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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』9-5:政宗慈悲深事

『政宗記』9-5:政宗の慈悲深きこと

原文

同(慶長)七年壬寅の四月、宮城の郡を在城に取立、仙台と名付、北目より直ちに移し給ひ、未だ在城となる。去程に、家康公御時より、相国秀忠公・左大臣家光公御三代の内、政宗在世中は誠に御懇庸常ならず。斯て政宗は常々遊山僻にて御坐せば、在国のときは、鷹或は鉄砲野、或方々の島々へ出給ひて、七日八日の逗留鹿狩をし給ひ、千二千の勝負爰の山かしこの山にて、弁当酒弁様々慰み給ふ。扨仙台にて近所の林、黒川の七つ森、数百の鹿共一日に百二百獲給へり。漸春過夏も来れば、方々浜々へ出給ひ、漁師共百余艘浮び出、有程の魚ども数を知らず。亦川々へ出御ありては、鵜師どもを集め鮎・鱒数を知らず。扨夏過秋になれば、仙台城廻りの川或は名取川、爰彼処の川どもへ留をさせ際もなく鮭を取給ふ。扨其外鶴・白鳥・鴨に至る迄、一つとして慰みに非ずと云う事おはしまさず。況や仙台より遠島の外は、野山海川何方へも、二日路と云事なく居城より出給ひ、其日の遊山にて、慰所は所々に仮屋を兼て結構し給ひければ、其場に於て慰給へり。惣じて何れの勝負なりとも、供の士卒は云に及ばず、歩立・小人・中間・小者に至る迄、残なく料理を給はり、其上時の勝負に随ひ、拝領申す事度々に及び、縦ば鹿などは其砌供にてなき者どもに、勝負の度毎に人を出し、受取と触させ勝負の物能祝と宣ひ、家中一宇へ賜る。それも家の親類一家一族へは歴々の使なり。就中、親類へは当座山鷹の雉子、或は鉄砲の雁・鳧共、使者を以てそれぞれに給はりけり。扨仮初の出馬にも、供の衆に酒を給はり、情深くまします事勝てかぞうべからず。故に少しなりとも、当座目に立事あれば、其儘金銀は申すに及ばず、刀或は脇差、或は小袖、又品により知行を拝領立身する者、若年より度々の事なり。されば、遊山好には御坐せども、其々に心を附られ、毛頭心中に油断なしと相みへ、誠に幽の事にも目に立事あれば、諸人承る処扨も気のきひたる者哉、明日に何事有とも用立んと宣ひ、如何様にも心付のなき事はなし。朝夕目の前にも召仕ひ給ふ小姓迄も勇み悦ぶ事斜めならず。去程に下々へ振舞の有ときも帰り給ふに、何程の酒気なりとも定りて中途に乗物を立、供の上下を召集め、「今日其身どもを馳走は如何に」と尋給ふ。勿論上を馳走の事なれば、争か愚ならん、其趣を申しければ、「亭主我に如在なき心中、今現れ実の馳走なり、憑き哉」と宣ひ、其より城へ入番所の間毎に立給ひ、目見の者の仮名を尋ね給ふ。其々番頭其々の面々に申しければ、「其者の親は名誉の者なり、扨彼者の祖父は誉の者也、汝どもも親祖父には劣るべからず、虎は生れて三日目に牛を服すと云り、相構へて嗜むべし」と、何れも野山或は振舞帰り、機嫌能折柄は常々宣ひけるとかや。ケ様の心故にこそ僻事抔にて曲事と有事、若年より終に覚えず。縦ば悪事出来るとも家中は申すに及ばず、他国の衆承りても、是は御十分道理至極と申す事ならでは、改易死罪をも卒爾にはし給はず。実に多分の腹立にも、理に相違と云ふ事なし。常は只情深く在事仁愛を致すの処なり。又時として機嫌悪き折節は、常々撫廻し給ふ悴迄も、立所に足を立かね、大人は身の毛よだつて舌をふるう。其故に家老奉行頭人も奢りたることなく、政宗前は云ふに及ばず、かげにても、上下の作法全く違わずなり。去程に、家の者ども、家老奉行頭人に参会の時は、上を敬ふ習ひなれば頭を低、珍重拝頓なるに、其衆は却て謙を先に立、慮外と云事一言もなし。縦ひ小姓なりとも当座用をも宣ふ人並よりは召仕給ふとみれば、早仁義の差別を廉とし其身の覚悟も各別也。然は日来其作法を宣ひければにや、実にもなり何の沙汰もなき処に、取立給ふ旁ども、又もケ様に有けることは、希代不思議とも云り。「惣じて政宗は気象猛烈にして、平生武勇のみを事とし給ふ故に、神明を崇み仏陀を信用し給ふ事は露もあらじ」と人思けるに、或時は禅門にて入て話答を疑著し、或時は神徳を仰ひで、武運を添んことを希ふ。故に慶長十年乙巳、八幡宮を修造し、竜宝寺を建立して、是を当社の別当と定む。修造のとき奉行木幡木工介・真山式部・大工差引梅村日向(家次)、是は紀州の者なりしを、名誉大工の上手故、六百石にて抱ひ給ひ、其後加増給はり千石となる。同棟梁三十郎(頼次)・刑部左衛門(国次)・鍛冶奉行岩崎隼人・棟梁雅楽介(吉家)、上遷宮同十二年丁未八月十二日。当社供養の尊師は、竜宝寺十一代目実済法印、供養奉行家老富塚内蔵頭信綱、同鎮守八幡雞沢山宝珠院と号す。幷に国分薬師堂建立、松島五大堂・瑞巌寺伽藍修造の取付も同年にて、円福瑞巌寺開山性西法身と号す。

語句・地名など

取立(とりたて):建設すること・建築すること
鷹(たか):鷹狩り
留(とめ):梁とりか(伊達史料集)/罠?
遠島(えんとう):牡鹿半島のこと
勝負(しょうぶ):獲物をしとめること、狩りがしゅびよく運ぶこと/物事が成功すること(東北方言)
歴々(れきれき):つぎつぎと連なるさま
鳧(けり):チドリ科の鳥。
如在(じょさい):てぬかり、粗略。
僻事(すきごと):趣味趣向。
曲事(くせごと・ひがごと):けしからぬこと/違法行為をした者を処罰すること

現代語訳

同じく慶長七年の四月、宮城の郡を在城に建築し、仙台と名付け、北目城からすぐにお移りになり、今も城としている。家康公の時代から、相国秀忠公・左大臣家光公の三代の間、政宗の存命中は将軍家からの覚えが良いことは尋常ではなかった。
政宗はつねづね野山に行くことを好んでいたので、仙台に在国しているときは、鷹狩り場や鉄砲野、各地の島へ出られて、七日八日かけて逗留し、鹿狩りをされ、一千二千の狩りをこの山かしこの山でされ、弁当や酒を様々用意し、お楽しみになった。
仙台の近所の林、黒川の七つ森、数百の鹿が一日に百、二百とおとりになった。ようやく春が過ぎ、夏もくれば、ほうぼうの浜へ出られ、漁師に船を百艘余り浮かばせ、あるだけの魚をたくさん捕った。またいろいろな川へお出になっては、鵜飼いたちを集め、鮎・鱒を数を知らず取らせた。
夏が過ぎ秋になれば、仙台城廻りの川や名取川、ここかしこの川へ罠を作らせ、限りなく鮭をお取りになった。その他鶴・白鳥・鴨に至るまで、お楽しみにしておられないものはなかった。
仙台より遠島の外に行かれるときは野山・海・川、いずれへも、二日かかることなく居城から出られ、遊山され、休憩所はところどころに仮屋を兼ねて建設なされ、その場においてお休みになった。
総じて、どのような狩りのときでも、供の侍たちはいうに及ばず、徒立ちの者・身分低い者・中間・小者にいたるまで、残り無く料理を与えられ、そのときの狩りに従って、いただくことが何度もあった。たとえば、鹿などは、そのとき供をしたわけでもない者たちに、狩りの度ごとに人を出し、受け取るよう命令させ、狩りの祝いと称して家中全体に贈った。家の親類・一家・一族へはつぎつぎと贈られてきたものだった。とりわけ、親類へは、獲ったばかりの山鷹の雉子、または鉄砲で獲った雁・鳧などを使者を送り、それぞれに贈って下さった。
ちょっとした外出の時にも、供の者に酒を下され、情け深く居られることはわざわざ数えることがないほど多かった。
故に、少しであっても目に立つことがあれば、すぐにそのまま、金銀はいうに及ばず、刀や脇差、小袖、また位や知行をいただく者、若い頃からよくあったことであった。
なので、遊山好きであられたが、それぞれに心を配られ、油断されることは少しもなかったと思われ、本当にかすかなことであっても、目に触れることがあれば、みなお聞きし、それにしても気の利いている者か、明日何事が有ったとしても用意せよとおっしゃり、どんなことがあっても気を遣わないことはなかった。朝に夕にお仕えする小姓までも非常に意欲をだし、喜ぶことこの上なかった。
さてあるとき、下々の者に振る舞いし、お帰りなさるときに、どれくらい酒に酔っていたとしても、必ず途中で乗物からお降りになり、供のみなを集め、「今日お前たちが食べたものはどうであった」とおたずねになった。もちろん上等のものを馳走されていたので、尋常ではない。それを申し上げると、「亭主である私にてぬかりないまごころ、今現れ、本当の馳走である。たのもしいことである」とおっしゃり、其れより城へ入番所のあいだごとにお立ちになり、見える者の通称名をおたずねになる。それぞれの番頭、それぞれの面々にいったところ、「その者の親は名誉があった者である。また彼の者の祖父は誉れの者であったので、お前達も親・祖父には負けぬよう。虎は生まれて三日目に牛を倒すという。そのように考えて、鍛錬せよ」と、いずれも野山或いは振る舞い帰り、機嫌がよろしいときはつねづねおっしゃっていた。
このようなお心のため、えこひいきによって処罰をなさることは若い頃からついに一度も無かった。たとえば悪事が起こったとしても、家中はいうに及ばず、他国の衆のいうことを聞いてもこれは十分道理が通っているということでなければ、改易や死罪といった処罰は軽率にはなさらなかった。実は非常にお腹立ちのことであっても、その理由に違いがあることはなかった。平常時はただただ情け深くあること仁愛を以てなされた。
またときとして、機嫌悪いときは、普段なで回しなさる我が子であっても、すぐに立つことができかけるほど、大人は身の毛をよだつほど、激しく言葉を発せられた。それゆえに、家老・奉行・頭人も奢ること無く、政宗の前は言うに及ばず、影であっても、家臣の作法は全く変わらなかった。
このように家中の者達が、家老・奉行・頭人に会うときは、目上の者を敬う習いであれば、頭を低くし、重々しく応対するが、その衆はかえって謙譲の心を先に立て、「無礼である」と言うことは一度もなかった。たとえ小姓であっても、即座に用をおっしゃり、人並みの者よりよく使えるとお思いになると、すぐに態度をはっきりとされ、その者の覚悟も格別である。
また日ごろ主従の作法についておっしゃっているので、なんの沙汰もないところに、お取り立てなされた方々も、このようなことは世にもまれな不思議なことであるともいう。
「総じて政宗は気性が激しく猛々しい者で、普段から武勇のみを重要視するので、神の明かりを拝み、仏陀を信じることは全くないのだろう」と世間の人は思っているが、あるときは禅寺に入って僧侶と禅問答をし、あるときは神の徳を仰いで武勇をいただくことを願う人である。
故に慶長十年、八幡宮を修造し、竜宝寺を建立して、これを当社の別当と定めた。修造のときの奉行は木幡木工介・真山式部・大工差引梅村日向(家次)、これは、紀州の者であったのを名工と名高い大工だったため、六百石にて抱ひ給ひ、その後加増を給わり千石となる。同棟梁三十郎(頼次)・刑部左衛門(国次)・鍛冶奉行岩崎隼人・棟梁雅楽介(吉家)によって、慶長宇十二年丁未八月十二日に遷宮した。当社の供養の尊師は、竜宝寺十一代目実済法印、供養奉行家老富塚内蔵頭信綱といい、同鎮守八幡雞沢山宝珠院と号す。
あわせて国分薬師堂建立、松島五大堂・瑞巌寺伽藍修造の建設も同年に行い、円福瑞巌寺開山性西法身と号した。

感想

「政宗がどのように家臣に接したか」ということを詳しく書いたものです。
・遊山にいくときの身分低い家臣たちへの応対
・狩りで手に入れた獲物を上級家臣たちによく贈っていたこと
・政宗は神仏など信じないと思われているが、そうではなく、禅問答や仏や神を信じ、大崎八幡宮などを造営したこと
について書かれています。
政宗が一般的には戦一辺倒のように思われていたけど、違う、という記述と、怒ったときは実の子であっても震えるぐらいに怒ったという記述がおもしろいです。

そういえば、『政宗記』後半の言行録部分が一部成実の筆によるものではないのではないかという説もありますが、「就中、親類へは当座山鷹の雉子、或は鉄砲の雁・鳧共、使者を以てそれぞれに給はりけり。」というところを見ると、ここの章はおそらく(一門衆である)成実が書いてるんだろうと推測できると思います。
多分ですが。