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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』117:秀吉の逝去

『伊達日記』117:秀吉の逝去

原文

秀吉公御違例に候処、次第に重候故諸大名衆をめされ、御病気つよく候間、御他界も候はば、秀頼公にたいし逆意存まじき由誓紙仕るべき由仰出され候に付、熊野牛王に血判いずれも成られ候を、大峯におさめ申すべき由御意にて、正護院伝山伏多召連れられ、御登山に候。天下の仕置家康公、浮田中納言、安芸毛利殿、加賀筑前殿、長尾景勝へ仰置かれ候。然る処に秀吉公御存命の時分、景勝は国替仰付られ、程なく秀吉公御煩に付上洛仕候、御暇下され候へども、御違例の内は在京にて、御他界以後会津へ下向に候。秀吉公新八幡と祝申すべきよし御遺言に候へども、勅許なきによつて豊国の明神と祝申候。東山に宮相立られ候。

現代語訳

秀吉公が体調を悪くなされ、次第に重体となったので、大名衆を召され、病気が重く成られたので、御他界なさったならば、秀頼公に対し反逆するなと旨の誓詞を出させ、みな熊野牛王に血判をされたものを、大峯さんに納めるよう命じられたので、聖護院の山伏を多く連れられ、登山された。
天下の采配は徳川家康・宇喜多秀家・毛利輝元・前田利家・上杉景勝の五人に言い残された。秀吉公ご存命のとき、景勝は国替えを仰せつけられ、秀吉公の体調悪化により上洛仰せつかり、暇をいただいたのだけれど、体調悪化のうちは在京し、逝去の後、会津へ下向した。秀吉公は新八幡として祀り申し上げるよう遺言であったのだが、勅許がなかったのため、豊国の明神と祀り申し上げ、東山に宮を立てられた。

感想

細かいところですが、五大老の並べ方が、
「家康公、浮田中納言、安芸毛利殿、加賀筑前殿、長尾景勝」
というのが、成実の立場を考えると非常におもしろいです。
伊達の同名相手であり、その後の治世者であった家康は「家康公」で、宇喜多は「浮田」とかいており、毛利は名字だけで諱・仮名(けみょう)は書いておらず、前田は仮名で名字はなく、そして成実と因縁あさからぬ上杉景勝は徹底して「長尾」景勝としているところが、「長尾は上杉」意識がほかの大名と比べても出ています。
実話はどうかはさておき、「上杉から五万石で誘われたが、伊達家に敵対する家に仕えるわけにはいけない」「長尾は自分が継ぐ予定だった上杉家の家来筋である」と発言したとされている成実の上杉家への意識が出ているように見えて、興味深い表記です(笑)。