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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』2-4:本宮戦附人取橋合戦

『政宗記』2-4:本宮の戦と人取橋の合戦

原文:

(小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967を主にし、『仙台叢書11』も参考にしました)

去程に佐竹・岩城・会津・仙道の大将衆、日来大内に引合、伊達へ楯を突せ給ふといへども、政宗の鋒には相叶はず、大内も会津へ引退ければ、政宗小浜城へ移し給へば各無念を起し、輝宗死去の折を見合せ、伊達を掠めとらんとて、同(天正)十三年霜月十日に佐竹義重子息の義宣、次男会津の義広、岩城常隆・石川大和守昭光・白川義近(義親)、六大将一和して仙道の須賀川へ打出、安積表の伊達へ一味の城々共へ働き給ひ、あまつさへ中村といふ処落城したりと注進たり。是に依て政宗岩角まで馬を出され、高倉への警固に富沢近江・桑折摂津守(政長)・伊藤肥前(重信)に、旗本鉄砲三百挺差添へ遣はし給ふ。本宮へは瀬上中務(景康)・中島伊勢(宗求)・浜田伊豆(景隆)・桜田右兵衛(元親)、玉の井へは白石若狭(右衛門宗実)を遣はし給ふ。成実をば右にも申す二本松籠城に付き、八丁の目の用心のため未だ渋川(仙台叢書版では沼川)に差置給ふ。かかりけるに、小浜の在陣衆何も無勢なれば、成実には急ぎ参れと宣ふ程に、手勢をば渋川に過半残して、四本松へ廻り、小浜へ参りければ、政宗とくに馬を出され、成実処へ宣われけるは、「無勢故に小浜の留守にも人数を差置給はず、去程に小浜にも成実手勢を残し置急ぎ参れ」との給ふ故に、成実郎等青木備前・内馬場日向を始め三十余騎残し置、跡より参り岩角にて追着奉れば、政宗宣ひけるは、「前田沢兵部も今は早身を持替、佐竹・会津へ一味となる、敵定めて明日は高倉か、偖は本宮へ働くならん、成実には先へ通れ」と宣ふ。畏て成実其夜の陣場は糠沢といふ処なり。されば前田沢兵部変化の者にて、本は二本松一味なれども、義継生害の后は政宗へ申寄り忠節なりしが、今又義重方へ一和したまひ、多勢を以て出陣なれば、伊達を背て佐竹・会津へ身を持替、政宗へは敵をなすなり。同十六日には、敵陣前田沢の南の原に野陣をかまへ、明る十七日には高倉へ働くべしと、御方の各つもりを以て、政宗も岩角から本宮へ馬を移され、高倉への働きならば、本宮の勢をは同所観音堂へ出向ひ、見合次第に高倉へ助させべきとて、本宮の西大田原(仙台叢書版では太田原)に陣を備ふ。本宮は其頃今の南の町境は畑なりしが、小川流れける処外やらひにて内町迄なり、亦観音堂・人取橋も、其のときの海道は今の場より八九丁程西にて、本宮より会津海道の南にあたり、木立のありける処にて、其のときの軍場も今の海道には非ず。されば成実も二ヶ所に人数を残しおき、ようやく七八十騎の体なれども、高倉へ助け入るべきため、海道の山の下に陣を備へ、かかりけるに、敵軍七八十騎を三手に分、三筋に押て通りけるに、高倉に籠りける御方の勢ども、本宮は無勢なれば、是より人数を出し食留めて見度と申す、いやいや大軍なりと云ける者も多かりけれども、富塚近江(宗綱)・伊藤肥前(重信)たとひ押込れけるども、本宮へ通りける軍兵ども、留るべくは出して見度と申す、御方心得たりとて出でければ、案の如く敵退口なりしを、敵亦岩城の荒(新)手を入替、せり合御方の軍兵両小口へ押込れ二三十人討れけり、敵大軍なれば前田沢より押ける人数は、観音堂に備へたる味方の陣と取組、偖荒井より押ける勢は成実と戦ふ。両口での合戦なり。尓るに成実と合戦未だ始まらぬ前に、下郡山内記といふ者成実向の高き処へ乗上軍配を見れば、高倉より白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐彼三人の差物みへて、それへ鎧武者六七騎足軽百余にて本宮の方へ来たる。其後を見れば多勢続きけるを、内記も、敵とは思はず何れの勢ぞと疑ひけるが、敵御方の境のやふにて一町余り隔ちけるを不審に思へば、案の如く其間にて鉄炮を一つ打、其とき内記も偖ては敵味方の境と見届け、山の上より「敵是迄で来たりたるぞ、小旗をさせ」と呼ぶを聞て、何れも差てぞ持掛ける。若狭・伊豆・壱岐三人は、成実備を通り直に旗元へ参る。去程に味方観音堂を出て、太田の原へ備といへども、大勢にて押掛けられ已に芝居を踏へ兼、観音堂を押下られ、茂庭左月(周防良直)を始め百余人討取れけり。尓りと雖も左月しるしはとられずして、味方の陣へ引取けれども、旗本近所まで逃かかり負色にみへける処を、伊達(亘理)元安斎元宗其の子美濃守重宗、同名上野守正影、従弟の彦九郎(国分)盛重、此かたがた政宗親類、偖其外原田左馬介宗長(宗時)・片倉小十郎景綱を始め、場数を引たる歴々者ども、旗本と共に日来の如く芝居を踏しつめける程に、大敗軍はなかりけり。尓る処に成実備へ御方は一人も続かず、左は阿武隈川の大河にて、前田沢より観音堂へ向ひ、太田の原にて合戦の敵を、七町あまり後になして、荒井より又観音堂へ心差、助け来りける敵と成実取組けれども、其年十八歳なれば、何の見当もなき処、下郡山内記乗掛馬の上より、成実小旗を抜き、「観音堂の味方崩れかかって押切けるなり、急ぎ引退き候らへ」とて、抜きたる小旗を小人にしほれとて渡す。敵大勢なる故、大事の軍と味方の者ども見届けれども、流石に爰を引退なば末代迄での瑕瑾ならん、詮ずる所は是にて防戦を遂げ、討死せんと待掛ければ、若狭・伊豆・壱岐三人を追立、山の下まで来りたる敵へ、成実手勢を放しかけければ、敵退口なりしを、成実郎等伊場遠江、其年七十三になりけるが、大剛の者にて真先かけて乗入れ、敵二人に物付して郎等に首取せ、山の南の下より四五町程、人取橋の橋詰迄追付ければ、橋にて返し合せ、亦味方山へ追い上られけるを、同内羽田右馬介敵味方の境を乗分、崩れざる様にと乗廻しけるを、槍持一人進出、乗りたりける馬を突かんとせし処を、取て返され突はづし前へ走りけるを、一太刀に切倒し、郎等に首取せ其身の郎等も一人討て取れ、合戦始りたる本の処へ追付られ、それより亦返し合けるに、同傍輩鉄炮大将萱場源兵衛・牛坂左近両人ともに敵中へ乗入武者二騎づつ、四騎物付して、其より守返し本の橋迄追下しけるに、同内北下野真先かけて追掛ければ、歩者走出乗たりける馬を突れ、下野歩立となり引退ければ、味方又除口なるを、伊場遠江崩れざる様にと人数を打廻し、殿をして味方に余りはなれ過ぎ、況や武者なれば冑を着ては、自由も成らずとて著ざる処を、敵乗かけ首を二太刀切られ、引除けれども、味方軍兵遠江傷手なりと見合せ、それより尚も競喚き叫んでかかり、或は追つ追れつ或いは取つ取られつ散々に戦ひければ、敵悉く敗北して本の橋場へ追付、敵二百五十余人が首を取り、御方も雑兵ともに三十九人の討死なり。尓して後跡の観音堂も物別なれば、成実も人数を打纏ひ、物別れして勝鬨を取行ふ事。不思議の天道にて一芝も取ず、却て勝利を得観音堂同然に引取けるは、実に神意にも叶ひ有難く覚えたり。遠江其場は引退き相果けるなり。去ば右にも申す、下郡山内記、輝宗へ身そば近き奉公にて、其昔相馬陣の折柄も鉄炮を預け給ひ度々の誉ある者なり。尓るに其頃政宗より勘気を蒙り、成実備に居たりけるが、其日も味方後れしときは、馬を立合又守返しけるには、真先蒐て乗込両度物付して、郎等に敵二人首取せ比類なき挊ともなり。其後観音堂の敵引上、高倉海道川切に備を直しける程に、偖ては又一戦あるべきかと心得ければ、政宗備五六丁程隔けるが、其故やらに敵も引上何事なし、御方も無勢なれば、襲はずして引上給へり。此合戦天正十三年乙酉十一月十七日、政宗十九歳の年なり。去程に政宗も阿武隈川の向、本の岩角へ引上給ひ。同十七日の夜に入、山路淡路を使者にて、自筆の御下文されけるを頂戴しけり。「抑今日観音堂に於て戦ひ、敵を後になし荒井より又観音堂へ助来りける大勢と、貴殿小勢を以て合戦に及び、比類なき処却て大利を得名誉の働き、又有間敷と耳目を驚す、御辺一身の扱に依て、諸軍助り喜ぶこと斜ならず、尓と雖ども家中に手負死人数多あるべきこと笑止の至りなり、明日は敵軍本宮へ近陣なすべき由其聞あり、迚も彼地へ出られなば本望たるべし、伊達上野政景へも、其旨同意に申付候、十一月十七日亥の刻、成実参る政宗」とぞ書れける。去程に淡路語りけるは、本宮本陣と聞へけること叶はずして、敵地へ紛れ参りければ、明日は本宮近陣有て、二本松の籠城を引とらんと、敵陣にての評定、彼二人承及夜に入此方へ逃帰り、其旨申上ければ其を聞玉ひての事なり。明日より本宮は籠城にも候べき、其心得肝要なりと申けれども、軍にはし疲れぬ、俄の支度も叶はずして、明る十八日の寅の刻より本宮へ打出けれども、敵の働きをそきに依て物見は付たるかと尋ければ、夜の内より付置たりと申す、然は敵陣にて火の手を上たり、是は陣触ならんと申しければ、付たる物見走帰りて、佐竹・会津・岩城の野陣退散なりと申す、偖てはとて前田沢をもみせければ、一人も残らず前田沢迄引退けり、是に付て政宗又本宮へ馬を移され、よろづ仕置共をし給ふ。爰に旗元の中村八郎右衛門といひけん者、観音堂の合戦に敵中へ乘込、鎧武者二十騎計り斬て落しける故に、御方の者ども五十も百も助けるとて、中村が太刀以の外損したるを、浜田伊豆持て出れば、政宗見たまひ名誉仕えたるものかなとて、四本の松にて加増を賜はる。手柄なりし拝領なり。然して後政宗本宮より岩角迄引込たまふが、敵手立をなして亦も働き有んと、岩角に両日逗留し給へども、敵面々我在城へ引込たりしかば、政宗も其年は小浜へ帰り、越年し給ひ候事。

寛永十三年丙子六月吉日
伊達安房成実

現代語訳:

さて、佐竹・岩城・会津・仙道地域の大将たちは、普段大内に同盟し、伊達と対立していたが、政宗の武勇にかなわず、大内も会津へ逃げ、政宗は小浜城へお移りになったので、それぞれの各大将たちは悔しく思い、輝宗死去の時期を見て、伊達領をかすめ取ろうと、天正13年11月10日に佐竹義重の子義宣、次男の義広、岩城常隆、石川昭光、白川義親の六大将は一緒に中通りの須賀川へ出陣し、安積表にある伊達勢の城へ先頭を仕掛け、あまつさえ中村という城が落城したと報告が入った。
このため政宗は岩角まで出陣し、高倉城の警固に富沢・桑折・伊藤に旗本鉄砲衆を300挺添えて送った。本宮へは瀬上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛を、玉の井へは白石若狭をおつかわしになった。そのとき成実は前回言った二本松の籠城戦に際して、八丁目の用心のため未だ渋川城にさしおかれていた。
小浜に駐屯している勢が少ないため、政宗は成実に急いで参上しろとおっしゃったので、渋川に手勢の半分以上を残し、四本松へ廻り、小浜へ参上すると、政宗は急いで馬を出され、成実の所へ参上し(以下のように)命令した。「人が足りないので小浜の留守にもあまり多くの兵を置けなかった。なので小浜にも成実の手勢を残して、早く来て貰いたい」とおっしゃったので、成実の家臣青木肥前・内馬場日向を始め30余騎を残して、あとから追い掛け岩角で追い付き申し上げたところ、政宗は「前田沢兵部もまた裏切り、佐竹・会津と同盟を組んだ。敵はきっと明日は高倉か本宮へ戦闘を仕掛けるだろう。成実は先に通れ」とおっしゃった。謹んで承り、成実のその日の陣場は糠沢というところになった。
ところで前田沢兵部は何度も態度を変える人間で、元は二本松と同盟関係にあったのだが、義継征伐の後は政宗に味方し、忠節を誓っていたが、いままた義重の方へ味方した。(佐竹・会津が)多くの兵を率いて出陣したので、伊達に背き、佐竹・会津へ寝返り、政宗に敵対した。
同16日には、(政宗勢は)敵前田沢兵部の陣がある太田原の南の原に野陣をかまえ、明くる17日には高倉へ戦闘を仕掛けると、政宗の意図によって、岩角から本宮へ移動し、高倉への戦闘があるならば、本宮の手勢を本宮観音堂へ出させ、様子を見て高倉へ助勢させようと、本宮の西大田原に陣をそなえた。
本宮はその当時今の南の町境は畑であったが、小川が流れていたところは外囲いになっていたので内町までであった。また観音堂・人取橋も、そのときの街道は今の場所より8・9丁ほど西であって、本宮から会津街道の南にあたり、木がまとまって生えているところがあったので、そのときの軍場も今の街道の場所ではなかった。
さて成実も二カ所に手勢を残し置いて、かろうじて7,80騎という状態であったけれども、高倉へ助勢するため、街道の山の下に陣をそなえた。このとき敵軍は7,80騎を三つに分け、三方から強いて通ろうとしたところ、高倉に籠もっている味方勢は、本宮は人数が少ないため、高倉から兵を出して、食いとどめたいと思うと言った。いやいや大軍であるといった者も多かったけれども、富塚近江・伊藤肥前は、たとえ押し込まれたとしても、本宮へ通る軍兵たちを留めることができるぐらいは出してみたいと言った。政宗は了解したと言って、出させたが、予想の通り、敵の撤退口であったところを敵はまた岩城の新手の兵と入替、競り合いしていた味方の軍兵は二つの小口へ押し込まれ、2,30人が討たれた。敵は大軍であったので、前田沢から押してくる兵は観音堂にそなえていた味方の兵と戦い、荒井から侵入してきた兵は成実と戦った。両方面からの同時の戦となった。
さて合戦が始まる前に、成実と下郡山内記という者が成実陣の正面の高いところへ乗り上げ、軍の配置を見たところ、高倉から白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐三人の差物が見え、それに鎧武者6,7騎足軽100余りが本宮の方へきた。その後ろを見れば大軍が続いていたのを見て、内記は敵とは思わず、どこの兵かと疑ったのだが、敵と味方の境のようであり、1町とちょっと離れているのを怪しく思った所、思った通りその間で鉄砲が一度放たれた。そのとき内記はそれが敵味方の境目であると見届け、山の上から「敵がここまできているぞ、小旗をさせ」と言うのを聞いて、皆さしていた小旗を持ち掛けた。若狭・伊豆・壱岐の三人は成実の備を通り、直接政宗の旗の下に参上した。
なので味方は観音堂を出て、大田原で陣を引いていたが、相手が多勢であったので、すでに戦闘場所を抑えかね、観音堂をとられ、茂庭左月を始め100人余りが討ち取られた。しかし左月は首をとられることなく味方の陣へ引き取ることができたのだが、政宗の配下近くまで兵が逃げ懸かり、配色が濃厚になったところ、亘理元安斎の子美濃守重宗・上野守政景・従弟の彦九郎盛重――これらの方々は政宗の親類である――とその他原田左馬助宗時・片倉小十郎景綱を始め、場数を経験している歴代の家臣たちが旗本と共に普段のように奮闘し、陣を引かないように踏ん張ったので大きく負けた戦はなかった。
このようなとき、成実勢へ味方の兵はひとりも続かず、左は阿武隈川の大河があり、前田沢から観音堂に向かってきて、太田原にて合戦していた敵を、7町あまり後ろに後退させ、荒井からまた観音堂に向かい、助けに来た敵の援軍と成実は合戦となった。
そのとき成実は18歳であったので、全く何の予測もできずにいたところ、下郡山内記が近寄り、馬の上から成実がもっていた小旗を奪い取り、「観音堂の味方は崩れかかって押し切られております。急いで退きください」と引き抜いた小旗を小者にとれと渡した。(成実が)敵は大勢であるので、大変な戦であると味方の者たちは判断したのだけれども、さすがにここで退いたのでは末代までの恥となるであろう、なすべきことはここで防戦をはたし、討ち死にすると提案したところ、若狭・伊豆・壱岐三人を追いたてて山の下までせまってきた敵へ、成実は手勢を向かわせた。すると敵が陣地を退却しようとしたのを、成実の配下の伊場遠江という当時73歳であったものが、大変武勇すぐれた者だったので、一番始めに乗り入れて、敵二人にとりかかり、郎等に首をとらせた。山の南の下から4,5町ほど、人取橋のたもとまで追い付いたところ、橋のところで敵が引き返して、また味方が山へ追い立てられた。それを同じく成実の家臣である羽田右馬介は敵味方の境を分けるように走りぬけ、崩れないようにと走り回っていたところ、敵の槍持ちのひとりが進み出、羽田が乗っていた馬を突こうとした。羽田はとって返し、突きそこねて前へ走ってきた槍持ちを一刀両断に切り倒した。配下の者に首をとらせていたところ、またその郎等もひとり討たれた。合戦のはじまった元の場所に戻され、そこからまた押し返したところ、同じく成実の配下の鉄砲大将である萱場源兵衛と牛坂左近の二人が一緒に敵の真ん中へ乗り入れた。武者が二騎ずつ二人に取り付き、四騎を討ち取って、そこから守返し、元の橋の所まで追いやった。同じく成実の家臣である北下野が真っ先に走り抜けて追い掛けたところ、走り出てきた徒ノ者に乗っていた馬を突かれ、下野は歩いて退却した。味方はまた退却しなくてはいけないかとなったところ、伊場遠江が崩れないようにと兵をまわさせ、しんがりを務め、味方から少し離れてしまった。伊場は鎧を着ては自由にならないといって、甲冑を着けずにいたところを敵に乗りかけられ、首を二太刀切られ退いたのだが、味方の兵は遠江が怪我をしたと判断し、それ以後もなお競って喚き叫んでかかり、また追いつ追われつ、取りつ取られつ激しく戦ったところ、敵はことごとく敗北し、元の橋のたもとへ追いやられ、敵250余りの首を取った。味方も雑兵含め39人の討ち死にがあった。そしてしばらく後、観音堂の戦も終了となったので、成実も手勢をまとめ、決着の付かないまま終わり、勝ち鬨をおこなった。
不思議な天の摂理によって、一カ所の土地も取られず、かえって勝利を得、観音堂のように引き下がられたことは、本当に神の意志に従い、有り難いことであると思ったものだ。遠江はその場は退いたものの、命を落とした。先ほどいった下郡山内記は元々輝宗の側近く仕えていた者で、その昔相馬との戦においても鉄砲を預けられ度々手柄を立てた者である。しかしその後政宗から怒りを買い、成実の家臣になっていた。その日も味方が遅れそうになった時は、馬を乗り合わせ、また守り返すときには真っ先にかけて乗りこみ、二度も討ち取り、郎等に敵の首を二人取らせ、比べるもののない手柄を立てた。そのあと観音堂の敵が引き上げ、高倉街道の川端に陣を立て直したところ、また一戦あるかと覚悟していたところ、政宗の陣が5,6丁ほど隔てていたが、そのためか敵も引き上げ、何事もおこらなかった。味方も少なかったため、襲撃は止めて引き上げた。この合戦は天正13年11月17日、政宗19歳の歳のことであった。
政宗も阿武隈川の向かい、もとの岩角へ引き上げなさり、同じ17日の夜になって、山路淡路を使者に、自筆の下文をいただいた。
「さて今日あなたは、観音堂に於いて戦い、敵を退却させ、荒井からまた観音堂へ援軍にきた大軍と、少ない手勢を率いて合戦となり、比べるもののない大変な戦となったところ、かえって大勝を得る名誉の活躍をし、あるまじきものであるとみな驚いた。あなたひとりの活躍によって、諸軍は助かり、この喜びは尋常ではない。しかし、家中に負傷者が多くあり、大変だったことと思います。明日は敵軍が本宮近くに陣を展開するであろう報告があり、どうか彼の地へきていただければ嬉しく思います。伊達上野政景へも同様に申し付けました。11月17日亥の刻 成実へ政宗差し上げる」とお書きなさったのである。
淡路がいうには、本宮が本陣になると聞いたが、それが不可能になり、敵地へ紛れて入ったものが、(連合軍が)明日は本宮に近陣し、二本松の籠城軍を救出しようと、敵陣で評定しているのを聞いた二人が、夜になって伊達軍に逃げ帰ってその旨を申し上げた。政宗はそれを聞いてのこと(成実への要請)であった。明日から本宮は籠城をするであろうから、その覚悟はしなくてはいけないと言ったが、戦にするには疲れてしまっており、突然の用意もできなかった。明くる18日の寅の刻(午前3~5時)から本宮へ出たのだが、敵の働きを退けるために物見はついているかと尋ねると、夜の間から置かれていたと返答があった。なれば敵陣にて火の手を上がったならば、これは陣触であるだろうといったところ、見に行った物見が走り帰って、佐竹・会津・岩城の野陣が退散したと言った。前田沢にも物見を使わすと、前田沢も一人も残らず退いたということだった。なので政宗は本宮へ陣を移し、すべての仕置きなどをなさった。
旗本の中村八郎右衛門というものが、観音堂の合戦に於いて敵中に乗りこみ、鎧武者を20騎ほども切って落とし、味方を50も100も助けたといって、非常にぼろぼろになった中村の太刀を浜田伊豆が持って御前に出たところ、政宗はこれを見、大変に名誉な者であると感動し、塩松にて加増を賜った。手柄故の拝領である。
その後政宗は本宮より岩角に移動したが、敵がまた襲ってこないかと警戒し、岩角にしばらく逗留したのだが、敵はそれぞれの在城へ戻ったので、政宗もその年は小浜城へ帰り、年を越したのであった。

寛永13年6月吉日
伊達安房成実

語句・地名など:

退口(のきくち):陣地をすてて退却しようとする時、退却の際。

感想:

本宮合戦こと人取橋合戦の記事です。な、長かった。
訳出、ところどころ間違ってると思いますが、間違いに気付かれましたらコメント・メルフォなどで御指摘お願いいたします。
バリエーションである『政宗公軍記』では「(人取橋)合戦の様子、細には記さず候。荒々書き付け候」とかかかれて肝心の戦の展開かいてなかったりするのですが、『政宗記』では詳細を書いてくれています(笑)。ふ、フリーダムだぜ成実様…!!(額に汗)えっちょっそこ書いてくれないの!? 書いてよ!って感じです。
下郡山内記とのやりとりや伊庭(野)遠江の奮闘・左月の死に様など、おなじみの人取橋合戦の様子が語られています。
また成実の「退くくらいならここで討ち死にする!」もいいですね…。このときの政宗から賜った感状(山路が持ってきた慰労の書状)が出奔帰参を経て、今に伝わっているのがまた感動です。
まあ佐竹・蘆名諸連合軍はこの戦にそれほど本気でなかったらしいですが、伊達家にとっては最大のピンチだったのでしょう。死にものぐるいで奮闘してたらいつのまにか終わった感じ?
またこの際『木村宇右衛門覚書』による政宗川ぽちゃエピソード*1があるのですが、それは別の項を立てて書きたいと思います。あの成実かっこよすぎて死ぬ(私が)。あのエピソード政宗の名誉のためには広言しない方がいいエピソードだと思いますが(笑)、木村くん記してくれてありがとう…!(≧▽≦)

*1:馬が川に落ちちゃってさあ困った大変という例のエピソードです