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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『貞山公治家記録』の成実記述(天正18〜・文禄・慶長)

『貞山公治家記録』の成実記述(天正18〜・文禄・慶長)。天正18年(23歳)から慶長18年(46歳)まで。
『伊達治家記録』宝文堂版の、2巻部分。

1590天正18年:23

  • 1/7:成実→政宗書状。扇子・年始祝儀を献上。
  • 5/8:政宗→成実書状。小田原参陣の事について。

「態の来章、再三御披見祝着し玉ふ。小田原の様子先以て替わる義なく、堅固に抱え置かるの由なり。但し、果たして落居ほどあるべからざるか。さてまた御登りのことは明くる九日に議定し玉ふ。」

  • 5/9:政宗小田原に向かって出発。成実は黒川城留守居を命ぜられる。
  • 5/27:田村月斎・橋本刑部顕徳→成実書状。石田三成書状について。
  • 6月:政宗小田原着陣。(9日、秀吉と面会。)25日帰国。
  • 7/4:大里攻め援軍として、成実・小十郎及び長井勢を遣わす。
  • 8/3:岩城常隆、小田原にて死去。
  • 8月中旬:秀吉の東北下向。
  • 8/12:田村孫七郎→成実書状。政宗の出馬の日取りについての書状。
  • 8/27:政宗→成実書状。安積・須賀川について。
  • 9/22:政宗→成実書状。蒲生氏郷書状を勝手に見たことについて。
  • 9/29:政宗→成実書状。上洛・藤山(二本松)のことについて。
  • 10/3:政宗→成実書状。白川・二本松・塩松境目案内者のことについて。
  • 10/6:政宗→成実書状。ひきつづき案内者のことについて。
  • 【葛西大崎一揆詳細】→別項(予定)
  • 12月中旬:氏郷から人質の要求が有り、政宗は国分盛重を送るが、拒絶される。
  • 12/25:浅野弾正→政宗書状。氏郷の要求通り留守政景・成実のどちらかを人質に差し出すよう忠告。
  • 政宗、信夫郡飯坂城にて年越し。

1591天正19年:24

  • 1/1:政宗は飯坂城にて祝儀あり。成実・国分盛重・浅野正勝は名生城に赴く。黒川郡下草に泊。
  • 1/2:名取郡岩沼に泊。
  • 1/3:刈田郡宮に泊。
  • 1/4:宮に逗留。
  • 1/5:成実、蒲生氏郷に命じられ大森で離脱。氏郷は二本松に。
  • 1/7:政宗、二本松にて浅野弾正と面会。
  • 1/30:政宗上洛のため米沢を出発。留守政景・片倉景綱が同道。成実・湯目景康が米沢留守居。
  • 閏1/27:政宗清洲へ到着、秀吉と面会。そのようすについての書状を成実に送る。
  • 3/8:政景下向。政宗→成実・湯目景康書状。政景下向について。
  • 3/14:政宗→成実・湯目景康書状。替え地が未定であることについて。
  • 5/20:政宗米沢へ帰着。
  • 6/14:葛西大崎一揆鎮圧のため米沢を出発。
  • 6/21:大崎境黒川の地に着陣。成実も参加。【宮崎城・佐沼城・深谷城・九戸攻め】
  • 9月上旬:政宗体調不良。高清水城にて療養。

10/3:実元後室(成実母)円心鑑公□(鏡清院)死亡。(□は不明字)。

  • 12/30:朝鮮征伐の人数を命じられる。来月5日の上洛を決定。
  • この年、長井・伊達・信夫・二本松・田村・塩松・刈田が召し上げられ、蒲生氏郷に与えられる/秀吉が秀次を関白にする/石川昭光を杉山城に、成実を二本松→角田城/留守政景を大谷→黄海城/亘理重宗を亘理→涌谷城/桑折政長を岩谷堂城・白石宗実を水沢城・鬼庭綱元を沼辺城・富塚近江を真坂城・遠藤宗信を築館城・湯目景康を佐沼城・片倉景綱を亘理城に配置/屋代景頼を奉行に命じる。

1592文禄元年:25

  • 1/1:岩出山城にて祝儀。
  • 1/5:朝鮮征伐のため、岩出山出発。
  • 2月:京都着。
  • 3/12:名護屋に向かう。「馬上三十騎の輩は伊達藤五郎成実・留守上野介政景・亘理兵庫殿重宗をはじめとして…」
  • この年名護屋にて留守政景に伊達姓を賜る。

1593文禄2年:26

  • 3月:朝鮮渡海。【高麗御陣】
  • 9/11:帰国命令出る。釜山浦を出発。
  • 9/12:政宗→御佐子(保春院女房)あて書状

「(前略)…シゲザ子・セツサイ、ツツガナク候、アキミツ少シ御ワズライニ候、サキニ返シ申候ベク候、涯分養生ナサレ間、ヤガテヤガテヨク御坐候ベク候」

  • 9/18:名護屋着陣。
  • 閏9月:伏見にて秀吉と面会、伏見城下に邸を賜る。

1594文禄3年:27

  • 1/1:聚楽屋形にて祝儀。
  • 2/25:吉野の花見。
  • 6/9:祖母、岩城氏平久保姫栽松院月盛妙秋禅尼、宮城郡国分根白石館にて死亡。
  • この年、聚楽第屋形にて五郎八誕生。/亘理元宗(元安斎)死去

1595文禄4年:28

  • 1/1:聚楽屋形にて祝儀。
  • 2/7:蒲生氏郷死去。13歳の嫡男鶴千代が藤三郎秀隆(のち秀行)が家康の三女振姫を娶り、跡を継ぐ。
  • 夏:政宗帰国の許可を得て岩出山へ下向。
  • 7/15:秀次自害(28歳)。
  • 7月下旬:岩出山出立、京都へ。
  • 8月上旬:大坂へ着。関白謀反への荷担の噂と疑い。
  • 8/24:政宗赦される。家臣による連判誓詞提出(成実2番目に署名)。伏見に家中在住のための屋敷を賜る。
  • この年、家臣の妻子を伏見へ登らせ、在府させた/綱元に隠居を命じ、良綱に家督を譲らせる。

1596慶長元年:29

  • 1/1:伏見屋敷にて祝儀。
  • 閏7/12:夜半に慶長伏見大地震。
  • 冬:従四位下、右近衛権少将に任じられる。越前守と兼任。

1597慶長2年:30

  • 1/1:伏見屋敷にて祝儀。

1598慶長3年:31

  • 1/1:伏見屋敷にて祝儀。
  • 8/18:秀吉伏見にて没。63歳。
  • この年、石川昭光を松山→角田城へ所替え。
  • これより前に成実は伏見より出奔し、相模国小田原糟屋邑に退去。

「この年、石川大和守殿昭光へ、采地二百貫文御加増を以て、伊具郡角田へ在所替仰せつけられ、志田郡松山より移住せらる。(中略)角田は元と伊達藤五郎成実在所なり。是より前成実、故ありて伏見に於いて出奔し、相州小田原の内糟谷邑に退去せらる。或いは云ふ、成実出奔の故は、公御戦陣の毎度に武功ありといえども、上野介殿政景・大和守殿昭光などよりは小身なるを以て、連々深いに思はれ、且つ故ありて伏見より紀州高野に引退かる。政景・昭光を始め、各笑止に思はれ、亦公の御内意もありしや、桑折点了斎・蟻坂丹波を以て両度まで異見に及ばる。然れども承引なく、其使三度に及びしとき、家老羽田右馬助に、角田家中の者引退くべき由命ぜられ、在所へ指越され、其身は行方知らずに引き去らる。因りて公より、岩出山御留守居屋代勘解由兵衛景頼に、成実家中引除く様に下知すべし、若し異議に及ばば、討ち果たすべき由仰せ下さるに就いて、景頼人数を率ひ、角田に行て下知す。右馬助は私宅に引き籠もり、男女三十余人討死し、金須・内ヶ崎・沢尻・白根沢・石川以下数多の者は、景頼の下知に従ひ、且つ奉公す。右馬助同意の者は皆出奔して、角田遂に落去すと云々。成実出奔せらる、年月知らず。蓋此の年のことと見えたり。角田落居の事も委しくは伝わらず。」

1599慶長4年:32

  • 1月:忠輝といろはの婚約成る。
  • 2月:三成の騒動あり。
  • 10/27:白石宗実、伏見にて没(47歳)。
  • 12/7:大坂屋敷にて虎菊丸(忠宗)誕生。

1600慶長5年:33

  • 1/1:大坂屋形にて祝儀。
  • 6/14:帰国のため大坂を出発。
  • 7/12:名取郡北目城に着。伏見から中山道を経て、高崎から常陸〜相馬を経由。
  • 7/21:白石城攻撃のため北目城を出陣。
  • 7/25:亘理重宗、江戸で人質をつとめる。成実帰参。お目見え。→荒井へ布陣。

「白石城を攻め玉ふの時節、伊達藤五郎殿成実相州より帰参せられ、即ち御目見仰付らる。藤五郎殿先年出奔し、相州糟谷邑に退去せらるの所に、今度昭光・景綱方より内意申遣わし、帰参せらる。或いは云ふ。成実、小田原下郡に屏居せらる。大神君より御扶持方百人分を賜ふ。公御訴訟あるに因て召放さる。今度、景勝より五万石を以て招かる。公の敵人に仕る事は本意に非ずとて応ぜず。昭光・景綱・伊達上野介殿政景取持を以て、遂に召返され、先ず浪人分にて昭光の備に加られ、出陣せらるとい云々。様子委しくは知らず。且又藤五郎殿名を兵部と改らる。此前の事か、此後か、是亦知らず」

  • 9/16:最上救援を決定。留守政景を名代に。
  • 10/6:景勝家臣藤田能登の家士斎藤兵部が内通。政宗、斎藤への「忠勤を励むべき旨」を兵部成実に言上させる。
  • 12/24:城普請縄張り始め。千代を仙台と改める。
  • この年、宗清(権八郎)生まれる。

1601慶長6年:34

  • 1/1:名取郡北目城にて祝儀あり。
  • 2/17:景勝退治を家康より命じられ、軍役人数改め。
  • 3/12:兵部成実・亘理重宗に旗本備の指引を命じる。
  • 9/10:上洛のため岩出山出発。10月伏見着。

1602慶長7年:35

  • 1/1:伏見屋形にて祝儀あり。
  • 12/晦日:小十郎景綱に白石、安房成実に亘理を賜う。この年から兵部を安房と改める。月日は知らず。

「采地二十二箇邑、高六百十一貫三百五十六文の地を賜う」
「今度、片倉備中事、白石の地へ相移るべき由、申し付け候。其方の義、亘理へお越しあるべく候、様体に於いては、石見守口上に申し含み候。恐々謹言。」

1603慶長8年:36

  • 1/1:江戸屋形にて祝儀あり。
  • 1月:めご・忠宗ら伏見より江戸へ移動。
  • 2/12:家康、征夷大将軍に。
  • 8月:仙台へ下向。
  • この年、五男卯松丸(宗綱)、六男吉松丸(宗信)、江戸屋敷にて誕生/石川昭光、中務義宗に家督を譲る。

1604慶長9年:37

  • 1/1:仙台城にて祝儀有り。
  • 3月:家康の上洛に合わせて上洛。27日伏見着。
  • 10月:仙台より江戸屋形へ移動。
  • この年、重宗娘と綱元三男婚姻し、亘理家督を継ぐ。家跡は亘理右近定宗が継ぎ、重宗隠居。

1605慶長10年:38

  • 1/1:江戸屋形にて祝儀。
  • 2月:秀忠上洛に合わせて江戸出発。3/23伏見着。
  • 4月:秀忠二台将軍に。
  • 6/14:江戸へ。
  • 7月中旬:仙台帰着。
  • この年、白石宗直、水沢→登米へ在所替え。

1606慶長11年:39

  • 1/1:仙台城にて祝儀あり。
  • 6月:いろは婚礼前に仙台へ下向。10月江戸へ帰着。
  • 12/24:忠輝・いろは婚礼。
  • この年、右近定宗伊達姓を賜る。

1607慶長12年:40

  • 1/1:江戸屋形にて祝儀あり。
  • 1/5:屋代景頼改易。
  • 2/3:留守政景、一関にて死亡(59)。伊達左近宗則が家督を継ぐ。
  • この年、忠宗の婚約決まる/七男長松丸(宗高)生まれる/岩城長次郎政隆18歳、はじめて仙台を訪れ、知行を賜う

「岩城長次郎政隆十八歳、始て御国へ来り、身上の義を頼み奉らる。因て公より旅料として御扶持方百人分遣さる。其後又岩城より随従の者共を扶助成兼らるべし、当座堪忍分に遣さるの由、仰出され、御知行十貫文を賜り、召出され、北郷を氏に称せしむ。」
(岩城政隆は右京大夫常隆の男子にして、親隆の嫡孫。のちに伊達姓を賜る。その子薩摩国隆(始め重隆)は嗣子がなく、忠宗七男(第八子)左兵衛宗規を養子とし、継嗣とした。宗規の代に一門となる)→政隆の母仏性院は成実の継室となる。

1608慶長13年:41

  • 1/1:江戸屋形にて祝儀あり。
  • この月、松平姓を賜り、陸奥守転任。
  • 2月:仙台帰着。
  • この年、次女牟宇姫生まれる(のち石川駿河宗敬室)。

1609慶長14年:42

  • 1/1:仙台城にて祝儀あり。
  • この年、めごとの八男竹松丸生まれる。

1610慶長15年:43

  • 1/1:仙台城にて祝儀有り。
  • 3/9:岩城政隆伊達姓を賜る。
  • 3月:政宗、江戸へ。
  • 11/晦日:石川遠江義宗角田にて病死(34)。義宗家督を嫡男態蔵へ。幼少のため、昭光再奉公を命じる。態蔵はのちの民部宗昭。

1611慶長16年:44

  • 1/1:江戸屋形にて祝儀あり。
  • 10/28:巳刻過ぎ、慶長三陸大地震。津波。1783人溺死、牛馬85匹溺死する。
  • 12/13:忠宗(13歳)元服。従五位の下美作守。

1612慶長17年:45

  • 1/1:仙台城にて祝儀あり。
  • 4/22:江戸屋敷にて新造の方死亡。心月妙円大禅尼。

1613慶長18年:46

  • 1/1:江戸屋形にて祝儀あり。
  • この年ソテロと接触。
  • 9/15:牡鹿郡月浦からサンフアンバウティスタ号出帆。
  • この年大久保忠隣改易/九男喝食丸誕生。のちの治部宗実。