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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

仙台藩の江戸城石垣普請

先日、このブログを読んでくださっている方から、鈴木啓『図説江戸城の石垣』*1という本の存在を教えていただきました。

〈図説〉江戸城の石垣

〈図説〉江戸城の石垣


江戸城の石垣というから、東京にある、現在の皇居であるところの、つまりは徳川家の城でございます。
仙台城の城普請ならともかく、なんか江戸城が伊達氏に関係あんの〜?て私は思ったのですが、無知な私は知りませんでしたが、たいへん関係あるのですよ、しかも成実に!(笑)
(↑の本にはこのあとにかく成実の話は全くかいていません。仙台藩がどこを担当したか、どの石垣がどんな風か…というのがフルカラー写真コミで載っています。以下の内容は主に治家記録と政宗の書状から。蒲生源左郷成の話は『江戸城の石垣』に載っているものです)

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慶長5年の関ヶ原をへて、そして慶長8年征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた家康は江戸城を幕政の中心として作り替えられる必要に迫ります。それまでは徳川家家臣のみで作っていた江戸城の普請を、公儀普請として譜代・外様を問わず諸大名に軍役の一環として普請を命じたのです。これを天下普請というそうです。
天下普請が行われたのは慶長9年から寛永13年まで、五次まで行われたといいます。
第一次普請は主に西国の諸大名、第二次は関東の諸大名が担当し、政宗が担当したのは第三次・四次なのだそうです。しかし、担当が政宗といっても、当然政宗が実際普請指揮に当たったわけではありません。

元和6年、5月17日、仙台に帰ったばかりの政宗は成実に次のような書状を送ります。
自分は再び江戸に向かい普請の指揮に立とうと思っていたが、政宗がまた上府すると、国元に帰った諸大名たちが自分たちも行かねばならないと思って競って上府してしまうだろうから、そこまでする必要はない、ときつく大炊頭(土井利勝)に言われた。ならば名代を江戸に上らせたい、行って来て欲しいと、成実に名代のための上府を頼みました。
公儀の普請に親類衆の一人もつけないでいては幕府への面目が立たない、大変だとは思うけれど、月末までに江戸へ行ってください、と頼んでいます(もちろんそれは命令なのですが、一門である成実に対して、政宗は丁重に敬語を使い、「頼んだ」形にしてある)。
一門首座の石川家当主の宗敬はまだ15歳、そして当時まだ正式に家督を譲ってはいなかったとはいえ、祖父の昭光はもう71歳の高齢(翌元和7年に相続し、8年に逝去)。一方、第2席の成実は53歳の壮年。ちょうど良かったのもあるでしょう。

成実は19日仙台へ参上し、普請の名代を了承。それについて21日に政宗が御礼の書状を書いています。19日に成実を呼び、直接話して打ち合わせするつもりだったけれども、前もってしてあった打ち合わせから特に変更もないから、上府の支度に忙しいだろう成実を雨天に呼びだして煩わせることを危惧し、面会を取りやめたことを述べる書状を書いています。
成実は5月25日に江戸へ向けて出立、6月3日に江戸へ到着し、おそらく作業がすぐにはじまりました。
6月10日家光が普請場を訪れ、将軍秀忠の内意を伝え、それを成実が政宗に報告。政宗は18日付けで「こちらも雨なのでそちらも降っているのではないかと心配している」と書いています。
7月10日家光が再び伊達家の普請場を訪れ、7月13日には政宗が成実に書状を送っています。8月13日には内意を伝える為佐々若狭を派遣すること/くれぐれも油断しないようにとの注意/成実個人の心配(「そこもと相かわる義なく候や」)…などの内容の手紙をかいています。その後も政宗は数回普請中油断ないよう気をつけること、雨の苦労などを心配し、何度も手紙を送っています。おそらく成実側も普請の進行状況についての報告状をちくいち送っていたものと思われます(残ってないけど)。

この工事は9月いっぱい続き、10月に忠宗が家光から大倶利伽羅広光を賜りました。成実もそのとき御目見得し、時服を賜ります。この時の普請場の石垣は13町余り(1417m)、費用黄金2676枚5両3分かかったといいます(治家記録)。鈴木氏の指摘では、東国大名で一番出費が多かったのが伊達家ではないか、と述べておられます。
鈴木氏によると、『聞見集』に蒲生家二代当主忠郷の家臣蒲生源左衛門郷成の様子が書かれた文があるそうです。源左衛門は立付(もんぺ)を着て自分で手こ(鉄棒)をもって、石を運び、宿へ帰らず、普請場にて石に足をかけ、めんつう(弁当箱)で食べながら、作業をしたそうです。
「諸侍衆も皆々其ごとくに仕られ候条」…他家の家臣達も源左衛門の様子を見習い、競って工事を進めたため、予定よりも早く石垣が完成し、秀忠は機嫌が良くなり、いろいろと褒美を使わせたといいます。
この工事が行われたのは6月から9月にかけて。つまりは暑い盛りです。政宗が度々雨の心配をしていますが、大雨で遅れがちになりながら、その分暑い日は、源左衛門やら成実やらその他の陪臣たちがそれぞれの土木技術を競ったのでしょう。もんぺ姿で弁当食べながら宿に帰らず鉄棒片手に支持を出す成実を想像いたしましょうよ!(笑)
嫡子忠宗が江戸に(人質として)おりますが、忠宗はこのとき22歳、家光は17歳。家光の伊達家好きはもうはじまっていたのか…(笑)。どうでもいいですが、後に政宗死後に成実が上府し奥羽の兵乱について語ったときは家光は35歳です。

若年期は信夫・安達地方方面への取次・指揮官として政宗のもと盛んに活動していた成実ですが、帰参し、亘理に入封したあと、治家記録への登場回数もぐんと減ります。奉行を中心とした体制へと変換とげた近世の伊達家で、一門が身分は格上ですが、実権のある現場で働く場はどんどんとなくなっていきます。
そういう中で成実が任されるようになったのが、「名代」としてのお仕事です。慶長年間の忠輝いろはの婚礼の名代、この元和6年の天下普請の名代・元和8年最上氏の改易に伴う接収使…などを勤めています。
その他にも元和7年江戸屋敷類焼のため幕府から銀子700貫を拝借したときの謝礼の使者や、政宗一周忌(つまり忠宗は江戸にいる)の名代なども*2

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石垣、私はこの本を読んでもちっともわかっていませんが、この本片手にいろんな城を回ってみたら、いろいろわかるようになるのでは…と思います。
(この本を読んで、今年夏の上京時に江戸城行って、成実が作業した大手門を見に行こうかと思いましたが、余りにも暑すぎて倒れそうだったので諦めました…)

伊達クラスタ的にはこの方のこの本↓もオススメです。

ふくしまの城 (歴春ふくしま文庫)

ふくしまの城 (歴春ふくしま文庫)

【追記】ちなみに第四次の普請の名代は亘理(この時期はもう伊達ですが)安芸定宗が名代として担当しています。

*1:歴史春秋社/2013

*2:ただ、成実は一門衆の中ではまだこれでも藩のお仕事のために良く出てくる方だったりします