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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』3-2:二本松内通附政宗病気並出城之事

『政宗記』3-2:「二本松の内通、政宗の病気、そして小浜を出たこと」

原文:

(小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967を主にし、『仙台叢書11巻』も参考にした)

同十四年丙戌二月、二本松籠城より三野輪*1玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・同名下総・堀江越中、五人の者ども逆心して政宗へ内通あり。夫をいかにと申すに、三野輪屋敷は地形も好くたとひ城を取り給ふとも勝手なれば、伊達勢三野輪屋敷へ引込忠節せんとて、右の者ども、面々人質を差上る故に、軍兵ども遣はし給ふ。されば残る四人の屋敷は、城下にて少しなりとも人数を抱ひける事相叶はざる程に、四人の者には妻子郎等ともに、三野輪屋敷へ取込詰りたる処にて、伊達勢こね合弓鎗を取廻すことも叶はず。かかりけるに、三野輪は本城と栗か作との間なれば、自然に栗か作も忠節ならば、急にはなくとも末には落城危き処に、彼地に籠城一味にて知合、其日の寅の刻より玄蕃屋敷を攻ける程に、こらへかね引除けるに、屋敷口計を出かね屏を破り、険難の処より人に人落ちかさなりて、男女四五十人踏殺され、城は堅固に相抱へけり。かかりけるに、其頃政宗煩ひ給ひ、二本松へ働き給ふも相延、同年の四月始めに馬を出され、近陣と思はれけれども、其儀ならば去年の如く、佐竹・会津・岩城より安積表へ打出給はん、其ときは城を巻ほこし安積へ出てらるべきこと気遣ひ給ひ、近陣をば遠慮ありて北東南三方より五日働き給へとも、城内より一騎一人も出合す、やらいかかりは二三度ありけれども、城よかりければ攻給ふことも成難く、先小浜へ引込給ふ。尓る処に相馬義胤、実元を頼み、二本松籠城の者ども出城を扱ひ給はん、政宗への使ひ申せと宣ふ。実元久しき病気なれども、頻りに頼み給へはわりなく、居城八丁目より小浜へ参り無事の使を申す。別に題目といふこともなく、籠城相除れ、二本松一宇手に入られ候へと扱ひ給へば、政宗納得し給ふ。是に依て同年の七月六日に、本丸許りを自焼にして、何も会津へ引退。扨地下人共は思ひ思ひに方々へ引除けり。故に彼の城を成実に受取給へと宣ふ程に、其日に渋川より打越、本丸に仮屋を立移しければ、政宗同二十四日に小浜より馬を出され、城中見物ありて万づ仕置どもし給ひ、小浜へ帰り、其れより伊達の士大将、或は小身に至るまで知行割の事。
一、四本松の小浜をば白石若狭*2拝領、残る処は中身小身何れも加増に給はる事。
二、二本松をば成実拝領、成実跡信夫の大森をば片倉小十郎景綱に給はり、同年の八月始に米沢へ帰陣し給へ、安積表は先無事の分にて、往来の者も送りを以て通りける事。

現代語訳:

同天正14年2月、籠城戦が続いていた二本松城から箕輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・遊佐下総・堀江越中の5人が反逆して政宗に内通した。どうしてかというと、箕輪の屋敷は地形がよく、城を取るときに勝手がよいので、箕輪屋敷へ伊達勢を引き込み寝返ろうとして上記の者たちはそれぞれ人質を差し上げたため、政宗は軍兵を箕輪屋敷に遣わした。残る4人の屋形は城下に手勢を招き入れることができなかったため、4人は妻子郎等とともに箕輪屋敷へ詰めていたので、伊達勢は人であふれて弓槍を振りまわすこともできなかった。箕輪屋敷は本城と粟か柵との間であり、粟か柵の者も自然と寝返るだろうから、今すぐではなくてもその内落城するだろうという頃に、その日の寅の刻(午前4時頃)籠城勢が玄蕃屋敷を攻め、箕輪一派はこらえきれずに退こうとしたところ、屋敷の出口をで損ねて、屏を破り脱出しようとした。地形が非常に危ないところであったので人の上に人が落ち重なって、男女4,50人が踏み殺され、二本松の城は堅固に守られていた。
そうしているうちに、政宗が病を得たため、二本松への出兵も延期した。この年の4月始めに出馬し、近くに陣を引こうと思っていたのだけれども、去年のように佐竹・会津・岩城から安積方面へ攻めあがるだろうから、そのときは城から出て安積へ出陣するだろうことを気遣い、陣をひくことをよく考え、北・東・南の三方から5日間圧力をかけたけれども、城の中から一騎も一兵も出てこなかった。矢を打ちかかることは2,3度あったのだけれども、城がよいため安易に攻めることも難しく、先にまた小浜へ引き上げなさった。
そうこうしているうちに、相馬義胤が実元を介し、二本松の籠城兵の出城を調えようと、政宗へ使いを送ってきた。実元は長らく病であったのだが、義胤が頻りに頼むので仕方なく、居城の八丁目から小浜へ来て、無事遣いの役目を果たした。特に条件というものはなく、籠城戦は逃れ、二本松一円を手に入れられると取り決めがなったので、政宗は納得なさった。
この取り決めによって、同年(天正14年)の7月6日に本丸だけを自ら焼かせ、籠城兵はみな会津へと退いた。領民たちもそれぞれ自分の土地へ退いた。なのでこの城を成実に受け取りに行けとおっしゃったので、成実はその日に渋川からやってきて、本丸に仮屋を立てたところ、政宗は7月24日に小浜から来て、城の中を見物し、様々の仕置を行い、小浜へお帰りになった。その後伊達の侍大将たち、または少禄の者たちに至るまで知行割があった。
・塩松の小浜を白石若狭宗実に拝領、残りの者も何れも加増たまわること。
・二本松は成実が拝領し、成実が以前拝領していた信夫の大森城を片倉小十郎景綱に給わり、天正14年8月始めに米沢に帰るため、安積表は安全な土地となるので、往来する者も送り状を持っていれば通ること。

語句・地名など:

感想:

二本松平定の顛末。病床の実元の、病をおしての登場です。安積地方においての実元の存在の大きさがわかるエピソードです。相馬義胤の要請とはいえ、全然隠居してませんよね…。実元は翌年逝去しますが、わりと長患いだったようですね。癌とかだったのでしょうかね…?
成実はこの後二本松を拝領し、秀吉の奥州仕置による伊達家の配置替えまでの間、二本松城主となります。
成実が生まれた小十郎は大森城主(これもだいぶ大抜擢ですよね…!)に。

*1:箕輪

*2:右衛門宗実