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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』11-2:公方家光公御茶上給事/11-3:御能事

『政宗記』11-2:将軍家光公へ、政宗がお茶を上げなされた事/11-3:能のこと
(目次と実際の分け方が違い、また同日のことであるので、両方一緒に紹介いたします)

原文

去ば寛永十二年乙亥正月二十八日に、江戸御二の丸の御数寄屋に於いて朝の御会席、
    御本膳、杉木具御腕銀の段々筋 あさき
  淵取の土器
  一酒浸鯛 くり・きんかん・まなかつお 一御知鶴 いてふ・独くわつ・松だけ・柚
  淵竹の筒皿
  一海鼠腸  一御飯
    御二 杉にて枝折の桃を曲たる木具
  角皿
  一石鰈御焼物  一御汁鱈 こんぶ引て水わかめ
  染付皿
  一鮭鮓、生姜引て
   一香の物 ふりつけ・なすびつけ・大根つけ
    御引菜 杉にておもたかまげたる御重筥 鱒御焼物、かれい蒲ほこ けり焼て塩さんせう
    御肴
  一醤 一小鮒吸物 一たいらき小串
     一海松食御吸物 一御はさみ肴二種
    御茶菓子 唐団扇まげた御重筥なり
  一枝柿 一くわい 一よりみつ 一砂糖豆粉

扨御中立のとき、御茶道具常の如く飾り給ふ。其日将軍家より侘助といふ御茶入、天下の名物なるを、仰立にて拝領し給ふ。其侘助にて御茶立られ上給ふ。其後書院へ出御なれば、政宗より久国の小脇差・長光の刀御進上。爾後御慰の為にとて、御能仰せ付けられけるに、今日の亭主へ一役と御諚にて、実盛の大鼓*1を御役付也。惣じて諸大名衆・旗本衆、面々其々御役付、扨大身小身ともに思ひ思ひの装束、摺箔に赤裏したる衣装もあり、色々様々の出立にて、其日御能此の如し。

翁  内田平左右衛門殿 千歳喜田太郎左衛門殿・三番三小畑勘兵衛殿
高砂  柳生但馬殿 進藤 大三郎・小清五郎 笛惣右衛門・笛市右衛門
実盛  政宗大夫・桜井八右衛門 権右衛門 三右衛門・十兵衛 政宗
江口  毛利甲斐守殿 九郎右衛門 三助・清五郎 吉右衛門
玉鬘  加藤式部少輔殿 進藤 三助・五右衛門 長次郎
道成寺 永井日向守殿 三右衛門・長右衛門 左吉・市右衛門
東岸居士  深野兵九郞殿 春藤 六右衛門・多ヶ谷左近殿 政宗役者・勘七
大会         進藤 三右衛門・十兵衛 新助・勘七
善知鳥  竜慶 権右衛門 正右衛門 又三郎
鵜飼  岡田淡路守殿 春藤 三右衛門・十兵衛 友吉・勘七
羅生門  観世大夫 保々石見守殿 樋口長右衛門 彦九郎・三四郎

右之通各殿中に於て、我役々を勤め給ふ。政宗へは太鼓御所望にて、実盛を拍子給へば、役者と同じに御舞台へ出給へり。太鼓をば観世左吉に持せ、先に立役者の如く、仕手柱の処にて御礼申されければ、将軍公いやいやとの御諚なり。是に依て御座敷の諸大名衆、大身小身の嫌ひなく、我先にと誉給ふ。政宗其日之装束には、肌に浅黄地金紋緞子に赤裏、うへには鹿子に金砂五色の糸にて、七分四方の雪薄五所紋、浅黄裏扨肩へ前後に大成唐団扇と、蔦唐草摺箔したる肩衣、扨檜皮地に金にて色々菱抔縫たる袴、常よりは長ふして、御舞台へ出給ふ。かかりける処に、実盛は中入より太鼓の前遥々なるに、観世左吉側に有けるを、爪を取せ給ふ。何も是を見給へ、大身・小身によらず、伺公の客「前後ケ様の珍敷役者は、亦も有間敷」と笑い給ふ。将軍公尚も御感の御様体也。其後太鼓に取付給へば、将軍公御声高に、ひたもの御褒美浅からずして、「諸大名も誉られよ」と御諚なれば、我も我もと誉給ふ。角て太鼓相過桴をば舞台へからりと打投、仕手と脇との間を通り、舞台の内を直に御前へ参り給ふ。将軍公御坐半間程下に畏り給へば、諸人扨々気味の能役者哉との御事あり。家光公、扨御聞に及びたるより今御覧じて御肝をつぶされけり。今日より能役者を御見付、御感の旨宣ひ大笑遊ばす。政宗申上られけるは、「太鼓の内度々の御褒美の上意なれども、随分我流を御目に掛んが為、御情にも及ばずこと深々心に掛って、今日の太鼓は、一段不出来なり」と申されければ、弥々御笑、扨手前役済舞台を直に参られけるこそ、猶以て、御感なさるの由宣ふ。其より色々の御咄にて、御腹を抱られ候事。

語句・地名など

中立(なかだち):会席が終わって、次の濃茶の手前が始まるまで、客が茶席を去って露地に出ること

現代語訳

されば寛永12年1月28日に、江戸二の丸の数寄屋において朝の御会席があった。次の通りであった。
(略・上記参照)
さて、茶席が終わり、次の濃茶が始まるまで客が露地に出ているとき、茶道具をいつものようにお飾りになった。その日、家光公より侘助という天下の名物である茶入を御命令により拝領なさった。その侘助を使ってお茶を点てられ、上げなさった。その後書院へ御出になり、政宗から久国の脇差しと長光の刀を家光公に献上なさった。
その後お楽しみの為にと、能会が開かれたのだが、今日の亭主へ一役なにかするようにという御命令があり政宗は実盛の太鼓を役付けられた。
集まった諸大名衆・旗本衆はそれぞれ役を振り分けられ、大身の者も小身のものも思い思いの装束を身につけていた。金箔を摺ってかざりつけたものや、赤い裏地を付けた衣装なども有り、いろいろさまざまな出で立ちであり、その日の能会の演目は以下のようなものだった。
(略・上記参照)
右の通り、それぞれ殿中において、自分の役を勤めなさった。政宗へは太鼓を所望されたので、実盛を打たれることになったのだが、役者と同じように舞台へお出になられた。太鼓を観世左吉に持たせ、先に立ち役者のように仕手柱のところで御礼申されたところ、将軍公家光はいやいやと仰せになった。このため、御座敷きにいた諸大名は大身の者も小身の者もみな我先にと誉めなさった。
政宗の其の日の装束は、下に浅黄地金紋緞子で、裏地に赤い生地をうったもの、上には鹿子に金砂五色の糸で、七分四方の雪薄五所紋をあしらい、浅黄裏の肩へ前後に大成唐団扇と、蔦唐草摺箔したる肩衣を着て、檜皮地に金にていろいろ菱などを刺繍してある、常よりも長い袴を着て、舞台へ御出になった。
実盛は途中、太鼓の入る前が長いため、政宗は側にいた観世左吉に爪を取らせなさった。皆これを見て身分の違いによらず伺候していた客は「このような珍しい役者は二度とおらんだろう」とお笑いになった。将軍家光公も非常に面白がられた様子であった。
その後太鼓に取り掛かったところ、家光は声を高く、非常にお褒めになり、「諸大名も褒められよ」と御言葉を下さったので、大名衆は我も我もとお褒めになった。
そして太鼓の出番がすぎたところ、政宗は桴を舞台へからりと放り投げ、シテとワキの間を通り、舞台の中を直に通って家光の前へいらっしゃった。家光のいらっしゃる半間ほど下座に座り込まれると、諸人が「さてさて気味の良い役者であるなあ」と言った。
家光公は「聞いてはいたが、今見て驚くほどの腕前である。今日からいい役者を見つけた」と感動したことを仰せになり、大笑いなされた。政宗が「太鼓の腕前について、お褒めいただきましたが、大変我流ですので、お情けに叶うことないだろうと大変緊張しまして、今日の太鼓はいちだんと不出来でした」とおっしゃったところ家光は一段とお笑いになり、それに自分の役が終わったあと舞台を直接やってきたことが面白いと仰った。それからいろいろとお話しがあり、腹を抱えてお笑いになった。

感想

寛永12年1月28日の家光茶会と饗応能に付いての記事。
このころの饗応は茶会を先にして、その後能をするのが一般的だったようです。
『木村宇右衛門覚書』104、『名語集』44に類似記事があります。ともに次の次の章の「踊御見物事」(いわゆる小姓ダンスの会)と合わせての記事となっています。
ほぼ同内容の記事なので、成実・『名語集』筆者・木村宇右衛門のうち誰が近侍して見て、誰がそれを先に記事に書き、誰が参照したのかがわからないのですが、高橋富雄氏は家光や幕閣のいる饗応の場に近侍できたのは成実ではないかと推測して、『名語集』筆者=成実説の根拠のひとつとしていらっしゃいます。けど、木村宇右衛門の描写(場所などの)も非常に詳細なのですよね…。なので、三者のうち誰がその場にいたのかはよくわかりません。
さて、政宗の行動についてですが、爪を取らせたり、ばちを放り投げたり、役者の間を通って舞台を横切ったりと、正直行儀のいいものではなかったようです(笑)。普通の人がやったら許されなかったと思われますが、家光はきっちりした作法より、多少行儀が悪くても楽しい場を好んだようで、政宗の趣向は非常に気に入られたようです。
あと、政宗は謙遜していますが、太鼓の腕は意外と上手かったようで、諸大名は驚いたようですね。
茶席の献立表と、能の役者表は、どうせブログで形は表示が上手くいかないと思いまして、そのまま順に転写しましたが、そもそも表の書き方間違っているかもしれません。どうかご容赦ください。正しいものはそれぞれの記事に載っていますので参照下さい。
饗応の御飯が中身と器も含め載っていますが、松茸とかくわいとか、このころから食べてたんだな〜と親近感がわきますね。

*1:大鼓(おおつつみ)ではなく政宗が得意とした「太鼓」の誤植と思われる。