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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

貞山公治家記録の成実記述(〜天正17年)

『貞山公治家記録』の成実記述。天正12年(17歳)から天正17年(22歳)まで
『伊達治家記録』宝文堂版の、1巻部分。

1584天正12年:17

  • 10月:政宗、家督相続。「公年少を以て頻りに御辞退あり。然れども親族老臣等も固く勧め奉る。因りてその命に従ひ給へり」政宗は米沢城、輝宗は米沢館山城に居した。(このころ成実も家督相続。→天正14年実元死亡の項)

1585天正13年:18

  • 5/9:成実檜原の陣所へ参上する。政宗は二本松境の様子を訊ねる。成実は実元の場所へ遊佐下総を使いに出し、懇ろな挨拶をしたと言った。「此の境の義は何時も御意次第に手切すべき旨申し上げらる」義継は会津・佐竹に従っているが、前々から二本松・塩松地方は、田村・会津/佐竹へも、勢力の強い方へ頼り、家を存続させてきたので、今回も伊達家の勢力が増すについて、実元を頼りに伊達家に奉公したいと思われ、実元の隠居所八丁目へ使者飛脚の問い合わせがあった、と告げた。政宗は人払いをし、ひそかに成実と密談した。政宗は、会津に対し手切れした原田左馬助宗時の敗戦の様子の詳細を伝え、会津への干渉が難しく、手勢を引き上げさせた。政宗は二本松境を安定させておきたい旨を述べ、両口の戦はどうかと訊ねた。成実は家臣原田右馬助が猪苗代家臣石部監物に縁故があり、仲がいいため、会津の猪苗代盛国と交渉してはどうかと述べた。今回羽田を連れてきているといったので、政宗は右馬助を呼び出し、猪苗代に縁故があると聞き、書状を書いて送るよう命じた。右馬助は政宗の前で書状を作成した。成実・小十郎・七宮伯耆にも添え状を作るよう命じ、それぞれしたためた。政宗は此の書状を猪苗代へ直ちに送らせ、返事が到来したら大森へ遣いを送り、成実は二本松へ速く帰るように命じた。成実は今日は人馬も疲れ遅くなったので、明日帰りたいと言上したが、政宗は二本松境のことを心配し、今夜の宿は綱木野民部に先に命じてあるから、一刻も早く帰るよう命じたので、成実はすぐに帰った。
  • 5/13:9日に送った猪苗代への書状の返事が、到来した。盛国は伊達家への奉公を願い出、それを了承した。成実の元に嶺式部・七宮伯耆を遣いとして、猪苗代からの返事が到着する。この後、成実は猪苗代出身の三蔵軒という僧を遣いとして、書状を送る。嶺・七宮は大森に逗留し、書き付けを檜原の政宗に進上した。政宗は盛国への所領安堵の御判を二人に渡し、二人は御判を成実に渡して檜原に帰る。成実は三蔵軒を遣いとして御判を猪苗代へ遣わす。三蔵軒は2,3日後帰参し、無事御判を渡した。しかし盛国息子盛胤はこれを聞き、会津へ奉公すべきと反対し、家中は割れた。
  • 7月上旬:成実は政宗に使者を送り、猪苗代盛国の内応が困難であるため、会津攻めが手詰まりになったため、まず大内退治をする方がよい、もしそれをよしとするなら、大内家臣の内応を誘いかけると言上した。成実家臣に元塩松の、大内蔵人・石井源四郎を大内家臣で伊達軍飯野刈松田城主青木修理のところへ遣わし、内応の条件を相談した。青木修理は内応を承諾し、条件を申し上げたので、御判を出した。
  • 閏8月:成実から政宗に刈松田城主青木修理が内応し、小浜に対して手切れしたことを告げた。大内定綱は田村境の諸城主から人質を取っており、とくに今回伊達家に背いた後、塩松領内の城主からもみんな人質を取っていた。青木修理も5歳の子と16歳の弟新太郎を証人として小浜に差し出していたが、青木は伊達家への奉公を希望し、逆に計略を使って大内家臣三名を捕縛し、手切れしたことを成実に告げ、それを成実が政宗に伝えた。/政宗はこれをうけて小梁川泥蟠斎・白石宗実・原田宗時・浜田景隆を使わす。四人は飯野内刈松田近くに、成実は龍子山(立根山)に在陣した。
  • 閏8/12:政宗が出馬。信夫郡杉目城に着陣した。成実が青木修理に使者をつけて杉目城へ使わした。修理はすぐに政宗と会見し、刀を賜った。すぐに青木の言によって、塩松の絵図を作らせた。
  • 閏8/24:小手森城攻め開始。
  • 閏8/26:成実が陣を小手森の南の竹屋敷(安達郡岩代町高屋敷)へ移して敵退路を遮断するため、総攻撃をするべきと提案をだすが、政宗は援軍と籠城軍の二面攻撃を受けることを危惧した。成実は成実軍が移れば籠城軍は成実軍に対して出撃するだろうから田村軍と連繋してこれにあたり、政宗本体は会津・二本松援軍と戦えばよく、本体のみが挟み撃ちになる事はないと主張した。これに原田旧拙斎が意義を唱え、老臣は半分が成実に、半分が旧拙斎に従って、意見は分かれた。
  • 閏8/27:昨日議論になった竹屋敷への移軍の件は議論が決せず、結局政宗の許しもなかったが、未明に成実は竹屋敷に移動し、これに留守政景も従った。そのため政宗は総軍へ出撃命令を出した。すると城中から白石勘解由が成実家臣遠藤下野に対面を求め、小手森を開城し小浜の定綱と運命をともにしたい、と申し出たが、政宗はそれを許さず、成実に代を強襲するよう命じた。成実は城に火をかけ、昼から午後四時まで攻撃して本丸を陥れた。男女含め800人一人も残さず見張りをつけて殺した(撫で切られた人数は史料によって異なる)。新城・樵山の城は籠城軍自ら焼き払って退去した。
  • 閏8/29:政宗が樵山へ陣を移す予定を告げると、成実は人陣場を作るため、家臣4,5名を使わしてよこした。築館の方面から騎馬武者がひとり来て、聞けば先年成実の家臣となった服部源内で、築館の兵がひき、早々に追いかけるべきと言った。成実は直ちに築館城へ入り、此の事を政宗似告げた。政宗はこれをきいて進軍し、築館城にて休息した。
  • 9/2:政宗→虎哉和尚に書状を送る。小手森の撫で切りを告げる。
  • 9/22:政宗築館から田村領黒籠城に陣を移す。成実・白石宗実・櫻田元親・片倉景綱を築館城に残し、小浜勢の内応を攻略するよう四人に命じた。
  • この時期実元が二本松境の和睦維持に努めた。二本松の二股を察知しつつも、場所柄それを見逃し、特に義継に対し懇ろに応じ、二本松に中立を維持させるよう経略していた。実元はそれを政宗に密かに言上していたが、子の成実には告げず、ここで手切れが行われないよう成実から二度誓詞を取らせた。
  • 9/24:政宗は二本松の援軍が籠もる大場内の城に進撃、成実・宗実・元親・景綱は築館より小瀬川へ進軍。景綱は手勢200を率いて小浜の近くへ進軍。小瀬川で四人は小浜勢と戦闘になるが、政宗の進軍を怖れて小浜勢は早めに引く。
  • 9/25:政宗は岩角城へ攻撃。黒籠城へ引き上げた。この夜大内定綱は夜にまぎれて小浜城を捨て二本松に走り、その支城はことごとく明け渡された。このため塩松地方は政宗の領有となった。
  • 10/6:政宗小浜城へ入る。この日輝宗の宮森城を二本松城主畠山義継が訪れる。佐竹・会津への協力を侘び、輝宗を頼み、政宗に許しを請うためであった。輝宗は五ヶ村以外のあけわたし、子息を米沢に差し出す旨を了承するなら取り次ぐと返答した。義継は北か南半分の割譲で許してもらいたいと訴えたが、輝宗の許容はなかった。/この日夜政宗のいる小浜城に輝宗がきて、義継の訴えを伝えた。実元経由の取次のことであったので、成実を加え処置を相談した。実元は、以前からの義継が成実を通して告げていた降伏条件を不可とするなら、二本松家臣に従来の采地を与えて召使えるべきである、そうでなければ二本松の家中が飢餓に及ぶと言上した。しかし政宗は許可せず、義継が参上しているのは「御意のまま」という覚悟の上だとして、5ヶ村の条件を変えなかった(注:このときの条件内容・政宗輝宗の態度は史料によってばらつきが見える)。
  • 10/7:義継は処断を「辱し(ありがたい・もったいない)」と了承し、成実を介し輝宗への謁見を願い出、夜輝宗は成実の陣所に来て、義継と対面した。終わって、輝宗は宮森に帰った。
  • 10/8:この日、輝宗安達郡高田原にて死去。享年42。→別項【粟の巣事件詳細】(予定)/朝、成実のもとに義継からの遣いが来て、輝宗の取り持ちに感謝し、二本松に帰って、子国王丸を米沢へ寄越す支度をしたいといい、宮森へ御礼言上に参りたいという旨の申し出があり、政宗にそれを告げた。許しを出すと義継はすぐに参上したため、輝宗はこれと対面した。義継とともに、二本松家臣高林内膳・鹿子田和泉・大槻中務の三人を座敷へ召し出した。そのとき鹿子田が密かに義継に耳打ちした。輝宗の着座の方に政景と成実が控えていた。とくに大した話はせず、すぐいとまごいとなり、輝宗が玄関まで見送った。義継が手を地に置き、「今度色々御馳走辱く存す、然れば我等を害し給ふべきの由承るといいながら、左の手を以て御胸を捕らへ、脇差を抜きて突きかかる」前もっての計画であったらしく、従者7・8人が輝宗の後ろへ回り、引き立てて出た。見送りの際、政景・成実も供として出ていたが、玄関の前が両方竹垣になって、道が一筋になっており、輝宗のそばを通ることができず、後ろに控えていた。義継が輝宗を捕らえたとき、どうすることもできず、門を閉じよと呼びかけたが、急なことであり門も閉じられなかった。義継の従者らは輝宗を取り囲み、二本松へ向かった。政景・成実を初めとする家臣は武具も着けず、後を追って走った。小浜より来た者はみな武具をつけて駆けてきたが、討ち果たすべしという者もなく、呆然として敵を取り囲み、田舎道10里(60丁)余りを過ぎて、安達郡の高田原に着く。輝宗は大声を上げ、「直ちに義継を撃ち殺し、自分を顧みて家に災いの胤を遺すな(速に義継を撃殺せ、我を顧て家醜を胎す事勿かれ)」と言った。この言葉を聞いて、歩卒の中から一度鉄砲を打ちかかったのと同時に、全員戦闘状態になり、義継を初めとして従者50余人を殺し、輝宗も死去した。この日政宗は鷹狩りに行っており、輝宗が捕らえられたと聞いて夜中に高田原まで駆けつけた。すぐに義継の死骸を探し出し、切り刻んだ遺体を藤を以て縫い合わせ、小浜町の路傍に磔にし、見張りをつけた。義継が輝宗を突然人質にしようとしたのは、この日市中で刀を磨く者を目にし、「今日義継が来たらこの刀を試そう」と言っていたのを聞き、聞いたものは皆これを信じたからという。この中に二本松の商人がおり、驚いて急いで義継の家臣につげ、それを家臣が義継に告げたという。そのため、義継はこの行動に出たという。
  • 10/9:政宗は輝宗の復讐のため、二本松を攻めようと言ったが、老臣たちはまず戻り、吉日を選んで動くべきであると諫めた。そのため9日未明、小浜に戻る。この夜輝宗の遺骸を小浜城に入れた。最終的に、信夫郡佐原村宝珠山徳禅寺(現:慈徳寺)にて火葬した。同士は資福寺の虎哉宗乙。覚範寺殿と号す。遺骨は出羽国長井莊夏苅村慈雲山資福禅寺に葬る(日付け不明)
  • 10/15:政宗、二本松城へ攻め入る。二本松勢が籠城したため、阿武隈川を越え、高田原に野陣する。成実は八丁目の伊芳田に陣をおいた。伊芳田は二本松の北、高田原とは離れていた。成実が隊をひきあげたとき、城から兵が出て、戦闘状態となった。互いに死傷者多く出た。政宗は反撃し、外構えまで押し入れて、戦闘状態を終えた。
  • 10/16-18:大雪のため戦闘なし。
  • 10/21:戦闘を諦め、兵を帰す。輝宗の27日であり、遠藤基信が覚範寺にて殉死。内馬場右衛門/須田伯耆殉死。
  • 11/10: 安積表から「佐竹義重・蘆名亀王丸名代某・岩城常隆・石川昭光・白川義親ら、三万を率い須賀川へ出馬。安積表の伊達配下の城へ働き、中村城を攻め取る」と報告あり。政宗これをきいて岩角城へ出馬。7、8000の兵が集まる。桑折治部宗長・富塚近江・伊藤肥前重信に旗本鉄砲300挺をつけ、安積郡(安積郡日和田町高倉)高倉城にこもり、安達郡本宮城には瀬上中務景康・中嶋伊勢宗求・濱田伊豆景隆・桜田右兵衛元親、安達郡玉井城には白石右衛門宗実をおいた。成実はかねてから二本松の抑えとして八丁目の支城渋川城を任されていた。政宗が人数が足りないので、参上するように書状を遣わしたため、過半数を渋川城に残したまま、塩松へ回って小浜へ参上した。政宗はすでに出馬しており、小浜にあまり人をおかなかったため、成実の手勢青木備前・内馬場日向と馬上50騎を添えて残し、成実は岩角へ参上した。/義継旧臣で伊達に仕えていた前田沢兵部が会津に寝返り、明日には高倉か本宮へ敵襲があるだろうと言った。成実はその夜糠沢(安達郡城沢村糠沢)まで出陣した。
  • 11/10:前田沢が南の原に野陣したので、政宗は岩角をでて本宮へ陣を移動した。
  • 11/17:【人取橋の合戦(本宮合戦)】『政宗記』2-4:「本宮合戦附人取橋合戦」/夜、政宗、岩角城へ引き上げる。夜半成実へ使いを遣わして感状を遣わす。

「今日の働き、比類なしと思さる大敵両軍の合いだ、御本陣へも隔たる所に於て相戦ひ、敗軍せられさる事、前代未聞なり、畢竟其方働きの故に大勢相助かる、定て家来の内手負死数多あるべしと思召さる、然れば明日敵方より本宮近陣の由聞召さる」

  • 11/18:未明、成実本宮へ移動し、敵の動きを待ち待機した。火の手が上がったので敵勢が陣を移したかと思う。斥候が早馬で来訪し、佐竹・会津・岩城勢が退却し、前田沢も退却したことを告げたため、前田沢へ人をやり調べさせたが、敵の軍勢はことごとく引き上げた後だった。/政宗も本宮へ出馬し、伊藤肥前・中村八右衛門らへの仕置きをする。この日は岩角へ帰る。
  • 11/21:政宗、岩角から小浜へ入城。そのまま越年。
  • 12/11:渋川城火災。右手を火傷する(『政宗記』にのみ記載)。→別項【成実の右手の火傷について】

1586天正14年:19

  • 1/1:政宗は小浜城にて祝儀。/昼頃、成実の陣城渋川城へ二本松からの軍勢来る。水汲み場で馬上1騎・歩卒10人ほどが来て水汲み者を追い回した。城から追い掛けると、敵は逃げ、二本松海道にある小山に向かう道を追い掛けていると、柴原に伏兵が馬上500騎・足軽一千騎隠れており、一度に攻め立てた。味方は耐えきれず追い立てられたが、このあたり出身で土地の案内に詳しかった成実の家臣遊佐左藤右衛門が西へ退き、馬を控え、敵勢の追い掛けてくる様子を見て、飛び出し、敵三人を討ち、二人の首を取り、追い掛けてもう一人を討ち取った。二本松の老臣鹿ノ子田和泉の嫡男右衛門という者が、遊佐の剛勇を見たいと小高いところから見物していた。遊佐はすぐに逃げる者を追い掛けて鹿ノ子田のいたところに追いついた。鹿子田も耐えかねて退こうとしたところ、湿地に追い立てられた。また成実家臣志賀大炊左右衛門が真っ先に進んで敵へ乗り入れ、4人を討ち取った。羽田右馬助は戦の前に他の所にいて遅く駆けつけたが、脇から攻めて5人を討ち取った。その場で30程の首を討ち取った。敵の足並みは乱れ、八丁目から味方の助勢が到着し、二本柳へ押し切るようにみえ、湿地を越えた。主戦場は二本柳より東側だったので、敵は通路を遮られると騒ぎ、崩れたところを味方が追い掛けて撃退した。鹿子田は飯土井の細道に馬を立て、逃げようとする者に命令し、支え合って別れた。日はすでに暮れ、味方も引き上げた。この時討ち取った首は全部で263だった。右衛門は二本松へ帰り、遊佐の武勲を褒め伝えたという。
  • 1/2:成実から政宗の元に昨日の渋川での戦闘で討ち取った首を小浜へ献上する。
  • 3月頃までに政宗左京大夫を任ぜられる。
  • 4月:政宗、体調がすぐれなかったため延期していた二本松への出馬をはじめる。
  • 7/4:夜。老臣を集め、二本松の扱いについての相談をする。相馬義胤より実元・元宗・白石宗実を介し、二本松の無血開城についての申し入れがあった。政宗は復讐を重んじ、攻め滅ぼすことを主張したが、義胤は頻りに侘び、田村へも使いをやり相談し、評定を開いた。義胤に免じ、無血開城を決した。
  • 7/16:二本松の本丸が自焼し、城主国王丸は会津に逃げた。政宗は城受け取りを成実に命じ、成実は二本松へ赴き、本丸に仮屋を立てて入城した。
  • このあと(日付不詳)資福寺へ使者を送り、輝宗の墓前に二本松落城を報告する。
  • 7/26:政宗、二本松へ来訪し、城地を見聞し、すぐに帰った。
  • 8月:政宗、小浜から米沢へ帰る。
  • 8/12:米沢へ帰城したので、小十郎景綱を二本松城番にする。
  • 9/13:成実に二本松城への所替えを命じ、大森・須川の南の成実の所領を小十郎に与えた。
  • 10月下旬:政宗杉目を訪れる。
  • 12/15:政宗、実元へ和議御礼などと合わせ、成実の婚礼について記した書状送る。【亘理重宗娘(玄松院)との婚姻】
  • 此の年、政宗小浜から米沢へ帰る。

1587天正15年:20

  • 1/1:政宗は在米沢。年始の祝儀あり。(鉄砲砲撃始め/法螺貝吹初め/3野始/5弓稽古始/7連歌会/8心経会/9茶会/11談合始/14乱舞始/18懺法・拍子/21法問/22護摩供/29日待(前日から潔斎して日を拝む)*1
  • 2月:竺丸の蘆名入嗣がなくなり、政宗は憤り、蘆名を攻めることを決意。
  • 4/6:政宗、実元の危篤を為り、見舞いのため出発。小十郎在所の大森城にて宿泊。
  • 4/7:八丁目城に到着、実元に面会したあと、杉目城で宿泊。
  • 4/8:杉目を出発、夜になって米沢へ帰着。
  • 4/10:実元八丁目城にて死亡。享年61。この日、遊興の宴が行われていたが、実元の訃報の到着により終了する。
  • 5/1:成実からの使いとして小梁川摂津宗重が参上(忌中のため宗重を使いにしたと思われる)。
  • 7/13:成実から政宗へさる11日苗代田へ夜襲があったことを告げる書状を受け取り、返書する。
  • 12/10:前日届いた成実への書状の返書を遣わす。安子島のこと。
  • 12月中旬:成実からの遣い遠藤駿河来る。大越紀伊の召し抱えについて。
  • この年:大内定綱から成実を介して服属したい旨言上される。成実が白石宗実に事情漏洩した件について片平からの愁訴あり。成実は他言せず、白石のみに伝えたと返した。

1588天正16年:21

  • 1/14:羽田右馬助、佳例乱舞に参加。
  • 1/17:政宗、鷹屋にて、成実の家来に酒を与え、そのうち5人に時服を与えた。
  • 2/12:未明、大内定綱、片平・安子島・高玉の勢を率いて成実領地の安達郡苗代田を攻める。古城においた百姓100人ほど撃ち殺し、放火などをする。
  • 2/17:大内の12日の行為の申し開き。
  • 3/8:政宗、成実に書状をおくる。
  • 3/12:小十郎に書状を送る。成実と相談すること。
  • 3/20:苗代田襲撃について「藤五郎殿腹立せらるに付て、彼方を気遣いに存じ、壱岐方までその趣口上を以て申し遣わす旨ありと云々」。
  • 3/24:成実→政宗飛脚玉井合戦での討ち取った首の鼻153を塩漬けにして贈る。大森の小十郎からも同時に飛脚がきて、12、3日頃、成実の領地である玉井から4,5里離れた西原で高玉からの草調議(偵察部隊による戦闘)があった。→【玉井合戦の報告】「二本松藤五郎殿より飛脚を以て〜」
  • 3/28:片平親綱の内応について成実・小十郎より報告。
  • 4月:大内定綱から成実・景綱を介して訴えが度々あったので、采地加増の印判状を与えた。
  • 4/6:夕方、景綱から飛脚が来て、片平村から安達郡本宮へ大内定綱がきたと伝えた。成実と景綱が同道して定綱と対面し、安子島へ戦闘をした旨を報告した。
  • 4/7:成実→政宗飛脚。鹿毛の馬贈る/政宗→須田佐渡(二階堂の旧臣)書状(成実が上手く取りはからうだろうから、相談はなくていい旨記す)。
  • 4/9:大森(小十郎配下)の本澤源七郎が小十郎の動向を告げる。/大内片平兄弟の寝返り工作の為に小十郎は二本松に滞在していたが、5日の晩定綱の甥梶内弾正が小十郎宿に来て、定綱の本宮への来訪を告げた。なので成実と小十郎はともに本宮に出て、6日朝定綱に対面。大内兄弟の間にいさかいが起こり、親綱が定綱に切腹を迫ったので片平から逃げ出しようやく来訪したと定綱は告げた。成実と小十郎はいったん下がって大内兄弟の思惑について白石宗実をまじえて考え、安子島へ出陣したが、動きがなかったので引き上げ、7日また攻めた。ここで石川弾正が相馬に寝返り、白石宗実の領地塩松を攻めたので、宗実は塩松に帰った。/8日小十郎は大森へ帰った。
  • 4/10:大内定綱が成実の計らいで使者遠藤駿河・小十郎・高野壱岐に同道されて政宗と面会する。退出後定綱の宿を政宗が訪れた。
  • 4/15:成実、二本松において鉄砲の音を聞いて早打ちしたというが、行程が遠かったので、戦にはあわなかった。しかし早打ちの事を訊いて宗実が感じいり、成実を宮森城に同道し、特に饗応した。
  • 4/19:成実@二本松→政宗飛脚。18日の本宮表での小競り合いについて報告。会津の蘆名勢が二階堂勢と合同し、戦闘準備をしているとの報告が二本松に伝わったと報告。成実から小十郎@大森にこのことを報告したところ、小十郎はすぐに二本松に来て、信夫郡の諸士に集結を命じたが、急なことだったからか、一人も集まらなかった。なので成実と小十郎のみ本宮に出兵した。/高倉城に軍勢を置いた方がいいと思ったが、置くべき兵がいなかったため、八丁目にいた成実家臣の20余騎・鉄砲50挺を常駐させていたのを呼びよせ、高倉城へ送った。すると17日高倉城主高倉近江義行が本宮に来た。高倉近江は元二本松畠山の譜代の家臣だったため、会津筋安積表の様子に詳しかった。成実が「明日敵はどの方へ動くか」と聞くと、近江は「会津・須賀川の勢のみで、1000騎にはいかない、会津も境目の者達はこないだろう。さして多くはないはず」と言った。
  • 4月下旬:秀吉・利家・富田将監らからの書状来る。
  • 5/7:政宗→成実書状「前から羽田因幡を介して10日頃来るようにと命じてあったのを延ばしていたのに対して、14日には出陣する予定であり、安積方面の様子について報告してほしい」と送る。
  • 5/15:政宗、午前10時頃米沢を出馬、竺丸は山上ノ原まで見送りした。夜に大森城到着し、御日待する。
  • 5/16:晩小雨/政宗、昼杉目城を訪れ栽松院久保姫と対面、石母田左衛門と成実も参上。帰りに成実も同道し、白綾の小袖を賜う。談合あり。
  • 5/17:曇り/宗実・成実参上。夜半、成実に料理を賜う。
  • 5/18:晴れ/評定衆+成実・宗実・泥蟠斎・そのほか宿老たちによる談合あり。
  • 5/21:快晴/政宗、大森から塩松築館城に移動。以後野陣。
  • 5/22:曇りのち雨/小手森攻め開始。談合後、成実は用心として二本松に帰る。
  • 5/23:雨/雨により戦闘止む。二本松から成実参上するが、戦闘が終わると帰る。この後連日参上するが、雨で戦闘がなかったため、成果なく帰る。
  • 5/24:雨/戦闘なし。成実玉井に現れ、討ち取った草の首3級を献上する。
  • 5/25:雨/戦闘なし、談合あり。
  • 5/26:微雨/雨のため戦闘をやめ、大森城へ戻る。
  • 5/29:快晴/成実・日傾斎参上する。夜、成実を饗応する。伯蔵軒・即休斎・浄庵・羽田因幡らが相伴、その後談合あり。
  • 5/30:夕方雨のち止む/成実・宗実参上、談合あり。その後宿老中と談合。夜になりまた成実・宗実参上(田村月斎・橋本刑部の訴えのため)。成実・宗実は退出し、両人へ使いを出す。
  • 閏5/2:成実→政宗飛脚宮森はなにごともない旨を告げる。
  • 閏5/5:二本松より成実→政宗飛脚。
  • 閏5/11:昼雨少し降る/政宗、安積表高倉あたりを見ようと出馬。成実本宮で追いつき供する。苗代田あたりから前田澤まで視察し、そこからまた安積山麓へでる。二本松にて宗実→景綱の書状・宮内顕康からの注進状が到着。
  • 閏5/12:成実を白岩へすぐ行くように命じる。
  • 閏5/16:政宗、白岩(安達郡白沢村白岩)から成実を呼び戻し、月山勢の援軍に置く。
  • 閏5/25:橋本刑部・田村起雲斎参上。成実参上、家士に鉄砲の試し打ちをさせる。
  • 6/1:談合あり。成実本宮から参上し大越へ名代を命じる。佐竹の出馬について内密に話する。須賀川の須田美濃の内通。
  • 6/3:談合あり。成実へ大越への名代を命じるに際して饗応。伯蔵軒・白石宗実が相伴。終わったあと成実は船引へ出陣。
  • 6/4:一同船引へ出陣。
  • 6/5:小雨/成実大越攻めを開始。町・寺を焼き払う。敵は町構えを引き払い、2,3曲輪に入り堅守する。攻める手立てがないのでいったん退く。政宗、密かに出陣し、様子を見る。首20級討ち取り、指物を分捕り、旗を揚げ、勝ちどきを上げ引き上げた。
  • 6/11:成実・宗実・浜田伊豆・重綱より→政宗飛脚。「佐竹義重・蘆名義広安積表へ出張し、岩城常隆からも500騎の加勢あり」。晩談合。
  • 6/12:宮森を出、本宮に陣を置く。成実参上。
  • 6/14:本陣を本宮表に移す。偵察のため窪田山王山へ立ち寄る。帰りに安積山にて成実・桑折宗長・泥蟠斎・宗実・濱田伊豆・原田宗時・富塚近江・遠藤宗信・片倉景綱・伊藤肥前・原田旧拙斎を呼びだし談合あり。政景・粟野大膳参陣。
  • 6/15:談合あり。泥蟠斎・原田宗時の言葉。
  • 6/16:政宗、本宮へ出陣陣場割をする。成実へ山王山を陣所とするよう命じる。成実はその理由に納得し、備え、築地を築いて明日の敵襲に備えた。
  • 6/17:二重の築地を八尺、陣所の周りに堀一重を掘る。
  • 6/18:佐竹勢が動いたので、備えを出した。成実もこの日は普請をやめ、二重の築地の内側に陣を立てた。蘆名家臣の尾熊因幡らが山王山の用水堀を埋めて道を作ったので、成実はそれを見て鉄砲の名手8名に射撃を命じた。尾熊の腕にあたり、蘆名勢は引いた。成実家臣遠藤駿河は高玉へ草町議し、首一級討ち取り献上する。
  • 6/26:晴れ/朝、政景・盛重・成実・泥蟠斎などと、宿老中を召し集め、談合あり。取出城の様子を見、合戦の時期が来たことを進言。「縦ひ十分の御働きはなくとも、御対陣の験しに御合戦なくては如何」。原田旧拙斎・伊藤肥前らは「若いからそう言うが、少数の手勢で合戦するべきではない」と異見が出た。
  • 6/29:政宗、窪田へ出馬。談合あり、成実も参加。
  • 7/1:窪田合戦。くじ引き。→別項【くじ引きと小十郎@窪田合戦】
  • 7/4:成実・景綱の番の日。必ず合戦があるだろうといい、2人とも早朝から用意をした。小十郎は成実の役所を訪れ、合戦について、蘆名家臣平田左京の内応工作について話し、書をもって役所に帰る。/その後新国上総の勢が押し寄せたので、景綱は弟藤左衛門を使って新国を追わせた。その後成実・景綱は佐竹蘆名の手勢と戦闘状態になる。/辰の刻(午前八時)から未の刻(午後二時)まで戦闘状態。政宗から富塚遠藤と交代すべき命がきて、成実・景綱は2人に詰所を明け渡して戻る。/成実・宿老中・田村月斎を読んでの談合あり。明日の佐竹・蘆名への攻撃の予定について話合うが、月斎・旧拙斎らの自重論が強かったので取りやめを決定する。/政宗→成実自筆感状を遣わす。働きを褒めつつ、明日の出陣取りやめを残念に思う旨の書状。
  • 7/5:陣所すべて完成する。
  • 7/7:当番成実・宗実。
  • 7/8:中山峠に保春院。
  • 7/9:朝、政宗、盛重・成実を饗応。浄庵・伯蔵軒・打月斎・富塚近江・遠藤文七郎ら相伴。
  • 7/11:窪田当番成実・小十郎。
  • 7/16:和睦成立。名代として政景が山王山に出向き、石川昭光と対面。
  • 7/21:軍勢を引き上げ、宮森城(岩代町小浜)に戻る。佐竹家臣小野崎彦三郎が成実を介して政宗と面会。成実同道する。
  • 7/23:国分北目より粟野大膳国顕から初鮭献上される。晩ご飯に初鮭料理を命じ、政景・盛重・成実・泥蟠斎・伯蔵軒・七宮伯耆・原田左馬助・富塚近江・遠藤文七郎・羽田因幡ら相伴。
  • 8/3:政宗、成実に料理を賜う。田村仕置のため宮森城から三春へ移る。景綱途中まで出迎える。田村隆顕後室と面会し、御膳を供にする。亘理元宗・政景・成実・盛重ら相伴する(元宗は隆顕後室の弟、政景・成実・盛重らは甥にあたる)。
  • 8/12:昼隆顕夫人と面会、成実御供する。夜になって談合あり。成実・宗実も参加。
  • 8/18:朝、政景・成実を饗応。打月斎・伯蔵軒・伯耆相伴。
  • 9/17:三春城を出て大森城へ。その20日までの間に米沢へ帰る。
  • 10/13:久保姫→政宗蜜柑贈る。
  • 10/22:政宗→成実返書。安積筋・田村洞中・最上についての報告と注意。
  • 11/26:竺丸元服し、小次郎(一説には諱政道)と名乗る。祝儀の御膳のあと、乱舞あり。
  • 12/5:家康からの書状来る。
  • 12月はじめ:景綱が岩城から戻り、大森城で宿泊した際、成実が参上し、対面し、岩城の様子を訊ねられる。岩城・田村の動静、大内兄弟調略について話合う。

1589天正17年:22

  • 2/26:政宗、谷地小路にて落馬して左足脛を骨折。
  • 2月下旬:成実→小十郎遣い「20日頃片平大和から飛脚」の知らせあり、小十郎→成実→片平に飛脚返事。片平大和それを聞いてすぐに安積郡堀内に来る。成実は堀内に行き対面し、政宗の負傷により手切れが遅れること、指示を待てと告げる。
  • 3/21:政宗→成実・宗実へ連署の書状送る。取出のこと、片平への対処の指示。
  • 4/25:成実→政宗、羽田因幡使者。
  • 4/27:片平大和親綱はじめて参上するのに、成実同道する。即面会する。/栽松院→政宗、酒贈る。
  • 4/28:骨折治療のため飯坂温泉から湯を取りよせる。成実・片平大和在所に帰る。
  • 4/29:成実、白石宗実との面会希望し、白岩で面会。
  • 5/3:政宗、大森城に逗留、各地から手勢が到着し、本宮城に移動。
  • 5/4:安達郡阿子島城を攻める。町曲輪三ノ曲輪まですぐに攻め崩し、引き上げる。すると城主阿子島治部から成実を頼り、城を明け渡すので兵の助命嘆願の希望を受取、それを受けいれる。なので成実の家臣遠藤駿河を人質に城中に入れ、阿子島城明け渡し。
  • 5/5:安達郡高玉城を攻める。成実へ先方を命じる。しかし、政宗は成実より先に高玉へ乗りかけさせ、南から北へ巡検し、急襲するべき旨を命じる。荒井木工允と羽田右馬助槍を交わす。午後三時になって落城。女童・牛馬に至るまで撫で切りする。/高玉太郎左衛門の最期/小十郎が太郎左衛門子息を助けた話。→別項【小十郎が子どもを助けた話】
  • 5/18:政宗、大森城を出て伊具郡金山城へ着陣。
  • 5/28:片倉小十郎田村より帰る。昼から談合有り、談合の最中成実、三蔵軒を連れ田村より帰る。話合い後、三蔵軒を猪苗代弾正所へ遣いに出す。晩、大内・片平参上し、また談合有り。成実・鬼庭石見・七宮伯耆・原田左馬助・片倉景綱など参加する。
  • 5/29:晩白石右衛門宗実へ料理を饗する。ちょうど成実も参上。夜談合有り。
  • 5/30:政宗、栽松院見舞いのために杉目城を訪れる。
  • 6/1:三蔵軒、猪苗代家家臣須川野左馬助を同道し大森に帰ったため、小十郎へ猪苗代行きを命じる。小十郎は二本松へ帰り、成実へ申し渡し、その後阿子島に宿泊する。成実は荒井まで出て宿泊。
  • 6/2:政宗大森から本宮城へ移る。談合後、猪苗代への道を中山峠まで出馬、その後阿子島へ帰り、本宮へ入る。/この日小十郎は猪苗代へ津嫡子、成実は手勢が集まるのを待って阿子島に宿泊。
  • 6/3:政宗、本宮から中山峠付近まで出る、猪苗代子息を連れ安子島へ帰還。談合があり、猪苗代への出馬を検討する。政宗は成実・小十郎を心配し、布施備後定時を2人への遣いに出し、猪苗代出馬への是非を訊ねる。/成実は猪苗代へ着陣。
  • 6/4:談合有り。布施備後が猪苗代から戻り、成実・小十郎ともに猪苗代へ馬を移すべきと申し上げたと言上する。書状を開く事なくそばに置いた。申の刻(午後四時)に阿子島を出、子の刻(午後十二時)猪苗代へ着陣。成実・小十郎途中まで出迎える。/家臣は政宗の猪苗代出馬に対して反対だったが、政宗が是非ともと思ったため、布施備後を2人に遣わした。成実・小十郎は政宗の出馬は不要であるというだろうと思った政宗は途中まで人を出し、布施備後に「2人が政宗の出馬を望んでいる」という返答を政宗の前でしろと命じた。/この日猪苗代で、成実は小十郎へ遣いを送り、会津から今日戦闘の噂があることをつげ、どうするかと問うた。景綱は昨日もそうおっしゃいましたが、間違いでした。今日も何もないのではと返答した。しかし成実は地形検分のために摺上原(耶麻郡猪苗代町)へ出、景綱も後から駆けつけた。郡境の者達が2、300人摺上原付近に来て、空き家などを焼き払っていたが、二人が来たのを見て皆引き挙げた。二人は日橋の様子、大寺あたりの地形などを見る。日橋を落とすことで猪苗代盛国の、敵の退路を断つ為の計略であった。二人はいろいろなところを見廻り、昼頃猪苗代へ帰った。そうこうしているうちに使者である布施備後が到着した。景綱は同道して成実の所へ来て、(政宗の)書の趣旨はこちらを気遣って、政宗自身が出馬しようという内容であったが、こちらは代わる必要はなく、政宗の出陣は無用であると思う。どのようにもうしあげるべきかと相談した。成実はこれを聞いて、こちらへの出陣はもちろんのこと、阿子島に来るのも進みすぎであると思う。佐竹の本宮への攻撃があるかどうかも予想しづらいので、本宮にいるべきである、こちらには絶対に来る必要はないと返した。二人から猪苗代への出陣が無用であること、阿子島へは田舎道30里の距離であるから、もし出馬する事態になった場合は夜にすべきと申し上げ、備後を返した。/政宗は途中まで人をだし、備後に内々の意志を伝え、言い含め、御前で二人の返答を変えさせて言上させ、すぐさま出陣した。/これは夜戌刻(午後八時)頃に猪苗代へ知らされ、成実はこれは偽りの証言だろう、と言った。景綱から使者がきて、今夜政宗が来るのは確実であるので、迎えに行く旨を申し使わした。それに従って成実も迎えに出た。両人と政宗軍は須川にて遭遇した。/ちょうど猪苗代盛国の子亀丸(亀王丸)を阿子島から連れていき、猪苗代盛国へ返した。すると盛国は自分には子が二人おり、一人は自分に背き会津についた。もう一人はこの亀丸であり、お返しくださる事は忝く思うが、手元におくことは外聞的にも実際にも困るので、小十郎に渡し、大森に使わし、おいてほしいと願った。他にも子どもがあれば差し上げたいが、残念ながらできないと言った。/猪苗代盛国の反逆が須賀川に伝わり、蘆名義広はこの日須賀川を出発し、黒川へ入った。
  • 6/5:巳刻(午前十時)政宗は成実並びに一家一族郎党を集め談合があり。会津から大軍が出陣したとの知らせを伝える。昨日もそういう知らせを聞き日橋までいったが何もなく帰った。今日も誤報ではないかと成実が言うと、もう大軍が見えていると重ねて言った。成実は書院の西の塀際へ出て見ると、的の軍勢が数多く見えた。政宗は摺上原を見渡す櫓に上り、見た。そこへ成実も上がり、敵がいよいよ見えてきたので、軍の陣形・陣触を出すように言った。/先陣は猪苗代盛国、二番片倉小十郎、三番伊達成実、四番白石宗実、五番は旗本衆、六番は浜田景隆、左手右手に大内定綱・片平親綱という陣立てを告げた。/成実小十郎は政宗の面前から下がり、宿所へ帰ると、すでに家来達はそれぞれ出陣の用意をして待っていた。濱田伊豆は田村から呼び戻された。/会津勢は日橋北の山のあたりに徐々に備えを置き、北の、高原の方には家もないため、東の湖水の方面へ出陣し、10件ほどあった家を焼き払った。猪苗代から徐々に援軍が来ているのを見て、会津勢は磐梯山の方へ隊を引き挙げ、そこからこちらに向かって陣を推し、摺上を越えて進んできた。盛国・小十郎の隊とぶつかり、交戦が始まった。成実・宗実隊はその両隊の後に控えていた。盛国・小十郎隊が足並みが乱れ、崩れそうになったかと見えたところ、成実・宗実隊が隊列を揃えて敵陣の真ん中へ一直線に突きかかり、激しく攻撃した。敵は崩れはじめて退いたのを、摺上原の上まで追い掛けた。摺上原の下に、蘆名義広が旗本を備えさせていた。これらの旗本が推し、太鼓を打って隊を繰り出し、宗実・成実隊を押し返した。/政宗はこれを見て、旗本隊を使い守り返した。/大町高綱・馬場親成が一番首を取った。其の他兵卒が働き、再び敵を摺上原上まで追い返した。ここまでは敵も応戦していたが、退却した。摺上原から会津に向かって追い立てられるようになって敵勢は大いにくずれ、北方に向かって敗走した。政宗軍はこれをおいかけ、いくつか首を取った。/日橋を掛かった敵は、日橋を盛国が前もって落として置いたため、渡る方法がなく河に崩れおちて溺死するものが多数であった。その中にはあふれる大河を渡り生き延びる、水泳の得意なものもいた。/成実は金川(耶麻郡塩川町金川)の方へ敵をおいやり帰る際、川の様子を見たとき、向こう岸に濡れているところもあったという。/蘆名義広は逃れて黒川へ引き返した。猪苗代麓から黒川近辺まで田舎道30里ほど相手を追撃した。兵卒はひとりとして刃を血にぬらさない者はいなかった。討ち取った首は2500級*2、その中に蘆名重臣金上遠江盛満・佐瀬平八郎をはじめとして有名な武将も多く討ち取った。金上遠江を討ち取ったのは成実家臣斎藤太郎左衛門だった。この日討ち取った首を集め塚を築かせた。これを三千塚と呼んだ。/この日景綱は合戦の最中、敵兵に旗を奪い取られた。景綱の兵はこれを追い掛け、取り返したのだが、相争っている間に旗が引き裂かれてしまった。佐藤総六という者が、景綱に向かって陣の法螺貝はいいものかと訊ねた。景綱はこれは蘆名に伝わる宝物であると答えた。するとコレを奪い取り、旗を裂かれた遺恨を晴らすとして、敵の真ん中へ走り入り、安孫子彦之丞という者を討ち、かれが持っていた陣螺を奪い取った。戦が終わった後、景綱は首に添えて螺を献上した。政宗は褒めて、これを景綱に与えた。これは安孫子螺といい、片倉家に伝わっている。/夜、政宗は軍をひきあげ、猪苗代城に引き挙げた/→別項【摺上原合戦詳細】予定。詳細は『会津四家合考』にも詳しい。
  • 6/11:昼から雨。昨日の夜蘆名義広が黒川を退き白河へ走ったのに合わせて、政宗が三橋陣所から軍を率いて黒川城へ入城する。
  • 6/13:政宗、西館に保春院の元を訪れる*3
  • 6/15:成実・桑折宗長・宗実登城。
  • 6/17:留守政景在所より登城。
  • 6/18:昼すぎ談合有り、夜千手院の登城祈念あり。城下屋敷改帳を見、札をつけさせる。この日佐竹・岩城の田村への攻撃を警戒して成実・宗実を田村へ遣わす。
  • 7/3:成実・宗実・左馬助・500騎を率いて田村に在陣。
  • 8/18:小次郎黒川着。16日米沢発、檜原・塩川で一泊。
  • 9/13:二本松から参上、登城する。
  • 9/19:朝、成実・泉田重光・塩森兵庫・上郡山民部を饗応する。伯蔵軒・叶庵・七宮伯耆・遠藤文七郎が相伴。名取茂庭から若い雄鷹を献上される。成実に賜う。
  • この頃、石川昭光・白河義親の恭順。
  • 10/20:須賀川城攻略のため出陣。
  • 10/21:片平城に着陣。浜尾駿河盛泰などを通じて恭順を呼び掛けるが、後室に断られる。
  • 10/25:須賀川西方の城に出馬。夜今泉(岩瀬郡岩瀬村今泉)に着陣。
  • 10/26:【須賀川攻略】未明に須賀川城に向けて出陣。八幡崎先手に新国上総貞通・二番に白石宗実・三番に四保兵部宗義、雨呼口先手に大内定綱・親綱、二番手に成実、三番に某を備える。/これを見て城から隊が出てきて、両虎の口にて交戦する。定綱・親綱隊が足並み悪くなり、崩れそうになる。成実隊が入れ代わり、的を虎の口に追い詰める。敵はこれを防ぎ押し返すが、成実が馬上から隊を下知し、敵を激しく追い詰め、すぐさま火をかけた。この口の敵勢はすべて退いたので、その後北町まで圧倒する。/八幡崎の戦いは最終的に敵を虎口へ追い詰めることができなかった。脇から押し破れたら、成実ももっと激しく押し込むべしと心がけたが、成実隊もあちらこちらにちりぢりになっていたので、重ねて押し込む事も出来なかった。/本丸の西に二階堂氏の菩提自である長禄禅寺があった。この寺に火をかけた。激しい炎が上がって本丸に焼け移り、所々焼き崩れた。しかし八幡崎を固めた的はついに退かず、城は既に敗れているというのに、踏みとどまって戦い、人々はみな討ち死にした。城がほぼ落城しているというのに、本拠を守り戦死するそのようすは、滅多に見られるものではないと皆褒め称えた。/朝辰の刻(午前八時)から戦って申下刻(午後五時)になって落城した。岩城からの援軍である植田但馬・竹貫中務・北郷某など、佐竹の援軍武茂左馬助をはじめとして500騎・足軽2000人余りを討ち取り、二階堂氏後室も引き取り、薄暗くなってから隊を引き挙げた。/この日八幡崎口の戦闘において、活躍した二騎の敵武者を褒めたたえた。政宗はこれを遠くから見、世にもまれな傑物であると褒め、二人の年を当て、二人を生け捕りにせよと田村月斎橋本刑部に命じた。一人は21歳の大波新四郎、一人は35歳の遠藤壱岐という者だった。→別項【『名語集』『政宗記』など/政宗、武者の年をあてるエピソード】(予定)。政宗は二人に自分に仕えるように言い、遠藤はその通りにしたが、大波は従わず逃げ出した。皆これを追い討とうとしたが、政宗はそれを止めた。/此の夜政宗は須賀川の北の野山に宿陣し、しばらく在留した。二階堂氏後室を信夫郡杉目城に送り遣わした。後室はその後岩城に赴き、岩城氏の世話になっていたが、その後常陸佐竹に移り、佐竹氏の秋田転封に従って移動の最中須賀川に立ち寄り、このときに亡くなった。/政宗は須賀川から和田城を攻めようと思ったが、兵卒が疲れていたので、明日にすることになった。その夜須田は和田城を捨てて逃亡し、他の諸城もことごとく同じように開城した。矢田野伊豆・横田治郎は降伏してきたため、三分の一の所領で召し使われることとなった。小原田隠岐はしばらく抵抗していたが成実を通じて降伏した。数日の内岩瀬一帯はことごとく平定された。
  • 12/1:政宗黒川城へ入城。佐竹への出陣のため、白河・那須の境目関和久にあらたに城を作らせた。白河から警固の人数を乞われたので、成実麾下の者を派遣することを決める。政宗が黒川に帰ったのに合わせ、成実も二本松へ帰り、人を派遣した。その後白川・那須の間の、関和久の城番として赴き、宗実・成実はここで越年した。
  • この年、11月から浅野弾正長吉・富田左近将監・浅野左京大夫長継・木村弥一右衛門尉清久・和久又兵衛宗是・上郡山右近丞仲為より書状到来する。秀吉の立腹について。

*1:伊達家では毎年1・5・9月などに日待をした

*2:成実記によると1580余とする

*3:この日黒川入城か。北方愛姫も同道?