を見せられたような感じを抱きました。成実がどうしてこの謡本を依頼し、作らせたかはわかりませんが、節付と本文が違うというこの謡本の作成で、拘ってわざとそうしたと仮定しても、拘らずに(伊達家と関係のある双方の能楽師の顔を立ててとか)そうしたと仮定しても、成実の能への姿勢と、ーーもっといえば性格やら環境やらーーを推測する重要な材料になるように思います。
伊達家の公式記録では、成実が能会で舞う側にまわった記録とかは(たぶん)ないのですが*1、そもそも何の為に謡本を作らせたのかとか、いろいろな推測ができるのではないかと。記録を残す以外に趣味があったのかどうかも含めて…。舞うことはなかったけれど、謡の練習だけしてたかもとか、もしかしたら本をかく方に興味があったかもとか*2
現地で使用感などを見てみたら、また印象が変わるのかもしれませんよね。冊子に、どれぐらい読み込んだ形跡があるかとか、書き込みとかあるのかなあ…とか(以前どこかで、他の大名が作らせた謡本を見た感想で、「あまり使用感がないから、付き合いで作らせたけど、あまり好きではなかったんじゃないの?」みたいなことを書いている人がおられました(笑)当時は能が、大名同士の社交の道具みたいなところもあったらしいので、そういう人もまたいたでしょうし。あんまり自分は好きでもないけど、付き合いでやらなきゃいけないから練習する、今のゴルフみたいな。)。
果たして成実はどういう意図でこの本を作らせたのか。
そういうのを確かめる上でも、ちょっと見てみたいですよねえ。所蔵は目録で確認しましたが、普段展示はされてるのでしょうか。気になります。

…そういえば、話はかわりますが、今冬の初めの大雪で折れてしまったという開拓記念館裏の樹はどうなったのでしょう…。大丈夫だったのでしょうか。何ごともなかったのならいいんですが…。

【0118追記】柏木さんのご指摘をいただきまして、能の用語の間違いを訂正しました。

*1:政宗は太鼓を打った記録・拍子を舞った記録がーーそれほど多くはないが、ーーある

*2:注:あくまで単なる妄想です