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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』120:政宗の白石攻め

『伊達日記』120:政宗の白石攻め

原文

政宗公は岩出山迄は御下なされ、北目に御在陣候て、七月廿四日白石の城へ御働候。甘粕備後城主に候間、若松へ引取られ、備後甥北條式部居候朝城外を打廻り、御働引上られ候。八つ時分又城廻りを御覧成られ、別けて改普請仕所も之無く候間、町を御取せ成られるべき由仰出され、町枢輪へ惣人数取付押込火を懸候間、敵は本城へ逃込、其夜二三ノ枢輪迄相破、本丸計に成、翌日石川大和守を頼、城中の者命相助けられ候はば、明け渡し申すべき由にて、廿五日七つ時分出城候。伊達へは相返され間敷由にて、表立候衆はいづれも御旗本に罷有候。雑兵は夜に紛伊達へ逃帰申候。簗川へ御取懸なさるべき思召れ候処に、家康小山より御帰の由申来候付、関東口より御取詰成られずしては、政宗一人にて働成りがたく思召され、白石へ御人数相籠められ、江戸御一左右聞召され候迄、先北目へ御引籠成られ候也。
  右伊達成実記三冊。類本無きに依て、咬合能わず。

現代語訳

政宗公は岩出山まで下向なされ、北目に在陣なさって、七月二十四日白石城をお攻めなさった。甘粕備後が城主だったのだが、若松へ引き上げ、備後の甥の北條式部がいた。
朝城外を見回り、軍を引き上げられた。八つ時分(午後二時頃)城廻りを御覧になられ、別に改めて普請されたところもなかったので、町を占領するよう仰られ、町館へ総勢を以て攻め入り、火をつけたので、敵は本城へ逃げ込み、その夜二の曲輪三の曲輪まで破り、本丸だけとなった。翌日石川大和守昭光を頼りに、城中の者の命を助けていただけるならば、明け渡す旨の取り決めにより、二十五日七つ時分(午後四時頃)城を出た。
伊達へは返されないとのことだったので、表だった衆はいずれも旗本であった。雑兵は夜に紛れ伊達へ逃げ帰った。簗川へ攻めかかろうと思っておられたところに、家康が小山からお帰りになったという知らせがきたので、関東口から攻め手がなく、政宗一人では攻めが成立しないと思われ、白石へ軍勢を集められ、江戸からの知らせが届くまで、ひとまず北目へひきこまれた。
  以上、三冊を伊達成実が記す。類本がないため、内容の咬み合わせをすることができない。

感想

慶長五年七月二十四日の白石城攻めの詳細です。
何日かは定かではありませんが、このころ成実は帰参を許され、石川昭光の一隊に加わったとされています。
『伊達日記』を含む『成実記』系統はだいたいここで筆が終わり、このように終わっていたり、続いてほかの人が書き足したとされる文章が付け加えられていることもあります(群書類従版/仙台叢書版など)。