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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』114:秀次事件結末

『伊達日記』114:秀次事件結末
(番号・タイトルは便宜上当サイトにてつけたものです。原文にはありません)

原文

一秀吉公御在陣の内、若君様御誕生なされ候。秀次へ聚楽御渡候を内々秀吉公御後悔にもをぼしめし候哉。治部少見届御中を表裏候由見へ候。秀次公山へ綱を御張、唐犬を集め鹿を御くはせそうらひて、五日十日御山に御座候。御謀叛の御談合の由思し召され候間、終に高野山誓願寺に於いて御切腹なされ候。兼ねて右大臣御女最上義顕の御女を始三十六人の御目懸衆を害し申、義顕御女は奥州一揆の砌、秀次最上御在陣の時上げ申され候。大名に似合わぬ由天下のあざけりに候。今度此の如くの仕合候故、義顕も聚楽屋敷に押籠御座候。弾正殿子息左京大夫は秀次相聟に候つきて、大原へ御引こもり候。右の品会津へ申来に付、弾正殿夜を日に御登り候。秀次へ相付けられ候衆の内、田中兵部、山内対馬、中村式部は御謀叛にもかまい申されず候哉恙なく候。其外切腹の衆多候。政宗公も弾正殿へ追付御上り候処、秀次へ御同心候由にて御上候はば、切腹せしむべき由御念比の衆より申来候付、薬院別けて御懇切候間、御異見御請候へば、早々大坂へ御参、我等所へ御越し候への由仰せられ候に付、薬院へ御出候。此表裏は秀次公の御出頭人粟の木工、本政宗公家中にて御舎弟のもりに相付られ候。其比は藤八郎と申候。少誤り候て死罪に及ぶべく候を、存分北国へ欠落仕候。北国にて討たるべき様子見合、北国の城主上郡山民部家中を人質に取越後へ除、上洛仕、秀次公へ御奉公仕候。政宗公も秀次公へ御参候。木工御勘当に候へば如何の由、秀次公御内証候ひて御懇志に成候。彼仁秀次御生害後、木村常隆、熊谷大膳、粟野木工切腹仕候。吉田修理は欠落行方ついに知申さず候。政宗へ薬院、玄意法印、寺西筑後守、岩井丹波、四人を以御たづねには、今度関白謀叛の所、一味仕、鹿狩の砌山へ参談合のよし聞召され候由御意候。政宗御目下され候間、節々罷出へども、左様の儀之無き由仰分られ候処、重ねて奥州へ下向の時分、秀次より餞をうけ候由聞召され候。是は何とて申し上げず候由御諚に候。政宗行当迷惑仕候。奥州下向の時御いとま乞に罷出候へば、鞍十口、帷子二十、粟の木工を以下され候由、其時四人衆路地にて御談合候ひて、天道つき、此一儀申し上げられず候由落涙仕申由上聞に達せられ候へば、子共兵五郎を若君様へ御被官始にあげまうされ候間、兵五郎に国を相渡すべく候。政宗は遠島へも遣はされるべく候。在所に居申候家老共登せ申すべく候。其段仰付らるべく候。誓紙を仕候迄屋敷に居申べき由仰出だされ候。四人の御使者衆薬院の内へも御入なく、庭より御前相済候。心安存られるべき由先仰られ候後、御諚の通仰渡され候付、聚楽御帰御閉門にて御座候。御国本へ家老衆罷り登らるべき由仰せ遣はされ候。然れば聚楽の町人、政宗家中を屋敷へ引籠、京中を焼払斬死申すべき由申唱、以の外騒候由御念比衆聞召れ、双方の門をひらき屋敷の内見え候様に成され、惣別内衆出入相止られ然るべき由御異見に付きて、表裏の御門をひらき御座候。然る処に伏見にて、江戸中納言殿御屋敷の前に高札を立候。其札を御留守居衆大坂へ上げ申され候へば、秀吉公御普請場へ成さしめされ候砌、普請奉行布施屋小兵衛、杉山主計、竹内左太右衛門三人を、政宗、義顕をして討ち奉る。西三十三国義顕、東三十三国は政宗相抱べき由申し合わせ候由の文言に候。秀吉公御覧成られ、政宗を人々にくみ申と見え候。関白一味の由申上候も、ケ様の者とも之有るべき由御意成られ、此札立候者申出し候はば、金子出すべき由札を立候への由、義顕、政宗より金子四十枚だし、京に二十枚、伏見に廿枚相懸候上、知行は望み次第に両人より下置れ候由、御奉行衆へ名付にて室町と伏見の京町に札を立候へども、終にしれ申さず候。政宗は御免なされ候。義顕も娘のあやまり迄相許され、召出され候。施薬院、玄意、寺西、岩井四人衆を以、右の段仰付られ御目見相済候。

語句・地名など

行当(ゆきあたり):さきにすすめなくなること・行き止まり/転じて、さしさわり/ある物事に直面すること・ちょうどそのとき/極度に
迷惑(べいわく・めいわく):どうしていいかわからず困ること/有る行為によって負担に感じ不快に思うこと

現代語訳

秀吉公が名護屋に在陣している間に、若君様がお生まれになった。秀次へ聚楽第をお譲りなさったことを秀吉公は内心後悔にお思いに成ったのだろうか。石田三成は見て、仲違いするよう工作したように思えます。秀次公は山へ綱を張られ、外国の犬を集め、鹿を食わせられ、五日十日と山におこもりになった。これを謀叛の相談であると思われたので、(秀吉に咎められ)ついに高野山誓願寺において切腹なされました。これと一緒に、(菊亭)右大臣の姫君や最上義光の息女を始め、三十六人の妻妾が殺害されました。義光の息女は奥州一揆のとき、秀次が最上領に在陣した際に献上された娘である。その大名にふさわしくない様子は天下のあざけりであった。
今回このような出来事が起きたため、義光も聚楽第城下の屋敷に押し込められた。浅野弾正長政の息子左京大夫幸長は秀次の相聟であったため、大原に籠もった。
この事情が会津へ知らせられたので、浅野長政は夜も昼もかまわず急ぎ、上洛した。秀次へ付けられていた家臣の内、田中兵部・山内対馬・中村式部は謀叛には関係なかったのだろうか、何も処分はなかった。そのほか切腹させられた者が多くいた。
政宗も浅野長政を追いかけて上洛したところ、秀次の一味であったことが本当で、上洛するのならば、切腹を申しつけられるだろうと秀吉の側近衆から連絡がきたので、特に親しくしていた施薬院全宗に相談したところ、早く大坂へ来て、自分の屋敷へ来いということを言われたため、施薬院全宗宅へ入った。
この事情というのは、秀次の重臣だった粟野杢之介(秀用)という者が、元は伊達家中にて弟小次郎の守り役に付けられていた者であった。その当時は藤八郎といった。小次郎事件があったときに死罪にするはずだったのだ、北国へ逃げ、北国で討たれるはずだったのがそれがかなわず、上郡山民部の家臣を人質にして越後へ逃げ、その後上洛し、秀次公へ奉公していた者だった。政宗が秀次のところに伺った時に、杢之介の勘当の理由をお聞きになり、秀次公はそれを秘密にして、特に親しくしていたのだった。秀次公が切腹されたあと、木村常隆・熊谷大膳・粟野杢之介は切腹した。吉田修理は逐電し、行方はわからないままとなった。
施薬院全宗・黒田玄以・寺西筑後守・岩井丹波を政宗の処に遣わせておたずねになったのは、今度の関白秀次の謀叛のところ、一味となり、鹿狩りの時山へ行き、談合をしていたと聞いたと仰せになった。政宗は目をかけてもらっていたので、しばしば呼ばれて言っていたけれど、謀叛の企みなどのことはなかったといった。また、秀次が奥州へ下向していた頃、秀次から贈り物を受けたことを聞いたが、どうしてそれを秀吉に申し上げなかったかを質問された。政宗は「そのような誤解は困る。奥州下向のときに、別れの挨拶をしにいったところ、鞍十口、帷子二十を杢之介を通じてくだされた」と申し上げると、そのとき四人衆は帰路相談をし、「政宗の天道は尽き、そのことを申し上げられなかったことを悔やみつつ落涙した」と秀吉につげたところ、子息兵五郎*1を若君*2の元で被官していたので、兵五郎に家督を相続させ、政宗は遠島へ配流すること、領国に居る家老衆を上洛させることを命令された。(家臣達による)誓紙を提出するまで、政宗は聚楽屋敷に居住するよう命令された。
四人の使者は施薬院屋敷にも入ることなく、庭から面談し、終わった。安心するようにとまずおっしゃられた後、秀吉の命令を言い渡されたので、政宗は聚楽の屋敷へ帰り、閉門なさり、本国の家老衆の上洛を命じられた。
すると聚楽第近くの町人たちは政宗は家臣団を屋敷へ引き込み、京中を焼き払って斬り死にするつもりではないかと噂し、思ったより大騒ぎになった。秀吉の側近衆はお聞きになり、双方の門をひらき、屋敷の中が見えるようにと命令なされ、特に中の者が出入りするのを止めるべきであると意見をうけて、表裏の門をお開きになった。
そうこうしているところに、伏見で、江戸中納言(徳川家康)の前に高札がたった。その札を留守居衆に大坂へ見に行かせたところ、「秀吉公が普請場にこられたところ、普請奉行であった布施屋小兵衛・杉山主計・竹内左太右衛門三人を、政宗・義光がお討ちになった。西三十三国を義光、東三十三国を政宗が治めようと申し合わせた」とかかれていた。秀吉はこれを御覧になり、政宗は人々に嫌われているとお思いになった。関白秀次との画策のことも、このような者たちがいたのであろうと思われ、この立て札を立てた者を申し出たら、金子をだすという札を立たせ、義光・政宗より金子四十枚だし、京に二十枚、伏見に二十枚させる上、二人から知行を望みのとおりにくだされると奉行衆に命令され、室町と伏見の町に札を立てなさったのだが、誰の仕業であったかはついにわからなかった。
政宗は許され、義光も娘の誤りまで許されて、召し出された。施薬院・玄以・寺井・岩井四人衆によってこのようにご命令され、お目見えが成り、決着した。

感想

同時にあげました、『政宗記』9-1:若君達御最後附政宗気遣之事/9-2:制札之事と同内容の記事です。
ほぼ同内容で、『政宗記』の方が詳しいですが、『伊達日記』では書かれている「政宗が落涙した」ことを『政宗記』では書いていないのが、同じ人による記録なのに、時期によって書き方が変わるというおもしろい例です。
感動して泣いてることは遠慮なく書くのに、さすがにこの落涙は「書き直そう…」と思ったのですかね?(笑)

*1:のちの秀宗

*2:拾/のちの秀頼