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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

成実の右手の火傷について

そういえば質問をいただいたので、今更ながら【成実の右手の火傷】について。
今更感あふれておりますが…。

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自著である『政宗記』の、しかも確実に本人がかいてるだろう前半部分にはっきりと書いてあるのに、あまり創作でも資料でも取り沙汰されないこの火傷。治家記録や各種伝記にもあまり載っていないので、『政宗記』を直に読んだ人以外は意外とスルーなのかもしれません。
(あとほとんどの伊達関連創作は「政宗物語」なので、知ってはいても「そこまでは政宗中心のストーリーには関係ないし、必要ないからやらんでいいか」と意図的に割愛or省略なさってる作家さんがほとんどなのだと思います。あと特にドラマだと映像処理するの面倒くさそう。要するに多くの人にとって「どうでもいい」ことなのです。それは別に悪い意味ではなく)


私の知る限り、この傷のことをストーリーに組み込んだ創作は
2010年発売の近衛龍春氏の『伊達成実』

伊達成実 (PHP文庫)

伊達成実 (PHP文庫)


まだ1巻発売前ですが、サムライエース連載中の、堤芳貞氏の『弦月に哭く』
弦月に哭く    ‐伊達政宗於慶長出羽合戦‐ 壱 (単行本コミックス)

弦月に哭く ‐伊達政宗於慶長出羽合戦‐ 壱 (単行本コミックス)


くらいだと思います。
近衛氏の方はわりと傷をコンプレックスに思っていたりしてなかなか新鮮…。


しかし、創作だけでなく、市史やマジメな一般向け歴史本・歴史雑誌などでもあまりかかない傾向にあるような気がします。もしかしたら成実が自分でかいてる部分しか火傷に触れた記述がなく、裏取りできないからなのかもしれないです。この火傷のことは治家記録にも全く記録はありません。他家の記録にあるかどうかはしらんけど、聞いたことがない。
まあ政宗の目の状態が実際どうだったか(眼帯付けてたか半開きだったとか眼球があったとかなかったとか)もわりとあいまいにされているところを見ると、政宗の目にしても成実の右手にしても、もしかしたら家中ではあまりかかないようにしよう…という周囲や後世の人の配慮があり、それもあって実際がそれほど伝わらなかったのかもしれません。
あと、秀吉の六本指逸話もそうですが、当時としては一般庶民層はもとより、富裕・領主層でさえも障害がそれほど特別視されていなかったのだろうと思います。ましてや戦傷やそれに関係する負傷であれば、目にしたとしても、書き記すほど特異なことではなかったのかもしれません。
(これと、当人が気にしてるかどうかはまた別の話で、政宗は隻眼を気にしていたでしょうし、顔面で目立つので他家の記録などに「欠点」として書かれています*1が、(政宗が気にしていたことを知っているであろう)伊達家の記録では実体があまり書かれていない…というのが、周囲や後世の「気遣い」なのかもしれないです)
話ずれましたが、
とにかく成実の火傷のことは、成実が自分で書いたこの部分以外では触れられてないんですよ。
私も『政宗記』を自分で読むまでちゃんと知りませんで、その前にここでぼんやりと知ってはいましたが*2
武水しぎのさん『成実三昧』/成実の謎/右手の火傷
本当にこの火傷も有名になりました…。


『政宗記』でこの事件に触れたところは3巻のはじめの章、「安達郡渋川戦之事」の記事です。
f:id:queyfuku:20130831183526p:plain
それぞれの位置関係はこちら。上のバルーンから、
八丁目城(実元隠居城)/渋川城(成実在城)/二本松城(畠山氏居城)/小浜城(当時政宗在城)
です。

【原文】
天正十三年乙酉十月より、同十四年丙戌七月迄二本松籠城に付て、八丁の目用心の為、成実其年十八歳のとき、渋川(安達郡安達村渋川)の要害に差置玉ふ。同十三年十一月十七日本宮合戦相過、仙道口万つ仕置共仕給ひ、政宗四本松へ帰陣たり。去程に成実も十二月に至て、右の渋川へ罷帰。然るに同月十一日の戌の刻(午後八時)計りに、成実不断居ける坐敷にて、郎等鉄砲の薬箱へ取はつし火を落かけ、其の火総の箱へ移て焼立程に、城中残りなく成実も以ての外焼、今に至るまで右の手指一にねばり合、一代の片輪になりける程に、其砌十死に一生は云うに及ばず。

【簡単訳】
天正13年10月から、14年7月まで、二本松の籠城に際して八丁目の警戒のために、18のときに渋川の要害に置かれた。13年の11月17日に本宮合戦(人取橋の合戦)が終わり、仙道筋の配置をやり、政宗は四本松(塩松)*3に帰陣した。なので成実も12月にこの渋川に帰った。12月11日の夜八時頃に、成実が普段いた座敷に於いて家臣が鉄砲の薬箱へ火を落としてしまい、その火がすべての箱に燃え移り、炎上してしまった。城は全焼し、成実も思っていたより火傷を負い、今に至るまで右の手は1つにねばり合い、一代の片輪になってしまいました。いうまでもないことですが、そのときは本当に死ぬかと思いました。

とあります。「十死に一生」は「九死に一生」を強くした表現で、「本当に本当に死にそうな事態」であったという成実自身の感慨が見え、興味深い記述です。
しかしその割にその後の記述にも治家記録などの他の記録・各種伝記にも成実の火傷について触れた部分はないため、実際どんな傷だったかはよくわかりません。
指の皮膚がくっついていたことはわかりますが、全部1つにくっついていたのなら、白根沢が来たので薙刀もっておっぱらった逸話や、そもそも字を右で書いていたのか左で書いていたのかというのが謎になってきます。四本指がくっついて、親指はかろうじてくっついていなかったのなら片手で何かを持つのは困難かもしれないですが、薙刀や(なれれば)筆も持てたでしょうか…?
しかし成実の花押を見ていると、なんとなくですが、右手っぽい感じが…しないでもない…。あの花押左手だったとしたら大分かきにくい気がします…。
右手で書いてたのか、左手で書いてたのか、気になります。
書状などは祐筆にかかせればいいことでしょうが、成実は一人で勝手にいろいろと書く(正式に表に出ているもの以外も多分覚書がどっさりありそう)人なので、書くことに困難があったらのちの『政宗記』『成実記」の執筆も少し難しいと思いますので、もしかしたら筆記には不自由なかったのかもしれません。

火傷の有無の真偽に関しては、本人が書いてるんだし、実際そうだろ、と個人的には思ってます。
『木村宇右衛門覚書』の方で轡から指が外れなくなった政宗に輝宗が「指くらいなくても大丈夫!」(指がなくてもそれなりの生活が出来る層だという意味で)とそのまま切ろうとする話があります*4が、あれと同じで、右手指がなかろうがくっついていようと政宗も成実も生活に困ったり支障がでる層の人間ではないので、どうでもよかっただろうと思われます。自分の世話は人がやってくれますしね。
ただ、指先の細かい作業などの日常の不便は多かっただろうと思いますし、左手でいろいろなことをできるようにという訓練はもちろん必要だったでしょう。

あと「普段居た座敷に火薬がおいてあった」「夜の八時に家臣が火をそこに落としてしまった」…と改めて考えると変な事故だな!と思うのですが、もしかしたら季節が冬・大森や二本松に比べ大きくない渋川城で、火薬を置く場所がなかったのかもしれず、おそらく一番奥の湿気が入りにくい場所にいたであろう成実の居室に火薬がおいてあった?とか、夜の八時にチェックか何かしていて、あやまって火を落としてしまった…?とか、推測だけはしますが。
まあ屋敷炎上と一緒で何があったか誤魔化しているのかもしれないです。
このころの火薬は鉄砲のための黒色火薬なので、それほど破壊力のある爆発はしないとお聞きしました。爆薬だったら生きてないそうです…まあそりゃそうですよね…。

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まあ恐ろしいのは12月11日にこの事件が起こり、翌天正14年1月1日に二本松から襲撃があるのですが、さすがに家臣に任せて自分は出陣してないにしても、首級263を捕った小競り合いの指示だしをしたりしていることですよね…。
嗚呼スーパー高校生…。

*1:細川氏の記録、佐竹氏の記録など

*2:まあその前に『政宗記』と『成実記』がこんなに違うのを知らなかった…

*3:小浜城

*4:遠藤基信のおかげで切断は免れました(笑)