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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』12-2:療治附将軍出御事

『政宗記』12-2:病気の治療と、将軍家光お成りについて

原文

去程に、五月二日の卯の刻より、半井驢庵法印療治し給ふ。爾と雖も、段々日を重ね疲労し給ひて、食も一円進まず、腹も張出以ての外なる病体なり。故に御懇衆は申に及ばず、日々夜々の上使なるを、逝去有べき五六日まで上下の装束にて表に御坐す。公方への御請、扨見舞給ふ大身小身の嫌ひなく、各対面有て御礼に及ばれけり。是に仍て家督の忠宗、並びに土井大炊頭(利勝)、其外御懇の御方各「休息をも遊ばさで、表におはすこと、去とてはにあわず」との御異見なれども、「今度計の名残に、せめて手足の叶ふ迄、首尾合せ候では」と宣ひ、今度の上り土産或は馬、彼是に至る迄兼の如く、其々に其方此方と気遣ひ給ふ。爾るに、腹の張以の外強くなり、弥増に疲れ給ふこと、上聞に達しければ、至ての御動転、即土井大炊頭・酒井讃岐守(忠勝)上使にて、御典薬衆は申に及ばず、諸大名衆家来迄も、名を呼ぶ程の医たる者をば、政宗屋敷へ召集め、御両使の御前にて脈をみせ、道三法印・驢庵法印、上座下座に至る迄、病症の見立、配剤並療治の手立て、御両使の御前へ入札の中に、道三法印の見立替りければ、幸いとのことにて、今より道三の療治になる。扨転化の御政、真に医の集り、其のみならず様々忝き上意ども、古今稀なるべしと有難く各感じ奉る。況や政宗老病なれども、いかにも今度計は定業を逃れ、浅からぬ御礼をと思はれけれども、日を重強く成腹の張こと、縦へば指にて押ばすべりて立たず、其より下は骨計に成給ふ。其旨上聞に達されければ、五月二十日の夜に入、土井大炊頭・酒井讃岐守、忠宗方へ御内証、其上能く二十一日卯の刻に柳生但馬守・内藤外記上使にせしめ、「公方家光公今日如何にも、密かに御忍び成せ給ひ、病体御覧候らはん、左も有ときは家来の者も、だれやの人も一円存ぜぬように」と宣ふ。斯て政宗此義を宵より聞給ひ、其夜を明し兼給ふ。かかりけるに、御両使よりの御左右に仍て、即ち表へ出給ふ。行水月代髪を結せ、肌に袷上に帷子上下の装束、誠に苦しげなる有様尽くし難きことどもなり。爾して後将軍(家光)公其日の未の刻に政宗上屋敷へ成らせ給ひ、直に御通り、不断の居間迄出御成て常の畳へ直らせ給ふ。其とき政宗寝室より出られけるに、右の手をば大炊頭、左は但馬守、腰をば讃岐守立、御座敷へ出給ふと、其儘公方政宗側へ打寄せ給ひ、「若干大事の由其聞へ有に、軽く相みへ御感の旨なり、爾りと雖も今養生第一なり」との御諚にて、家来共まで召出され「陸奧守(政宗)療治今肝要のときなり、汝ども必油断有間敷」と上意なれば、政宗謹て「年に不足も候はで、命の惜う候も日来の御情だにあるに、病状有難き御恩賞、後の世迄も争で忘れ候べき」と申し、「縦ば定業たりといふといへども、今度計りは逃れ一端を聊の御礼を申上度願、他事無き」とてひたもの落涙し給へば、家光公「軈て平癒疑いなく、快気の上態一服所望して、目出度祝ひ申さん、何に付ても養生のこと必気遣有間敷」との御状にて、御座を立せ給ひ、次の間へ出御有て、「如何に忠宗、扨政宗病気音に聞き給ひしより、今御覧じて御肝をつぶされ、是非なきことなり早療治成難く定めて程有間敷、其方心中御推察歎のことは御同意なり、明日に政宗死去なりとも、我有る間は心安かれ」との上意にて、還御遊し候事。

地名・語句など

一円(いちえん):(否定の語を伴って)一向に、更に、少しも
定業(じょうごう):人間として決まっている死の業因。

現代語訳

そうこうしているうちに、5月2日の卯の刻(午前6時ごろ)から、半井驢庵法印が治療なさった。しかしながら、段々日を重ね、疲労がたまっていき、食も一向に進まず、腹も張り出し、重体となった。
なので、御懇衆はいうに及ばず、毎日毎夜の上使があったのだが、逝去なさる5、6日前まで裃の装束で表にいらっしゃった。将軍家光の使いへの対面、また見舞い下さる大小の大名の皆様の区別無く、それぞれ対面なさり、御礼に及ばれた。このため、跡継ぎである忠宗、また土井大炊頭利勝・そのほか常に親しくしていただいている皆様がそれぞれ「休息もせずに、表にいることはよくない」と御意見なさったのだが、「今回限りの名残に、せめて手足が動く間は、このようにさせてくださいませ」とおっしゃり、今回差し上げる土産、或いは馬など、あれこれに至る迄「このように」「そちらへはそのようにこのように」と気遣いなさった。
しかし、腹の張りは著しく強くなり、一層お疲れであることが将軍家光に伝わったので、動転なさって、土井大炊頭・酒井讃岐守の二人をおつかわしになり、将軍付の医師衆はいうにおよばず、諸大名の家来までも、有名な医者を政宗屋敷へ集めさせた。両使いの前で脈を見せさせ、道三法印・驢庵法印や高名な医師からそれほど身分の高くないものまで含め、病床の見立て、薬と治療の手立てなどを入れ札させたところ、道三法印の見立てが変わっていたので、幸いと言うことでこれから道三の治療方針に切り替えた。この家光のお計らい、医師達の集まり、それだけでなく多くの恐れ多い御命令の数々は、昔にも今にもまれなことであると皆それぞれ有難く感動いたしました。
政宗も、老病であるが、今回ばかりは死ぬべき定めから逃れ、深い御礼をしたいと思われてなさったけれども、日を重ねてどんどん腹の腸満が激しくなっていき、たとえば、指で押せばすべって立つことがなく、腹より下は骨ばかりになってしまわれた。
そのことが将軍家光の耳に達したので、5月20日之夜に入って、土井・酒井の両使いが忠宗の所へ内密に参り、その上改めて21日の卯の刻(午前6時ごろ)に柳生但馬守・内藤外記を使いとし、「将軍家光、今日どうしても密かにお忍びになられ、病体を御覧になる。そのときは家来の者も、どの人間も全員知らぬようにせよ」と仰った。
政宗はこのことを夕方からお知りになり、その夜寝ずに過ごした。。そうこうしているうちに両使からの知らせによって、すぐに表座敷へおいでになった。
行水し、月代をそらせ、髪を結わせ、下着に袷、上着に帷子を着、上下の装束を身につけられた。その苦しげなようすは、まことに言葉につくしがたいほどであった。
そして将軍家光公はその日の未の刻(午後2時頃)に政宗の上屋敷にお成りになった。政宗はじかにお歩きになり、不断の間までおなりになって、普段の畳へお座りになった。そのとき政宗は寝室から出られるとき、右手を大炊頭、左手を但馬守、腰を讃岐守に支えられ、御座敷へ出られると、そのまま家光は政宗の側に近寄り、「病気がすこしおおごとであるときいたのだが、軽く見え、よかった。とはいえども、今は養生が第一であるぞ」との御命令にて、家臣達をも召し出され「政宗は今治療が大切なときである。おまえ達も絶対に油断せぬように」と御命令であったので、政宗は謹んで「死ぬのに不足もないほど十分行きましたが、日頃のお情けを考えると、命が惜しく考えております。お見舞なされたこと、のちのちの世まで忘れませぬ」と申し「たとえ、定まった寿命であるといっても、今回ばかりは逃れ、何よりも先ず、もう一度御礼を申し上げたくおもいます」と激しく涙を流された。
家光公は「しばらくして治るのはまちがいない。治った後一服所望して、めでたく祝いをしよう。何についても養生することを気をつけるのだぞ」との御命令にて、場をお立ちになり、次の間へおいでになり、「政宗の病気は聞いていたより重い。今面会して驚かれ、仕方なきことと思われた。もはや治療は成りがたく、それほど効果はないだろう。忠宗の心中・歎きのことは小地で有る。明日政宗が信だとしても、私がいる間は安心せよ」と上意をお伝えになり、城に戻られた。

感想

政宗の病状悪化を聞いて、家光がお見舞に来た場面の内容です。
『木村宇右衛門覚書』154・155、『名語集』65にも類似記事あり。
実をいうと、『石川一千年史』の、「成実が17~18日に出立していた」という記事がたしかだとすれば、成実はまだ江戸にはついておらず、他の人からの伝聞・他の人の記事を読んで書いた物と推測されます。
このとき将軍家光に面会しているメンバーは片倉小十郎(重綱)・石母田大膳・中島監物・佐々若狭と(木村本・『名語集』に)ありますが、成実が江戸にいたならおそらく面会しているはずなので、この時点はまだ江戸についていないと思われます。(ついたかどうかは結局わかりませんが)

この記事で特筆すべきは家光の政宗への心遣いといえるでしょう。あらゆる医師を集め、入れ札をさせて治療方針を決めなおさせたこと、お忍びで現れ、政宗を見舞ったこと、見舞った後(本人には治った後の祝いをしようと気遣ったあとで)忠宗らに「もう長くないだろうが、伊達家のことは安心せよ」と告げた言葉など、細やかな心遣いが見えます。
家光が政宗を非常に慕っていたことはよく知られていることですが、それにしてもこれは相当な優しさかと思えます。
そして政宗の執念ともいえるべき体面へのこだわりが見えます。どんなに病態が悪化してもきちんと体裁を整え、それぞれの大身小身の大名へ気を配る様子は、そうすることが仙台藩の名誉を守ると信じての行為なのだと思いますが、すさまじいものがあります。
この江戸行きも政宗にとっては「最後の出陣」であったのだと思われますね。いやはやすごい。