[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』115:伏見城の再普請

『伊達日記』115:伏見城の再普請
(番号、タイトルは便宜上つけたものです)

原文:

一慶長元年、太閤様伏見の向島と申処に、御城御構候。御普請過半出来候処に、閏七月十二日夜半時分、大地震にて、御城の天守、御殿共に破損し、御城の内にて男女五十人余打殺され候。向島は宇治川立廻地形下所にて候故、猶以普請衆余多越度申候。秀吉公此城御立候共然有間敷思召され、同廿二日に小幡山を御覧に成られ、御城に成されるべき由仰せ出され候。大名衆御馬廻小身衆迄組々をなされ、極月晦日を切に御移徒成られるべき由にて、夜を日についで御普請いそぎ申され候。地震ほどおそろしき事は之無き由御意にて、御殿の柱二本は石次へ、三本目は地へ五尺計ほり入、上道具も方々をかすがへにてしめ、兼ねての御作事とかはり、地震の御用心第一に候。

語句・地名など:

現代語訳:

慶長元年、太閤秀吉様は伏見と向島という所にお城をお構えになっていた。普請が半分過ぎまで出来たところに、閏7月12日真夜中ごろに、大地震がおこり、お城の天守、御殿ともに破損し、お城の中で男女50人余りが打撲によって死亡した。向島は宇治川の廻りの地形で、地形が低いところであったので、多くの普請衆は多く変えたいと思っていた。秀吉公はこの城を建てたいと思われたが、仕方ないと思われ、同22日に、小幡山を御覧に成られ、新しい城にするべきと言い始められた。大名集御廻り衆まで組み合わせを決められ、12月晦日を区切りに、引っ越しをするとお決めになったので、昼夜を通して普請を急ぐよう仰られた。地震ほどおそろしき事はないとお思いで、御殿の柱は二本は石をつぎ、三本目は地へ五尺計りほりいれ、上の道具も方々をかすがいにしてしめあげ、それまでの工事と変わって、地震の用心が第一となった。

感想:

慶長元年(1596)伏見においての大地震について触れた記事です。
向島にあった伏見城内だけで倒壊によって五十人以上の死者がでたこと、それにより、向島から小幡山に移ることがきまり、昼夜を通して工事が進められたこと、また耐震性を高くした工事が行われたことが書かれています。
この記事でなんとなく気になるのは、成実の(わりと強い)土木への興味でしょうか。もちろん作事は重要な武将のお仕事ですが、真っ先にそれのことを書くのが不思議だなあと思って。
あと、成実の出奔については文禄4年頃?説と慶長3年頃?説が長年ありますが、最近はこの記事及び次の記事のこともあり、慶長3年頃だろうというのが研究者の間では定説になっているそうです(またぎきなので他の論拠についてはそんなにしりません)。