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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『義山公治家記録』の成実記述

『治家記録』義山公(=忠宗)部分に登場する成実記述まとめ。

基本的に伊達家の正月恒例行事として

  • 3日:御佳例御野始(鷹狩や追鳥狩などの模擬軍事訓練)が開催される。政宗存命中から、政宗9男で成実の養子となった伊達治部大輔宗実がだいたい担当。
  • 7日:御連歌(伊達家恒例の連歌の会)。出てたのかどうかは定かではないけど、見たところ歌は一個も載ってません(笑)。
  • 8日:心経会。
  • 11日:政事始。
  • 14日:御諚始。
  • 18日:懺法。一年の懺悔をする。いろいろな種類があるが、おそらく伊達家は観音懺法。だいたい終わった後能会。
  • 20日:在国のときは曹洞宗法問、22〜28まで護摩供あり。
  • あと正月行事じゃないけど中秋(9月15日)に月見の会(の歌会)するのが恒例。

があります。

【義山公忠宗】:慶長4年12月8日大阪城下屋敷にて誕生。政宗第2子。母は正室田村氏(愛姫・陽徳院)。慶長16年12月13日秀忠の前にて元服。偏諱をいただき、忠宗を名乗る。美作守に任ぜられる。総次郞。元和2年10月2日正五位下に叙し、侍従となる。寛永1年6月23日越前守となり、同3年上洛し、従四位下に叙し、右近衛権少将となる。

1636寛永13年:69

  • 5/24:政宗薨去。7月15日忌終わる。
  • 7/21:家督相続御礼のため江戸城登城。将軍家光へお目見えし、銀子、馬などを献上する。秀宗・宗泰・宗時らもお礼に上がる。家臣では石川民部宗敬・伊達安房成実・伊達武蔵宗利・伊達安芸定宗・石母田大膳宗頼・大町備前元頼・中島監物意成・原田甲斐宗輔・富塚内蔵重綱・遠藤式部玄信・片倉小十郎重綱・牧野大蔵盛仲・佐々若狭元綱・津田豊前景保・津田近江頼康・古内主膳重広がお目見えした。

→8/22:仙台帰着。

  • 8/27:代替わりの惣お目見え。

1637寛永14年:70

  • 4/22:松島瑞巌寺にて貞山公一周忌法要。成実が名代を務める。中島監物が高野山へ遣わされ供養塔つくる。観音院にて供養。〜24日まで。
  • 6月:広瀬川洪水。
  • 10月24日:瑞鳳殿完成。参詣する。

1638寛永15年:71

  • 2/1:宗実→成実書状を送る。島原の乱についての連絡。
  • 4/20:前年の洪水に対する幕府からの拝借金への返礼の名代として江戸へ上府するよう依頼。

「四月廿癸丑。伊達安房殿へ御書を以て、今度御拝借仰付けらるに就て、御親類中及び惣家中にて御礼の惣名代に安房殿罷登らるべき旨、仰せつけらる。御書左に載す。
態飛脚を以て申候、然者去年洪水に就いて、此の度上様より銀子五千貫目御借なられ候、右の御礼親類中其外下々訖申し上げるべく様も、御座なく候とて、其の方御上候てしかるべき由、爰元懇衆仰せられ候間、御大義申すに及ばず候得共、早々御上侍申候、遠路の義に候間、余人成れども上申したく候えども、箇様之大分之御礼に候間、申進め候、いかにもいかにもかるかると人少にて御上るべく候。
一、右の御礼に昨十九日に登城仕候へば、御前近く召され候、御諚には、去年在所大水具にきかせられ候、笑止千万に思し召され候、平成25年3月5日箇様成る義、ついに誰々にも仰せつけられず候えども、其の方のことは格別に思し召され候間、箇様に仰せ出されし由、色々忝し。御諚共筆紙に申されず候。
一、上様御機色一段よく候ひて、参府以後両度御目見仕り候。上下万民の大慶不遇の義に候、急ぎ早々申候。恐々謹言。
尚々箇様成る仕合人の上にも承り及ばず候、各満足すべくと存事に候。早々申候。いかにもかるかると御上りしかるべく候。以上。忠宗
この後、安房殿上府、親類中及び御家中にての惣名代として、今度金子拝借の御礼申し上げらる、因りて公方へ御目見仰せつけられ、時服十御羽織に下し賜ふ。安房殿老衰に就いて、御直参の輩乗輿の所にて、乗物御免の旨上意あり。月日知らず。」

→この後5月江戸城で御礼言上したあと、饗応の際に幕臣の前で戦国トークショー奥羽軍談をした。家光も御簾の向こうで聞き、歎賞したという。

1639寛永16年:72

  • 1/1:忠宗伊達屋敷にて祝儀。家来からの使者を受ける中に、成実の使者もあり。
  • 7/17:成実→忠宗書状。を進上する。翌日小野田へいき、伊豆野へ直接行った方がいいと記す。

→忠宗は18日鷹狩りのため加美郡小野田へ逗留。25日栗原郡伊豆野へ行く。

  • 8/28:忠宗→成実書状。23日に嫡子左衛門宗実を失った伊達安芸定宗を気遣う手紙。(*定宗は成実の最初の正室亘理氏の弟)

「其地へ御越し御太儀に候、さて芸州心中言語に絶し候。万事察し申候。この上芸州景色も悪く成られ候へば、我等のためにも重畳しかるべからざる事に候間、其の段よく仰せられるべく候。萬萬任し申候。(後略)
此節安房殿伊達安芸殿へ弔慰として彼在所へ参られ、吉田忠兵衛は安芸殿への御使者と見えたり」

1640寛永17年:73

  • 2/8:成実、家光からの上使能勢小十郎の饗応に参加する。能五番あり。
  • 3/5:忠宗が岩沼から亘理城を訪れ翌日仙台に帰城する。
  • この年の政宗命日(5/24)に茂庭了庵綱元死去(92歳)。

1641寛永18年:74

  • 4/11:首途の宴*1を宗実邸(伊達安房邸)で行うようになる。
  • 8/6:成実→忠宗初菱食を一羽献上する。3日に生まれた将軍家若君竹千代(のちの四代将軍家綱)の祝いに、江戸に献上する。使いは小十郎が担当。
  • 11/5:幕府の上使荒川右馬助安定*2が仙台に来たので饗応の相伴をする。茶席と能5番あり。

1644正保1年:77

  • 4/26:成実の体調について、奉行たちの間で通達あり。

「茂庭周防、古内主膳より、石母田大膳、中嶋監物、片倉小十郎、津田近江、奥山大学方へ遣わす御用の書状あり。其略に云く、安房守殿御病体紙面の通り具に披露す。熊田次兵衛一昨日上着し、様子具に聞かせらる。快庵玄休松庵よりの書状返答すべしと云えども、次兵衛様子申上げらるに付て、其儀に及ばず」

  • 10/12:嗣君(跡継ぎ)光宗、仙台へ下向。家臣の御礼の儀。宗実、成実も御目見得。
  • 10/14:本丸博多の間に於いて御祝儀の饗宴あり。成実も相伴。

1646正保3年:79

  • 2/9:隠居願いをついに承諾、家督相続の許可。

「二月九日丙戌。伊達安房殿成実隠居、治部殿宗実へ家督相続仰せらる。安房殿より度び隠居の願申し上げらるに就て、病気の障にもなるべき歟と思し召さる。存分次第隠居せらるべきの旨、今日津田近江頼康、古内主膳重広を以て仰し渡さる」

  • 6/4:辰の刻、亘理に於いて死去。
  • 6/7:成実死去を知らせる飛脚が江戸に到着。

「六月乙未小七日壬午。仙台より飛脚到着、去る四日辰刻(午前8時)亘理に於て伊達安房殿藤原成実病死の由、注進あり。治部殿宗実へ御悼の御使いとして、大和田四郎右衛門重清を差下さる。安房殿年七十九、法名久山天昌雄山寺と号す。辞世の和歌あり。云く、古も稀なる年に九つの 余るも夢のうちにぞありける」

*1:参勤交代に出る前に行われていた、門出を祝う宴。綱元が死ぬまでは茂庭邸で開催されていた

*2:吉良上野介義定次男・書院番頭