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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』9-3:向島御建立の事

『政宗記』9-3:向島の伏見城建立のこと

原文

慶長元年丙申の二月より、太閤秀吉、伏見の向島に城を構へ、御本城より橋を渡し、往来ありて御慰所と取立給ひ、御普請過半出ける処に、頃は閏七月十二日の夜半許に、大地震夥しうして、天守を始め御殿共をゆり崩し、城内の男女五十余人家に打れて死しけるなり。惣じて此島は宇治川取廻し、地形窪かりければ、石垣をゆり普請小屋の者ども迄も、数多相果けるなり。然るに、彼島御再興有ても然有まじくとやおぼしけん、同七月二十日に、木幡山を城にと見立給ひ、諸大名衆は申に及ばず、旗本或は小身・小人・中間・小者に至る迄、組をなされ大石くり石地形を引き、扨御殿面々様々請取の御普請にて、当十二月晦日を切に移し給ふべしと上意なれば、夜を日につひで急ぎ給へり。地震程危きことはあらじと宣ひ、御殿の柱も二本は礎、三本目は五尺余りに掘立、上の道具も方々はすがひにてとぢ付、日来の御作事には違ひ、今度は専ら地震御用心なり。然して御普請急ぎ給ふ故、日々に出御遊ばし、思召の外果敢行きたる役処へは御褒美の上意なれば、何れも忝きとの御ことなり。同十月、漸寒気の始め寒へて大儀なるに、風を防ぐために紙子を取せ給はんとて、長持ちへ御持せ町場を廻り給ひ、諸大名衆へ御手移しに下されけり。中にも政宗は至て物数寄なればとて、襟には紺地の金襴、袖は染め物に摺箔、裾は青地の緞子、方々を別になされ拝領し給ふ。又呉服拝領の族もあり。されば、其頃政宗より、大坂御上下の召舟を仕立上られければ、御感の由にて、光忠の御腰物を拝領し給ひ、翌日秀吉公御普請場へ出御の砌、彼御腰物さし、我が役所の前にて御目見し給ひければ、「昨日政宗に刀を盗まるるなり、取返せ」と御諚にて、御小姓衆四五人取かかりけるを、打払ひ十余間逃し給へば、「盗賊なれども御赦免なり、是へ参れ」と宣ひ、色々忝き上意どもなり。有とき又盆盒に御所柿を持せ給ひ、諸大名衆へ小手移しに下されけるに、「政宗は物数寄なれば、大なるを望み給はん」とて、盒の中を御取り返し、「是より大きなるはなきぞ」と宣ひ、拝領し給ふ。近き役所の大名衆、各是を見給へ「遠国の人にて、漸く四五ヶ年の奉公なれども、御前世に勝れ御懇ろ冥加人なり」との風聞なり。

地名・語句

現代語訳

慶長元年(文禄五年)の二月から、太閤秀吉公は伏見の向島に城を構え、本城から橋を渡し、往来して休憩所としていたのであるが、普請が半分以上できたところに、閏七月十二日の夜中あたりに、夥しい大地震が起こった。天守を始め御殿などが揺れによって崩れ、城内にいた男女五十人以上が家につぶされ打撲によって死んだ。だいたいこの島は宇治川にとりかこまれ、くぼんだ地形であるので、石垣が揺れ、普請小屋の者たちまでも多くが死んだ。
なので、この島の再興をするにしても、以前のようではいけないとお思いになったのだろう。同七月二十日に木幡山を城にと見立てなさり、諸大名衆はいうに及ばず、旗本、または小身のもの、小人・中間・小者に至るまで、組をお作りになり、大きな石、くり石、地形を引き、御殿のそれぞれを分担して工事をし、その年の12月晦日を境に引っ越しすると御命令になったので、昼夜を分かたず工事をお急ぎになった。
秀吉公は地震ほど危険なことはないとおっしゃり、御殿の柱も二本は礎にし、三本目は五尺余り深く掘って立て、上の調度もほうぼうかすがいを用いてとじつけられ、日ごろの工事とは違い、今回は専ら地震を用心された作りとなった。
こうして工事をいそぐため、秀吉は日々御出になり、予定より捗ったところの者には褒美をくださるとの御命令であったので、みな恐れ多いと思ったことであった。
同じ年の10月、だんだん寒さが出始め、苦労していたところ、風を防ぐために紙製の衣服をやろうと、長持ちへ持たせて受け持ち場所をめぐりなされ、諸大名衆へ手移しでくださった。
中でも、政宗は大変変わったものが好きであるからといって、襟に紺地の金襴(金の糸で文様を織り出した織物)、袖は染め物に摺箔(金箔をすりつけたもの)、裾は青地の緞子、などなどをそれぞれの機会に拝領なされた。また呉服をいただいたものもいた。
またそのころ政宗から、大坂の上下移動に使用する舟を献上したところ、大変喜ばれ、光忠の腰の物をくだされた。翌日秀吉公が普請場に来られた際、この腰の物をさし、分担された普請場のところで面会したところ、秀吉は「昨日政宗に刀をぬすまれたのだ。取り返せ」と御命令になり、小姓衆が4,5人政宗に取り掛かった。政宗はそれを打ち払い10間余りお逃げなさったので、「盗賊であるが、許してやる、ここへ参れ」と仰り、いろいろもったいないお心をくださった。
またあるとき、盆皿に御所柿をお持たせになり、諸大名衆に手渡しでくだされていたとき、「政宗はめずらしいものが好きだから、大きいものを欲しがるだろう」と、皿をひっくり返し、「これより大きいのはないぞ」と仰り、政宗にお与えになった。分担が近い場所にあった大名衆はそれぞれこれを御覧になり、「遠国の者で、まだ仕え始めて4,5年であるのに、これほどなのは、前世でもすぐれて懇ろであった神仏の加護があった者なのだろう」と噂になった。

感想

先日アップしました『成実記』110:伏見嬢の再建・111:秀吉の贈り物と対応する記事です。こちらの方がわかりやすくなっています。
秀吉の人心掌握術の見事さと、政宗の気にいられているさまを自慢する記事でありますが、詳しい筆致に情景が浮かぶようです。
ここで文禄5年(慶長元年になったのは10月27日から)閏7月12日(1596年9月5日)夜に発生した慶長伏見大地震の詳細が書かれています。
Wikipedia:慶長伏見地震の項
この地震の数日前に伊予地震・豊後地震が立て続けにおこり、群発地震であったという推測がなされているようです。
成実の記述にあるように、かすがいを用いて調度品を押さえたこと(今で言うところのストッパーですね)・五尺(150センチ以上)も深く掘り下げ、柱を支えたことなどがかかれ、地震対策が講じられた城工事だったことがわかります。
成実ははるか後、江戸城の普請工事(元和6年天下普請)にも参加しています。この時の地震対策なども参考にしたでしょうか?