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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』118:いろは姫の婚約と石田三成の挙兵

『伊達日記』118:いろは姫の婚約と石田三成の挙兵

原文

家康公、政宗公御入魂の故か、政宗娘を上総殿へ御取合成られ度由思召、宗薫を以て御内証に候。四人の大名衆聞召され、秀吉公御他界の砌、五人の大名衆申合仕置仕べき由仰置かれ候処、各相談無く縁初の儀覚悟の外由仰られ、宗薫死罪に申付くべき由に候。家康公、政宗公、左候はば、御相手に罷成べき由仰れ候故、其後は其沙汰為しに候。石田治部少輔乱逆を存立、家康と四人衆間を申へだて候由に候。家康は向島に御座なされ候処に押懸候などと、伏見、大坂唱事候。其末末治部少輔一人悪逆に極、切腹におよび候処、佐竹義宣伏見より治部少輔へ御出、治部少輔を義宣一つ乗物に御のせ御帰、御屋敷にかくしをかれ候。大坂にては治部少輔欠落の由にて唱候事相止候。然して義宣大津迄治部少輔を召連、棹山へ送らせらるる由申候。其年より二年過、景勝へ上洛有るべき由家康仰遣わされ候所、秀吉公へ五年の御暇申上候間、罷登る間敷由仰られ候。其れに就きて浮田殿、毛利殿、筑前殿へ御たずね候て上洛候へのよし仰遣され候へども、景勝御上洛ある間敷仰られ候。左候はば、景勝を御退治有べき由にて、伏見御留守居として鳥井彦右衛門に人数三千計指添籠置かれ候。江戸へ御下向に候。治部少輔竿山より方々へ申合、景勝も御同心にて乱逆企申候。

現代語訳

家康公は政宗公とじっこんであったためか、政宗の娘いろは姫を上総介忠輝へ貰いたいと思い、今井宗薫を仲立ちにして、内々の約束をした。五大老のほかの四人の大名衆はこれを聞かれ、秀吉公他界のおり、五人の合議で仕置きを決めるよう言い残されたため、相談なく縁談をまとめたことは違反であると仰られ、宗薫を死罪に申しつけるよう仰られた。家康公と政宗公は、とがめだてするようならば、敵対すると仰ったので、その後は沙汰がなかった。
石田治部少輔三成は反乱を思いだち、家康と残りの四人衆の間を中悪くするよう企てたようであった。家康は向島にいらっしゃったところに三成が押しかけなさったなどと、伏見・大坂で噂となった。その語、三成が一人悪いのだと切腹させられそうになったところ、佐竹義宣が伏見から三成のところへいらっしゃり、同じ乗物にのせて帰り、屋敷に隠しおかれた。大坂では三成がいなくなったことで、噂は止まった。そして義宣は大津まで三成を召し連れ、佐和山へ送らせたという。
その年から二年がすぎ、家康は景勝へ上洛するべき旨を命じたところ、秀吉公から五年間の暇を貰ったので、登ることはないと仰られた。それについて宇喜多・毛利・前田へおたずねに也、上洛せよとのこと遣わされたのだが、景勝は上洛なされなかった。
そのため、景勝を退治するとして、鳥居彦右衛門元忠に三千の兵を伏見留守居役に添えおかれ、江戸へお下りになった。三成は佐和山から方々へ申し合わせ、景勝もこれに応じて反乱を起こした。

感想

原文では三成を「光成」と表記しているのが気になります。もちろん当時は音さえあっていれば、人名の表記にこだわらなかったことはわかるのですが、この前の時期にはある三成への敬語が消滅していることなどから考えて、「謀反人三成」という意識が強くあったのかもしれません。
また、成実は佐和山を「棹山」「竿山」と書いていますが、後から書いた『政宗記』では「佐和山」と直っているのと比べると、『成実記』執筆当時は耳でそう聞いて間違っていたのかと思うとおもしろいです。もちろん写本者のミスの可能性もありますが。