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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』2-1:二本松八丁目境和睦之事

『政宗記』2-1:「二本松と八丁目の境界の和睦のこと」

原文:

(小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967・『仙台叢書11巻』)

去る程に四本の松*1へは軍あれども、二本松と八丁目とは無事にて候。其子細は右にも申す。四本の松・二本松は、佐竹・会津・岩城何方へも威勢の募処を見合せ、其時々に従ひ身を持るる身代なれば、二本松*2義継も四本の松へ加勢をば越しけれども、今度伊達加勢募りなば実元を頼み降参有べき覚悟なり。去れば其頃、実元は病気なれども、二六時中心に絶ず彼境を静めける底意を如何にと申すに、会津・仙道より四本の松へ加勢のときも、田村は敵地なれば、二本松を往行す、故に実元、義継へ近付此境を静なば、佐竹・会津・仙道・岩城、今は、二本松へ一味たりと雖も、敵の実元に和睦の上、境目迄も無事なりとて、後には右の四大将義継へ疑心有べし、其ときは義継も政宗へなどか御方になり給はでは候べき、惣じて軍の始めより、政宗会津の手立無念に思はれければ、会津の御方へ武略を尽し、伊達の鉾先にて降参させ、仙道一宇引付なば、政宗若年ながらも恐らくは文武の大将なれば、末々は会津の家中も我主義広へ比べ、各此方へ手に入ん、脇々小敵共に勢を尽され、さらに入ざることと実元思案にて二本松との境をば、尚も首尾能く静めけるなり。去程に、其品々を政宗へひそかに知せ奉り、何んと申ことやらん、子供なれども成実には其心をば得せしめずして、有とき実元申けるは、「二本松と和睦のこと、義継も常平生の思案にあらず、我等も亦思案ながら、大形ならざる思案にて、彼境をば静めけり、尓るに汝若年の身として、若き殿を諫め参らせ、此境を切べきこと今の様に思はれ、心に懸て身の煩も重くなる也、願くば手切れすまじき」と、誓詞をみせなば、安堵の思ひをなさんと云ひ、頻りに望みに因て、両度迄誓詞を致しみせけるなり。去る程に、実元案の如く、末には四本の松、伊達へ落居の以来、義継も降参、扨其後会津まで乗取給も、在城となりけれども、先其砌は思の外なる俄の事にて、輝宗不慮なる生害をなした玉ひ、伊達の上下手を失ふこと云に及ばず。されば田村清顕、政宗へ宣ひけるは、「四本の松の小浜には、加勢の者ども多勢なるに、夫へ亦方々より引除ける軍兵とも、彼地へ集まり大軍となっては、四本の松へ働き給ふとも別に手際も有間敷程に、今度は先田村へ廻り、備前抱への小城とも攻取、夫より小浜を取詰め給はばよかるべし」と諫めに仍て天正十三年九月二十二日に築館を取立、田村の領内黒籠と云処へ馬を移され、二十三日には休息し給ふ。かかりけるに、小浜の敵の中より伊達勢を引入し、大内に逆心して忠節せんとして、片倉景綱方へ注進あり。是に付て景綱、白石若狭*3・桜田右兵衛*4・伊達成実ともに、四頭小浜へ武略のためとて、築館に残し置、御身は黒籠より同二十四日に大波内と云処へ働き給へば、二本松勢助入内より人数を出し合戦なれども、別に強き戦にもなく、其日は本の黒籠引上給ふ。故に築館に残されける四頭の者ども、大波内へ働き給ふと聞こへ、小瀬川といふ処迄迎ひに働き出でければ、政宗働き玉ふこと未だ遅かりける内、小十郎其頃は手勢をも持ざるときにて、漸二百ばかりの人数を以て、小瀬川を越評議なしに働きけるを、小浜の敵とも出合、景綱者ども追立てられ、小瀬川迄五里程逃懸りけるを、残る三頭の勢共、川を越助合戦に取組ければ、敵五六百騎なれども、政宗働き玉ふべき事を危く思ひ、急ぎ引取る。味方も無勢なれば襲わずして双方へ頸十余り宛引取、物分かれしける事。

現代語訳:

このように四本松地方へは戦闘があったのだが、二本松城と八丁目城との間は無事であった。その詳細は前にも記した。四本松・二本松は、佐竹・会津・岩城どの方面にも、勢いのあるところを見てそのときどきに従う相手を変え、領地を守ってきた家なので、二本松の畠山義継も塩松に援軍を出していたけれども、今度伊達の勢いがましてきたら、伊達実元を頼りに、降参をしようという覚悟であった。
さて其の頃実元は病の身であったが、一日中いつもこの境界を平穏にするよう努めていた考えをずっと持っていた。それはどうしてかというと、会津・仙道から塩松へ援軍を送るときも、田村は敵地であるので、二本松を通ることになる。なので実元は、義継へ近づき、この境界を平穏に保つならば、佐竹・会津・仙道・岩城は、今は二本松の義継と味方であるといっても、敵である実元と和睦をしている上、境界の様子も無事平穏であるということで、その後その四家の大将たちも義継への疑念を持ち始めたのだろう。
そのときは、義継も政宗に味方にならずにはいられないだろう、そもそも戦のはじめから、政宗は会津のやり方を残念に思っておられたので、会津の方へ戦略をし、伊達の攻撃によって降参させ、仙道総てを一手にすることができれば、政宗は未だ若いが恐らくは文武両道の大将であるので、のちのちは会津の家中も自分の主義広と比べ、こちらへ寝返ってくるだろう。その他の敵対する小大名にもその勢いを魅せ、更に寝返りがふえるだろうと、実元は考えて、二本松との境界を問題なく鎮めていたのである。
さて、そのいろいろな考えや報告をを政宗に密かに知らせ、なんということだろうか、子である自分(成実)にもその考えを知らせずにいたのである。
あるとき実元は「二本松との和睦のことであるが、義継も現在平常の考えにない。われらもまたよく考えての上、大げさでない考えであの境界を鎮めている。おまえは若い身の上で、若い殿を諫め申し上げ、この境界で争うことを現在計画され、それが気に掛かって、病も重くなるほどである。願わくば手切れはするな」と、誓詞を出さないならば、安心できないといい、頻りに望むので、自分は2回も誓詞を作成し、渡した。
そうこうしていると、実元の考えの如く、後に四本松が伊達の領地となり、義継も降参し、さてそのあと会津まで陣を進める際に本拠を置かれたけれども、まずそのときは予想もしない事件で、輝宗が思いがけない死を迎えなされ、伊達の者たちが(他方から攻められ)策を失ったことはいうまでもない。
さて田村清顕が政宗におっしゃったことは「塩松の小浜には、援軍の者が多いので、そこへまたそれぞれの城から退いた兵が小浜に集まり大軍となっては塩松へ攻めかかるとしても他にやり方がないので、今回はまず田村へまわり、定綱に従っている小規模の城から攻め取っていき、最後に小浜を攻めればよいのではないか」ということであった。この言葉によって、天正13年9月22に築館をつくり、田村領内の黒籠というところへ馬を移し23日には休息なさった。
こうしている間に、小浜の敵の中から伊達勢を引き入れ、大内に反逆して伊達に寝返ろうとしているものがあると、片倉景綱のところに報告があった。これにあわせて、景綱・宗実・桜田右兵衛・成実の四人が小浜へ戦略のために築館に残し置いて、政宗は黒籠から24日に大波内というところへ戦闘をしかけたところ、二本松の援軍が来て戦闘となったが、激しい戦にはならず、その日は元の黒籠に引き挙げなさった。なので築館に残された四人の者たちは大波内へ戦闘すると思い、小瀬川というところまで迎えに出たところ、政宗の進軍がまだおそかった。その頃小十郎はまだ手勢をあまり持っていなかったときであったのでようやく200ばかりの人数を集め、小瀬川を越えて、相談なく出兵したところ、小浜の敵とも出合い、景綱勢は追い詰められ、小瀬川まで五里程逃げ懸かったところ、のこりの三人の勢が、川を越え援軍として合戦にくわわったところ、敵は5,600騎であったけれども政宗が戦いに乗り出すことを危険に思い、急いで引き挙げた。味方も人数が少なかったのでそれを追わずして双方へ首を10数個引き取り、引き分けたのである。

語句・地名など:

二六時中(=現在の四六時中):いつも/つねに/一日中
鉾先(ほこさき):攻撃
取立る(とりたてる):建築する

なんとなく地図:

自信がないです…。間違い有ったら御指摘ください。
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感想:

天正…13年です…粟ノ巣事件(輝宗事件)のカウントダウンが…。
二本松の特殊性を語った記事です。昔独眼竜を見ていたこどものころは義継ひでえ!と思ったものですが、よく考えたらアラサーで小さい子どもと家臣の抱えて、自分のプライドは全く考えずにいろいろな方面に頭を下げ、領土保全をがんばっていた義継の気持ちの方がわかるようになり、それに無理難題を押しつけた政宗や輝宗の方がひでえ!と思うようになり、そりゃ後先考えずキレるわ…と思うようになりました…。この頃の政宗は本当にいろいろと押しつけすぎというか、ちょっと苛烈すぎて、自業自得…と思ってしまうのです。とくに輝宗事件に関しては。
この記事で気になるのは、実元が二本松との境界について「病が重くなるほど」心配していたこと、それを子どもである成実にも隠して、政宗と報告していたこと、そして心配の余り子どもである成実に対して誓詞を二度までも提出させていることです。
実元が境のことを気にしていたのはわかりますが、大森伊達家の特殊性と、また子どもに対しても厳しい人だったのか?といろいろと妄想は膨らみます。…いつのタイミングで成実が政宗ー実元秘密ホットラインの存在を知ったのかとか、成実三昧(by武水しぎの様/「大森伊達家の成立と解体」)で指摘されていたように、家臣の両属状態と、成実個人の立場とか。
まあ、ここ成実ブログですし、それぐらいの脱線はお許しくださいませ(笑)。

*1:塩松

*2:畠山

*3:宗実

*4:元親