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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』12-4:葬礼次第附七仏事

『政宗記』12-4:葬礼次第と七仏事

原文

葬礼場は、八幡宮の後北山の下、覚範寺よりも七・八町西にて、今度葬礼の道に横の広さ十二間、四寸角を赤くして両方へ柵を振、其中へ薦を敷、其上に木綿、扨四門の内より木綿の上に白練敷り。柵の外は広さ二間余りに竹虎落にて、柵の内に辻番、十間に物頭一人・棒持十人宛、両方向合て物頭ともに二十二人宛、八町の間なり。柵ともがりとの間には、十間に物頭一人・鉄砲十挺・鎗十挺づつ、是は一方に計り八町の間なり。龕前堂四間四面、高さ一丈九尺、苔ら葺・箔棟・金紋赤地の■*1子にて柱を巻き、葬礼城は二町四方、四門の外幕白練・内幕綸子、四門西方の脇一所に鉄砲五十挺・鎗五十挺・棒持二十人・物頭二人宛。
一、龕は八方錦にて張る。八本柱をば蜀紅の錦を以て巻、迹先をば飾屋金物にて、重縁ともに包む。瓔珞・華鬘に至る迄七こ九星と竹に雀の紋、扨八方へ紅の上巻あり。
一、供龕、六方金襴にて張り、金物紋所右に同じ。
一、亦供龕、四方黄■*2子にて張。

七仏事
(略)

此の如く終了後、死骸納め処へ廟所拝殿、両向番所、扨茶湯膳所に至る迄残すところ無く、忠宗建立し給ひ、在領中は毎月命日に参り給へり、去程に、導師清岳和尚若林の保春院を金蔵主へ相渡し、廟所の中檀に忠宗より新寺を取立、和尚を移し、今正宗山瑞鳳殿と号す。

寛永十九年壬午六月   伊達安房成実之を記す

地名・語句

現代語訳

葬礼場は、大崎八幡宮の後ろ、北山の下、覚範寺よりも7,8町西にて、今度葬礼の道に、横の広さ12間、四寸過度を赤くして両方へ柵をふり、その中へこもをしき、その上に木綿を、さて四つの角の中から木綿の上に白練をしいた。柵の外は広さ2間余りに竹もがりにて、柵の中に辻番、10間ごとに物頭一人、棒持ち10人をあてがい、両方向かい合って、物頭は22人を8間並ばせた。柵ともがりとの間には、10間ごとに物頭一人・鉄砲10挺・鎗10挺ずつ、一方にだけ8町の間並ばせた。
棺の前の御堂は4間四方で、高さ一九尺、こけら屋根、箔で覆った棟、金紋赤地の■*3子にて柱を巻き、葬礼場は二町四方、四門の外幕白練・内幕綸子、四面の西方の脇一所に鉄砲五十挺・鎗五十挺・棒持二十人・物頭二人をあてがった。
一、棺(甕)は八方錦にて張る。八本柱をば蜀紅の錦を使って巻き、そのあと飾屋金物にて、重縁ともに包む。瓔珞・華鬘に至る迄七つの九曜紋と竹に雀の紋で飾られ、また八方へ紅の上巻があった。
一、供龕、六方金襴にて張り、金物紋所右に同じ。
一、亦供龕、四方黄■*4子にて張った。

七仏事(仏事の行列次第などが書かれている)(略)

このように終わった後、死骸を納めたところへ、廟所拝殿・両向かいに番所・茶湯膳所などすべてを忠宗が建立し、仙台に居る間は毎月命日にお参りになった。
導師である清岳和尚は若林の保春院を金蔵主へ渡し、廟所の中程に忠宗はあたらしい寺を建立し、和尚を移し、今正宗山瑞鳳殿と号す。

 寛永十九年壬午六月   伊達安房成実之を記す

感想

葬礼次第・瑞鳳殿の建立について書かれた記事です。
『政宗記』・『成実記』を既読の方とよく「成実は土木に興味が強い人だったのではないか」「感情をかくより物の位置などをかくのが細かいのでないか」と話になるのですが、ここの葬礼次第のところなどは非常にそういうところがよく出ているような気がします。
『名語集』が感情をれんれんとかく筆者、木村宇右衛門が出来事を淡々とかく筆者なのだとすると、成実はそのときどういうところに何が配置されていたかを詳しくかくタイプの筆者かと思います。で、感想は一行感想というか、そっけなかったり。
あと以前そういう方と話題になったのが、「最後の方意外なほどにあっさりしてる」ということです。同じ死去でも秀次や秀吉に費やしたほどの紙幅も費やさず、ただリスト(省略した七仏事)のみを記すのみです。
これも不思議な感じがします*5

*1:示偏に純の右

*2:示偏に純の右

*3:示偏に純の右

*4:示偏に純の右

*5:結構書きぶりにムラがある人だよね…という話題になることもあります…(笑)