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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』11-4:躍御見物事/躍次第附衣裳事

『政宗記』11-4:踊りの見物をされたこと/踊りの様子と衣装のこと

原文

御能相過、政宗小姓を以て躍を御目に掛けられにけり。即御舞台にての躍なり。扨役者の次第、附躍子。

笛  春日又三郎・平岩勘七
小鼓  長命長次郎・大倉長左衛門・幸清次郞・大森九右衛門・大森蔵人主・大堀清蔵
太鼓  観世左吉・桑名作左衛門
鐘内  上村吉右衞門・松村茂兵衛
しんほち  鷺仁右衛門・大倉弥右衛門

鈴木九十郎 庄子作十郎 遠藤市十郎
牛田権作 橋本佐太夫 木村百助
柳生虎助 多田半四郎 島津大蔵
野田蔵人主 草野八十郎 横田与平次
熊田小平次 蘆沢伝七 富沢大吉
横尾金治 只野長十郎 葛野弥太郎
木村源太 鴇田門弥
 以上二十人

一番、色々だてなる染小袖に赤裏、金の扇にて。二番、繻子に金銀にて蔦を摺たる小袖、帯白綸子に、黒く金にてひるまきしたる舟棹持て舟躍。三番、曰綸子に独揺柳と桐の葉摺たる小袖、綸子の帯にて白鉢巻、金銀丸の唐団扇。四番、白地に銀にて菊水摺たる小袖、赤裏、うへに金にて鳴子摺たるを脱たれ、金の団扇。五番、繻子にのたりの摺箔もみの裏、金の扇。
 其のときの唄に、

  天に大悲の風吹けば、地には金の地には金の花がさく、この木曽な木曽な七寅の年、参る薬師は参る薬師は寅薬師この木曽な。
   舟躍、ふし別なり。
    志賀辛崎の一つ松では、一つ松ではなけれども、浪々のよるよる浪のよるよる、ひとりぬるただ淡路がた、扨通ふ千鳥の声聞ば、ただ浪のよるよる浪のよるよる、ひとりぬるただ、
    荒磯にただ浪のよるよる、浪のよるよる、ひとりぬるただ。

右躍の品々様々にて、一躍に装束替り、其に隨ひ夫々の唄ども有、近代有間敷由、御感の上躍子六人を召出され、御前に於て御小袖一重づつ拝領、酒井讃岐守殿相渡さる。夫より同年の六月御暇にて下向し給ふ。

語句・地名など

現代語訳

能会が終わり、政宗は小姓を使って躍りを将軍家光公に見せられた。すぐに舞台においての躍りであった。さて役者の順番、踊り子の氏名は以下である。
(略・上記参照)
一番、いろいろと伊達な染め小袖に赤色の裏地の小袖を着、金色の扇を持った者たち。
二番には、繻子に金銀の蔦の摺を入れた小袖をき、白綸子の帯に、黒く金でまいた舟棹を以て舟躍をした者たち。
三番には、曰綸子にはこ柳と桐の葉の摺をいれた小袖に、繻子の帯をし、白の鉢巻をして、金銀の丸い唐風団扇を持った者。
四番は白地に銀で菊水様を摺入れた小袖を着、赤い裏地で、うえに鳴子を摺ってあるのを脱ぎ、金の団扇を持った者。
五番には繻子にのたり*1の箔をすり、もみの裏地に、金の扇を持った者たち。
その時の歌は以下のようであった。

 天に大悲の風吹けば、地には金の地には金の花がさく、この木曽な木曽な七寅の年、参る薬師は参る薬師は寅薬師この木曽な。
   舟躍、ふし別なり。
    志賀辛崎の一つ松では、一つ松ではなけれども、浪々のよるよる浪のよるよる、ひとりぬるただ淡路がた、扨通ふ千鳥の声聞ば、ただ浪のよるよる浪のよるよる、ひとりぬるただ、
    荒磯にただ浪のよるよる、浪のよるよる、ひとりぬるただ。

躍りの趣向は様々であり、一躍ごとに装束が替わり、それに従ってそれぞれの歌が有り、家光は、近代ではこのような催しはないだろうと感動され、踊り子6人を召し出され、御前において小袖を一重ずつ拝領し、老中酒井讃岐守忠勝殿によって渡された。それから同じ年の6月に下向の許可が出て、仙台へと下りなさった。

感想

一つ前の記事、

の同日のことです。
この記事にも書いたように、『木村宇右衛門覚書』104後半、『名語集』44後半が類似記事です。
唄についてはよくわからないので、原文そのまま載せておきます。出典などわかる方いらっしゃいましたら、御教示いただけると幸いです。
政宗はこの後仙台への最後の下向をし、寛永13年に再び江戸への上府したあと5月に亡くなりますが、この記事の当時、69のじいさんにしてはやることなすこと破天荒すぎておもしろいですね。家光の好むパフォーマンスを心得ていたということでしょう。

*1:不明。のたりいちご?