[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』2-3:二本松義継懇望

『政宗記』2-3:「二本松の畠山義継の懇望」

原文:

(小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967を主にし、『仙台叢書11巻』と比べ誤字と思われるところを補注)

去程に、政宗十九歳の同き九月二十六日の午の刻に小浜の城へ移り給ふ。かかりけるに二本松義継、実元を頼み、代々伊達を守り身代堅固に保ちけれども、近年は佐竹・会津より田村への戦ひに、清顕へ恨みの子細候ひて、右の両大将は一和致し度々同陣たりと雖ども、伊達へは跡の御首尾を忘れず、一年輝宗公相馬御陣のときにも、両度とも御陣へ参り、御奉公に及びけり。加様のことどもを思召出され、其賞に此度身代相立てられ候はば有りかたく候べきと申す。実元病気にて小浜へ参ること相叶はず其旨輝宗へ申、輝宗より政宗へ宣ひければ、「相馬陣の品々をも委く覚えて候、さらんにをひては、今度大内退治に大内抱の小手森へ働きけるに、両口の合戦成りを敵の一口は義継先陣たり、亦同抱大波の内へ働くときも、二本松より加勢つかはし、彼要害楯籠り人数を出だし、合戦に及ぶことは大内同前の大敵なれば、此上二本松へ働き、相互の勝負次第に」と宣ふ。然りと雖ども、様々懇望殊更父の諫め彼是なれば是非なくして、「さらば二本松の内南は杉田、北は結川を切に明かに渡され、中五ヶ村にて身代立置、子息を人質に渡し給ふべし」と宣ふ。義継は「南なりとも北にても、一方を召上げ給ひ何れなりとも差置れ、御恩賞に相受度」との給へども、政宗用ひ給はず。重て「其義ならば、某召使ける郎等共、只今迄充行本地の分を、御相違なく直ちに召仕下され候はんや、ヶ程に首をなげうち訴訟に及びけるも、残間敷某を主と仰ぎ二つなき命を捧げんと志ける重代の者ども、乞食を致迷者と罷成ては所詮なし、如何様にも一方をば御塩味の所頼み入る」と宣へども、是亦承引し給はず。其とき義継、此上は是非なしとて、同十月六日の日、輝宗御坐四本の松の郡宮森といふ処へ不図掛入、降参の為馳参りたりとて御坐故、輝宗其夜に小浜の城の台所へ御坐て、何も家老共を召集め、義継降参の品々を政宗へ内通し玉ふ。かくて輝宗彼使を成実仕れと宣ふ。成実其年十八歳なれば、流石大事の使若輩にて如何なりともうしければ、右より親実元扱ひの首尾に使とは罷なり万差引をば輝宗なさんと宣ふ程に、辞し申には及ばざるなり。去れば義継、成実に語り給ふは、「右の題目どもにて実元を頼み、様様懇望に及ぶと雖も、今度御敵と罷成ては、御前相叶はず御誠僻ことならず、去程に御家へ翔入、兎も角も悉皆我が身を輝宗公と御辺へ打任せ奉り、降参の上にも御承引ましまさざるときは、一二もなく自害をなさんと覚悟を究め、是迄罷り向て候」との宣ふ。其旨政宗へ申ければ、「第一父の中立中ん就、降参の上和利なし、右の題目一宇にては余国の聞へも如何」と宣ひ、生年十二歳の国王殿といふ子息を渡し給ふ、一ヶ条にて相済けり。故に和睦之目見あり度とて、義継十月七日の未の刻に宮森より小浜の成実陣屋へ御坐、其旨政宗へ申ければ、対面あるべしと宣ふ。尓りと雖も、兎角して時刻移り、蝋燭にて対面し玉ひ、其れより宮森へ帰り、明る八日の卯の刻に使者を給はり、「今度思ひの儘なる身代ひとへに輝宗公と御辺の故なりとて、輝宗へ此御礼を申上、急ぎ居城へ罷り帰り、申合せの子供差上候はん、御辺は是へ出向ひ御前頼入」と宣ふ。是に依て、宮森へ参り輝宗の前へでければ、今度二本松迄手に入給ひ目出度由にて、伊達上野守政景を始め其外伊達の家老共小浜より参り、各輝宗前へ相詰けり。其にて義継口上の趣申しければ、時刻を移さず御坐、供侍には、高林主膳・鹿子田和泉・大槻中務、此三人は坐敷までの供なり。扨て上野と成実は広間へ出迎ひければ、二三度打うなづき、其より上下四人坐敷へなをり玉ふ。輝宗の次には上野と成実を差置給ふ。されば先にてヶ様に有べき瑞相やらん。相互に何んの物語りもし給はず立給ふに、輝宗送りに出玉ひ、広間の中にて御礼のとき、左右は皆此方の者たるが故に、思ひの旨も叶はずとみへ、陣屋のことではあり表の庭の如何にも詰り、両方は竹垣にて縦は三人とも肩並ぶること成らざる程の白洲まで送られける。上野・成実は輝宗広間へ帰り給ひて後出で候はんと、内より見送りければ、義継手をつき「御取持深く過分の処に、某を生害有べき由承て候」、といふも果さず、左の手にて小袖の胸を捕ひ、右にて脇差ぬき玉へば、供の者ども七八人、上野・成実惣じて伊達の者を押へ隔んため、輝宗の後へまわり引立出でられけれども、細道なれば脇より翔出、立切べきてだてもなく、門を立よと口々に呼びけれども、急ぎ出で給へば、是も叶はず歩立となって輝宗を引立、二本松に赴く。御方の者ども是非なく跡を慕ふ。扨此の乱を小浜に於て聞ける者は、鎧堅めて早翔なり。又宮森より出ける者は、其隙もなく何にも皆袴かけ也。然りと雖も、此様体を見奉り、打果さんと云ふ者なく、各あきれたる有さま申も中々愚かにて、高田といふ処迄十里余附奉り、二本松衆に道具持たる者は、半沢源内・月剣遊佐孫九郞弓持・一人、扨其外は皆抜刀にて、輝宗と義継を中に取巻、二本松へ引のきけれども、伊達の者ども跡を慕ふはかなわずして、輝宗を生害となす四十二歳なり。御方の者ども是を見て、鬨の声にて一度に咄とおしかけ、供の士卒は云ふに及ばず、亦者迄も漏さずして五十余人打果す。義継三十三歳にて、互いに生害し給ふことかなしんでも余あり。降参のためかけ入、旗下となりて参会し給ふ上は、父子共に上底もなく思はれけるに、如何なる天魔の所為やらん、嗷々なること到来して、伊達の者ども手を失ふ。去ば、彼一乱の起を後にきけば、義継七日に小浜へ御坐て政宗へ対面の時、小浜の町にて政宗の小人ども、取宿にて居りけるが、一四五人一宿して遊びけるに、彼者ども心静の折節、面々刀脇差のねたばをあはせ候はんと、半切に水を入車座敷に取巻、我も我もと抜連て合せけるを、輝宗の小人共宮森より三四人、小浜へ町用に来りけるが是を見て、如何なれば左程にはいそがしきぞと尋ねけるに、其身どもは知らざるか、明日是にて二本衆を小花斬りにするぞと、おどけけるを、二本衆、直者やらん又者なるか、其場へ立合ひ是を聞て、其夜義継宮森へ帰り玉ひは告げる程に、俄かに思立玉ふかと云へり。亦二本松より含んで手立に来たりたるかとも唱ふ。含で手立の降参とならば、叶はざる迄でも、政宗をとねらはん、いかさまにも俄ことならんか、と取々様々なり。其日に政宗近頃休息のためにとて、十四五里わきへ山鷹に出られ留守たり。扨事終て後此乱を鷹場へ知せ奉れば、直ちに高田へ御坐て、明日より二本松へ働くべしと宣ふ。評定人者ども迚も吉日を撰み重ねて然るべしと申す。さらばとて九日の早朝御身は小浜へ帰り玉ふ。輝宗の死骸をば八日の夜に入小浜へ移し、九日には米沢の禅宗開山派夏狩の資福寺へ入奉り、導師は虎哉和尚なり。扨葬礼の砌遠藤山城*1・内馬場右衛門二世の供を申す。又須田伯耆といふ者其節法体して道空と云、かれは米沢より百里隔ち在所に於て追い腹なり。此道空の着尾もなく、而も在所にての切腹は不審なりと風聞す。政宗も不審には思はれけれども、流石供腹と申しければ、各同意に取置したまふ。扨又山城元来を申すに、其古は遠藤内匠とて、伊達の桑折に牢人分にて居たりけるが、常々歌道数寄にて有時内匠沈酔の余りに、落馬して刀の鞘を打砕き、翌日の狂歌に、
 さるにても昨日の暮の大酒にけふさめ鞘のわれて哀しき
と申たりけるを、中野常陸*2聞て常に賢きものと聞及びけるに、引付け召仕はんとて取寄子に差置。常陸威勢の盛んなれば、輝宗の前へ度々引出し、常陸奢りの余りに出仕をせざるときは、彼内匠を以て様々の用ども調ひ、輝宗へ内匠自然に近付。かかりける処に、其昔晴宗と輝宗との恩愛の中を、今度も又常陸取拵ひ父子の間不快なり。此時を見合せ伊達の家に己がならんと謀叛を企つ。是に依て伊達の家滅亡に及ばんとす。此時輝宗右の内匠を常陸所へ横目に付給へば、内匠案者の者にて、実元に引合、彼常陸を米沢より実元居城信夫の大森へ語らひ出し、其後内匠実の作法に行ければ、伊達の家長久となる。故に内匠も改名して山城と呼れ、臣下と成て二世迄を勤めければ、比類なきとぞ人申ける。是は山城始終の物語り。かくて政宗敵の二本松へ時刻を移さず十月十五日に働き給へば、義継領内本宮・玉の井・沼川、此三ヶ所も同八日の夜二本松へ集まり、十二歳の子息国王殿を普代の者ども大将にして、義継親類の新城弾正といふ誉の者を守に定め、二本松は籠城となる。彼城へ働き給ふに内より一騎一人も出合ず、城は堅固に相抱何事なき故、政宗も阿武隈川を打越、右の高田へ惣軍を引上げ給ひ各野陣をとる。然るに成実其夜の陣場は二本松の北に当て、伊保田と云て高田よりは各別なり。其子細をいかにと申すに、八丁目は成実親実元隠居処なれば、彼地用心の押のため伊保田には差置給ふ。是に依て明日の兵議伺はんため、成実は高田へ引上、手勢をば伊保田へ上させければ、内より見合せ人数を出し合戦に取組、双方ともに数多討死也。高田の御方も是を見て、川を越助け合、城中より出ける敵を遠やらい迄押込物別れなり。尓る処に働き給ふ十五日の夜の亥の刻より、大風吹出同丑の刻より大雪になり、十八日迄四日の間昼夜共に降続き、馬足叶はず、働き給ふも成るまじきとて、同二十一日には小浜の城へ引込給へり。
偖雪積り年の中はなるまじきとて、境々の人数らは残らず帰し給ひ、御身は小浜に於て休息し給ふ。去程に明る十四年の七月迄、二本松堅固に保ちけるなり。其謂れを申に、其頃高玉・阿久ヶ島といふ二ヶ所は会津一味の処なれば、深山に伝へ二本松への通路に依て、彼所へ附城になりともし給ふべきかと思はれけれども、其義ならば亦佐竹・会津・岩城彼三大将、安積表へ出られては、二本松を巻ほこし、敵を跡にして安積表へ向はんとすること気遣ひ、附城をば遠慮ありて人数を遣はし、通路を止むべき由に候らへば、敵高き山より見へは*3、其時は通路もなく、偖人数参らさるときは夫を能見切りて米以下も通りければ、翌年迄では籠城堅固に候事。

現代語訳:

政宗19歳の同天正13年9月26日の午の刻(午前12時頃)に小浜の城へお移りになった。二本松の畠山義継は実元を頼りに、代々伊達をたよって領地を守っていたが、近年はは佐竹・会津からの田村への戦いに、清顕への恨み事があったので、前述の両大将と共に援軍を送ったりしていたのだが、伊達へもその後の心遣いを忘れず、一年間輝宗が相馬と戦ったときも2回とも援軍として参加し、奉公を行っていた。義継は「このようなことを思い出され、その褒美にこの度領地保全を許可して貰えればありがたく思う」といった。
実元は病気であったので、小浜へ来ることが叶わず、その旨を輝宗へ申し上げ、輝宗から政宗へお伝えなさったところ、「相馬との戦いのときのことなども詳しく覚えている。しかしながら、今度大内定綱退治に大内配下の小手森への戦闘に、両方面からの戦となったところ、敵の一方面は義継が先陣だった。また同じく大内配下の大波内へ戦を仕掛けたときも、二本松から援軍を使わし、要害へ立て籠もり手勢を出し、合戦に及んだのは、大内と同然の我々の大敵であるので、今後二本松を攻め、お互いの戦闘にて決めるものだ」とおっしゃった(義継の願いを却下した)。
しかし、義継の様々の必死の願いと、とくに父輝宗の諫めなどがあり、仕方なく「では二本松のうち、南は杉田北は結川を区切りにこちらに渡し、その内五ヶ村で身代をたて、子供を人質に渡せ」とおっしゃった。義継は「南でも北でも、片方は召し上げなさってもかまいませんが、どちらかでいいので残してお与えください」と申し上げたが、政宗は却下した。
義継は重ねて「その仰せならば、今私が抱えている家来達は今の領地を与え、本家で召し使ってやってくださいますか? このように首をなげうち訴えに及ぶのも、私を主と仰ぎ、二つと無い命をささげようとしてくれる代々の家臣を乞食にさせ、迷い者とするのは自分が不甲斐ないです。どうか一方だけでもお許しくださることお願いいたします」とおっしゃったが、政宗はまたこれを受け入れなかった。
そのとき、義継はこの上は仕方ないと、同10月6日、輝宗が居られた塩松郡の宮森城にふいにかけいり、降参の為に馳せ参じ、願いを申し上げたので、輝宗はその夜に小浜城の台所へ来られ、家老達を集め、義継降参のことについてのいろいろを政宗にお伝えなさった。
そして輝宗はこの件に関しての使いを成実がやれと仰せになった。その歳自分は18歳だったので、さすがにこのようなおおごとの使いは若輩者にはどうだろうかといったところ、元からこれは親である実元の扱いのことである。すべての指図は輝宗がするから、とおっしゃるので、お断りすることができなかった。
さて義継が成実に語ったところは、「以上の条件によって実元を頼り、いろいろとお願いに上がったのに、この度敵とされ、政宗に面会することもならず、私達の忠誠は嘘ではありません。なのえあなたの家へかけいり、とにもかくにも渡しの身代を輝宗公とあなたへお任せ居たし、降参しても(政宗が)お許しくださらない場合は、一も二も無く自害をしようと覚悟を決め、こちらに来たのでございます」といった。
その内容を政宗へ伝えたところ「第一に父輝宗の中立であるし、とりわけ降参のうえであるから仕方ない。前に言った条件総てでは周辺の国の聞こえも如何か」とおっしゃり、その歳12歳の国王という子息を渡すという一カ条で済ましてやろう。故に和睦の面会をしたいと言って、義継は10月7日の未の刻(午後2時頃に)宮森から小浜の成実の陣屋へ来たので、その旨を政宗に伝えたところ、対面しようと言ったが、色々している内に時間が経ち、暗くなって蝋燭を付けて対面し、それから宮森へ帰り、明くる8日の卯の刻(午前6時頃)に使者を受け「今回願いの通りに身代を保てるのは、輝宗公とあなた(成実)のおかげであるので、輝宗へこの御礼を申し上げ、急いで居城へ帰り、約束の子息を連れて参りましょう。あなたは出迎えて輝宗への面会をお願いしていただけませんでしょうか」とおっしゃった。
このため、宮森へ参り、輝宗の前に行ったところ、今回二本松まで手に入れ、めでたいことだということで、留守政景を始めその他伊達の家老達が小浜から来て、みな輝宗の前へ集まっていた。その場にて義継の言い分の趣旨を述べたところ、すぐに面会することになった。
供の侍には、高林主膳・鹿子田和泉・大槻中務の三人が来ており、この三人は座敷まで供をした。一方留守政景と成実は広間へ出迎えたところ、二三度うなづき、それから(輝宗・政景・成実・義継)の四人が座敷へ座った。輝宗の隣には政景と成実をお置きになった。
だからこのときから、このようになる兆候があったのだろうか。お互いに何を話すでも無かったので、義継達は帰ることになった。輝宗が見送りにでられ、広間の中にて御礼をしたときは、左右はともにこちらの味方の者であったので、思っていたことも叶わなかったのだろう。陣屋であったので表の庭の詰まっていて、両方は竹垣になってたてに三人も肩を並べることができないぐらいの狭さの白洲になっていたが、輝宗はそこまでお送りになった。政景と成実は輝宗がお帰りになったあと出て行こうと、内側から見送っていたら、義継は手をつき「身に過ぎる取り持ちをしていただいたところ、私を殺そうとなさっているということをお聞きしました」といい終わりもしないうちに左手にて輝宗の小袖を捕らえ、右手で脇差を抜くと、義継配下の者たちが7、8人が、政景・成実ら伊達のものたち総てを押さえ隔てようと輝宗の後ろへ回り、連行し出発した。しかし、細道であったので、脇よりかけだしたり、生垣を断ち切る手段も無く、「門を立てよ!」と口々に呼んだけれども、義継・輝宗がすぐに出て行ってしまったので、これも叶わず、義継達は馬に乗らず徒歩で、二本松に向かった。味方の者たちは仕方なくあとを追った。
さてこの変事を小浜城にて聞いた者は、鎧を着て急ぎ馳せ参じた。また宮森城から出た者たちはその暇も無く、いずれも皆袴姿であった。しかし、この有り様を見ながらも、打ち果たそうといえる者はなく、各々途方に暮れた様子はいうのも言い尽くせないほどで、高田というところまで10里あまり、付き従って走った。二本松衆で武具を持っていたのは、半沢源内、月剣を遊佐孫九郞、弓持ちが一人いた。その他はみな抜刀しており、輝宗と義継を中心に周りを取り囲み、二本松へ退いていた。伊達の者たちはあとを追うことはできず、輝宗を殺害した。42歳であった。味方の者たちは是を見て鬨の声を機に一度にどっとおしかけ、供の侍たちはいうに及ばず、陪臣たちまでも漏らさず殺し、50名余りを打ち果たした。
義継は33歳であり、互いに殺し合うことになったことは哀しむべきことであった。降参の為こちらへかけこみ、伊達の配下として参加するならば親子ともに下心無く思っていたのに、どういった天魔の所為だろうか、嵐のようなものが起こり、伊達の者たちはなす術がなかった。
ところで、この変事の原因をあとできいたところ、義継は7日に小浜へ来て政宗と対面した歳に、小浜の町で政宗の小者たちが宿を取っていたのだが、14、5人が一つの宿で遊んでいたところ、この者達が静かにしていたとき、銘々が刀や脇差を磨ごうと、桶に水を入れ、車座になり、我も我もと刀・脇差しを磨いていたのを、宮森から小浜の町へ用をすましにきた輝宗の小者の3,4人が是を見て「どうしてそのように忙しくしているのだ」と尋ねたところ、「あなたたちはしらないのか、明日是にて二本松衆を小花のように切り刻むのだ」とおどけたのを、二本松衆の直臣か陪臣かはわからないが、その場に居合わせ、この会話を聞いて、その夜義継が宮森へ帰ったときに告げたのを、突然思い出したかと言っていた。また二本松より来た時にすでに狙ってきていたのではないかとも言われていた。しかし、元から拉致を狙っての降参であったならば、叶わなかったとしても政宗を捕らえようと狙うだろう、それにしてはいかにも思いつきの行動ではないだろうか、といろいろと取り沙汰された。
その日政宗はそのころの一時の休息のためにと、14,5里離れた山へ鷹狩りに行かれ留守であった。さて事が終わった後この変事を鷹場へ知らせ申し上げたところ、すぐに高田へいらっしゃり、明日から二本松へ攻めいるとおっしゃった。
しかし、評定衆たちは吉日を選び、改めて出陣した方がいいと言った。ならばと、9日の早朝政宗は小浜へお帰りになった。輝宗の死骸を8日の夜になって小浜に移し、9日に米沢の夏狩の資福寺に入り、虎哉禅師を導師として弔いを行った。その葬礼のとき、遠藤山城基信、内馬場右衛門が殉死をした。またそのとき既に出家して道空と名乗っていた須田伯耆という者が米沢から100里離れた在所にて追い腹を斬った。この道空はさして目をかけられていたわけでもなく、しかも在所での切腹はおかしいと噂した。政宗も不審には思われたのだけども、さすが殉死だと言われると、それぞれ同意した。
またこの遠藤山城基信は元をいうと遠藤内匠と名乗っていて、伊達郡桑折で牢人であった。もともと歌道や数寄にすぐれていた者だったのだが、有るとき基信が余りにも酔っ払っていたときに落馬して刀の鞘を砕いたことがあり、その翌日に、「さるとても昨日の暮の大酒にけふさめ鞘のわれて哀しき」と狂歌を作ったのを、中野常陸宗時が聞き、いつも賢い者であると聞き及んでいたので、召し使おうとして配下の奉公人にした。中野宗時は権勢を誇っていたので、輝宗の前へ基信を連れ出し、宗時が奢りの余りに出仕しなかったときは、この基信を使って様々のことをすませていたので、基信は自然と輝宗と近しくなった。
このようなときに、昔宗時の企てによって晴宗と輝宗が親子で相争ったように、また今回も宗時の企みによって親子の間が不穏になった。この時を見て伊達家に自分が勝ろうと謀叛を企て、伊達家は滅亡の危機に陥りかけた。この時輝宗はこの基信を宗時の所にスパイとしてつけ、基信は賢い者だったので、実元と連絡し、この宗時を実元の居城信夫の大森城へ騙って呼びだし、その後基信の忠実な奉公によって伊達家は長く安定した。なので基信も改名して、内匠から山城と呼ばれるようになり、伊達家の臣下となって殉死まで遂げたというので、比べるもののない忠誠であると人は言った。これは遠藤山城基信の生涯の物語である。
こうして政宗は敵の二本松へすぐさま10月15日に攻めかけたところ、義継領内の本宮・玉の井・布川の者たちも8日の夜に二本松に集まり、二本松譜代の者たちは12歳の子息国王を大将に仰ぎ、義継親類の新城弾正という武名の名高い者を城主と定め、二本松勢は籠城した。伊達勢はこの城へ攻めかけたのだが、内から一騎の武者も一人の兵も出てこず、城は堅固で落ちなかったため、政宗も阿武隈川を越え、前述の高田へ総軍を引き上げ、それぞれ野陣をしいた。
さて成実のその夜の陣屋は二本松の北にあたる、伊保田というところで、高田と比べると各別によい陣屋であった。その理由はどうしてかというと、八丁目城は成実の父実元の隠居所であったので、その用心の為に伊保田には兵を置いていたからだ。なので明日の軍会議のために成実は高田へひきあげ、手勢を伊保田に向かわせたところ、中からこれをみて手勢を出し、合戦となり、双方共に多くの者が討ち死にした。高田の味方勢も是を見て川を越え援軍に来て、城中からきた敵を仮柵まで押しやり、引き分けとなった。
こうしている内に15日の夜亥の刻(午後10時頃)から大風が吹き出し、丑の刻(午前2時頃)より大雪になり、18日まで4日の間昼夜ともに降り続き、馬は歩くことも叶わず、城攻めすることもできないと、同21日に、小浜の城へ引き帰した。
さて雪が積もり年内は戦にならないと判断して、境の手勢たちを残らずお帰しになり、政宗は小浜においてお休みになった。結局明くる天正14年の7月まで、二本松城は堅固に籠城を守った。この理由はというと、そのころ高玉・阿久ヶ島という二カ所は会津(蘆名)の味方であったので、深き山に剃って二本松への通路であった。こちらを攻め配下にしようとおもわれたのだが、そうするとまた佐竹・会津・岩城の三大将に安積表へ出られて、二本松を巻き込み、敵を後ろに安積表に対峙することを心配し、属する城に配慮して手勢を使わし、通路を止めようとなさったところ、敵は高い山よりみれば、その時は通路もなく、手勢を送るときはそれをよく判断し、米なども通ったので、翌年まで堅固に籠城したのである。

語句・地名など:

塩味(えんみ):斟酌すること
台所(だいどころ):普通は炊事場の意味だが、東北方言で囲炉裏の奥の板の間などの意味があるのでそちら?
半切(はんぎり):たらいの形をした底の浅い桶

高田:二本松市平石高田
夏刈:山形県東置賜郡高林町夏刈
伊保田:安達郡安達村硫黄田?油王田?

感想:

畠山義継の輝宗殺害事件についての記事。なぜ二本松がこのような状況になったかの話と事件当日、その後の話を含めて書いています。
『木村宇右衛門覚書』「父輝宗の不慮の死去」も同じ事件の記事ですが、いろいろと興味深い記述があるので、成実の記事ではありませんが、比較のためにいつかupしたいと思います。…いつになるかはわからんけれども…。
『成実記』『政宗公軍記』にも同じ記事があります。成実の書ですが、少々語句が違いますのでそれはいずれ。
輝宗横死といえば、阿武隈川の河畔で「わしを殺せー!」と叫ぶ北大路欣也さんの熱演を思い出すのがある一定以上の年齢の歴史オタクだったりするのですが、…よく見てみると『政宗記』によると、「高田」であって「阿武隈川畔」ではないのです。
そしてこの事件についての詳細は確実にその場にいたと思われる筆者である成実の記述も実は書によっていろいろと違っています。それについて詳しいことはこちら。

「成実三昧」by武水しぎの様:粟の巣の変-輝宗の死をめぐるいろいろ

私も条件のずれや決定権が政宗輝宗どちらにあったか、それの記述の違いなど全く気付いていませんで、武水さんから言われてはじめて気付きました。
個人的にその前は勝手に『成実記』→『政宗記』の順で政宗の賛美のために改めて書かれたと思っていたので、どうしてこうなっているのか、余計わからなくなりました。
また二本松側の記録である『山口道斎物語』との記述のズレや地名のズレもどちらが正しいのかもわかりません。
あと政宗が到着したかどうかの話もですが、政宗が後年小姓に語った話をまとめた『木村宇右衛門覚書』では、政宗曰く「間に合った、下知したのは自分である」旨の内容と、他の家臣達の行動の詳細を言っていますが、『治家記録』『政宗記』では鷹狩りに行っていた政宗は輝宗の死には間に合わなかったと書いています。間に合わなかったけれども、老年期の政宗が「間に合ったことにして」語ったのか、間に合ったけれども正史として「間に合わなかったことにして」記したのかも含め、いろいろと謎の多い事件です。
まあ私は間に合って政宗が下知したと思っていますが…。
あと木村本の政宗の「当時自分は部屋住みだった」発言も気になりますよね。家督継いだのに実権は全部父親で、古い社員達は自分の言うこと聞かないくせに父親の事はきくし、父親のとこに集まるしで、すねて遊びに行ってたら大変なことになってた…的なうっかり事件にも見えてきますし、子供の頃『独眼竜政宗』で見たときは義継が悪者に見えましたが、あらためて見たらアラサーのちっさい子持ちの下請け会社の社長が、新しく就任した主要取引先の若社長が強気でひどい事言ってきて、でも自分の家臣達は自分を信じてくれてて、でおふざけで若社長が自分を殺そうとしてる…みたいな噂きいたらわーってノイローゼになって拉致でも刺殺でもするわ…と義継に同情せざるをえません!(笑)国王丸も可哀想だし! 12歳ですよ! 18歳よりもっと可哀想ですよ!(泣) 可哀想義継さん…。政宗の自業自得感があふれてちっとも同情できない…。下請けの社長の悲哀をまったく考えた事ないお坊ちゃん若社長の失敗にしか見えない…。

まあそんなアホ話はさておいて、この文章気になるのは、成実が終始畠山義継に敬語を使っていることです。
本来ならば憎い敵であるはずで、敬語を使う必要もないと思うのですが、輝宗・政宗に対してと同じように「宣ふ」「給ふ」を使っています。個人的には、成実は畠山義継と接することが多かったからなのか、文体全部にやや同情的な気もしないでもない。
それはもしかしたら、成実の「こちらにも非があった」という気持ちの表れなのかもしれません(勝手な推測)。

【20131014追記】
成実三昧の武水しぎのさんから、成実は畠山義継を奥州諸公の一人として数えているので、反逆されたから・恨みがあるからなどの個人的事情で敬語を変えはしないのでは?という示唆を戴きました。私は石田三成への敬語の変化などから、義継への敬語を変えないことに疑問を抱いたのですが、どうも個人的感情で変えるものではないようです。
ということで私の勝手な(的外れな)推測ってことで。

あと、成実はやはり突如として本筋からずれた話を長々と語り出しますね…(前の小十郎褒めといい、今回の基信語りといい…)そしていきなり話戻すのです…(笑)。なんてフリーダムな人なんだ!(笑)あと記事によって字数違いすぎます! なんて編集*4泣かせな…(笑)。
さ〜て、お次はいよいよ人取橋合戦ですよ!<もっと長い…orz

*1:基信

*2:宗時

*3:史料集版「見はへ」

*4:いたのかどーかしらんけども(笑)