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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』9-6:政宗家来共取立給ふ事

『政宗記』9-6:政宗が家来たちを取り立てなさった事

原文

去ば若年より以来、我一代に家来共を取立、召仕ひ給ふ者ども、愚かなること一人もなし。其謂れを申すに、石母田大膳(宗頼)・中島監物(意成)・茂庭石見(綱元)・片倉小十郎(景綱)・山岡志摩(小成田重長)・津田豊前(湯目景保)・大条薩摩(実頼)・鈴木和泉(元信)・奥山出羽(兼清)・古田内匠(小梁川九兵衛重直)・屋代勘ヶ由兵衛(景頼)・佐々若狭(元綱)・馬場出雲(親成)。出羽死去の後は、弟大学介(常良)を取立、出羽跡目にし給へり。此の如く取立給ふ。其の中に何れか愚かならん。大膳は三の迫に指置給ふ、監物は小野田、石見は松山、後子共周防、小十郎は刈田白石、志摩は本の在城岩出山、豊前は佐沼、薩摩は丸森、出羽は岩沼、内匠は江刺岩谷堂、勘ヶ由は本の柴田、若狭は金津、出雲は作並、右之者ども政宗領分中にし、少地と云ども所々差置、家老分に召使、細なる奉公なれども落度なし。その外、家の親類(一門)・一家・一族、其昔よりの家来に於ては、所所の城主共は各別にて、是は先政宗一代に取立給ふ。其とき迄手水番の役人也。然るに、太閤秀吉公六十余州の主となり、日本国諸大名在京の筈にて、政宗其刻は岩出山在城の時、上洛ありて在京し給ふ。是に付て岩出山をば申すに及ばず、領分一宇留主居仕置きを屋代勘ヶ由に預け給ふに、家中の上下政宗同意に恐れをなす。勿論勘ヶ由も奢りたることもなく、物事正法に行こと斜めならず。其後仙台在城となりては、在江戸の留主居仕置等に至る迄、茂庭石見に悉皆を預け給ふ。家老奉行頭人迄も、何によらず政宗前の如く、恐をなして下知を背くものなし。如何なれば、取立給ふ、昨日今日の者ども、諸人思寄ことは、第一政宗威の強大将なれば、下の恐れも去ことなれども、詰る所は、聊人の目明上手にて御坐すと、家の者ども感じけり。世に聖智の君有て、然して後賢明の臣有と云へり。誠なるかな、何処にも其家々に取立給ふ家来衆、能者と一両人も名を呼ぶことは、古今珍しからず候へ共、是又取立給ふ十余人の者ども、軍の時代も小十郎(景綱)は云ふに及ばず、其外我一分の武勇数は、残る処なく、其後は扨天下安穏の時代と成ても、京・聚楽・大坂・伏見・江戸を懸けて袴の上の奉公愚かなることなく、一廉の用に立こと尋常ならず。去れば、憚りなれども、成実或は親類の端にて年寄ければ、取立給ふ根本を見るに、其中にも凡夫の昔糾せば成実式に列座も成ざる者ども迄も取立給ふ。其仕合に従ひ、立身の上或は奉行、或は頭人と成て、種々様々の奉公、二六時中附合けるに、礼儀正く一言を申すともうときことなく、物事伶利に行うこと斜めならず。斯くある処に、宮城の国分に薬師の立給ふ、彼別当真言宗にて、惣名を国分寺と云て、学頭・院主・別当とて、三ヶ寺なり。中にも司は学頭にて、三ヶ寺の塔頭、凡そ五十坊にも及ぶべきや。爾るに塔頭の中にも、草花木能なる出家あり。有時彼寺へ何者やらん四五人、見物の様に来て、住寺の秘蔵なる鉢木を一本を盗む。狼藉也と雖も、是非なくして取て逃る。扨も此寺に狼藉ありと喚る程に、住持も自身棒を取て出ければ、方々の坊中より坊主達棒を持て、逃けるものを或は投打或いは打叩く者も有と云ども能逃合、木をば無事に盗取る。然る処に、二三日相過、若者一人来て、住持へ御目に掛頼入度ことありと云ふ。旦那へ振舞にて他行なれば、留主居者出合、如何なる御用ぞと云ければ、「住持様八卦の御上手と承り、差当ることありて、御卜を頼入奉るべきため参りたるに、御他行にて手を失ふ、如何せん」と申す。留主居の者、住持帰りなば、其旨申すべし明日御坐せ」と申す。「さらば御留主居衆え、委しふ申し置ん」と云、「留主居とては我なり」と云と、いなやに腰なる刀を引抜、留主居の者を一太刀に斬倒し翔出しけるを「やれ狼藉あり」と喚りけれども暮方にて出家共のことではあり、行方知れずに失にけり。是に依て国分寺は、石母田大膳(宗頼)取次にて、幸ひ奉行なれば学頭先達、穿鑿有て給はれといへり。大膳相手の奉行へ穿鑿の仕様を評定しければ、折節政宗在国に御坐せば、「寺方のことといひ、只披露をなして何れの道にもせんさくは、仰せ次第に致すべし」と各申す。是に依て大膳披露をなす、政宗沙汰始終を聞給ひ、「狼藉は何者ならん」と宣ふ、大膳「右の木盗人ならん」と申す。「左もあるべし」と宣へば、重ねて大膳「木盗人一人ならざることなれば、黄金をかけ給ひても、たやすく見れ申すまじ」と申す、其とき以ての外色代り給ひ、「木を取たる者と思ながら、披露をなすは何事ぞ、予が聞て穿鑿せんと思けるや、愚かなる奉行也。能く心を定めて事の子細を承はれ、出家を俗より用ること何の為ぞや、釈迦より以来同じ人間が、学問をなして出家をとげ、人の未来を救はんと云、扨救はれんと多の俗者、是を頼む。又真言宗は同じ道とは云ながら、分て祈祷と云ふことをなして、現世迄で助けんといふ。之に加へて、出家を馳走すること右の両様云に及ばず、或下々曲事のときも、寺へ翔入或縄の上にて、死罪の者をも中途へ出て、衣をかけて助けんとす、其主人も事により、出家に免じて堪忍すること多し。其故に長袖とて、婀娜く花奢なるを以て、出家をば俗も敬ひ用るぞ、扨鉢木を取たる盗賊は、常の夜盗にはあらじ、悪人ならば什物金銀を盗取ん、然れば今後の木盗人は、坊主同前の花奢なる者、縦ば町人百姓にてもあれ、先此方の積りは予が扶持人ならん、然るに、花奢なる寺にて花奢なる盗を何ぞや永袖の棒にて打べき謂れなし、又打るる者は如何に、僻なる木にてもあれ、坊主に打たれ已に武士道は成らざる故に、其意趣を届けなん、扨も賢き奴原かな、是は出家本意を取失ひたる故也、然りといへども能折柄に他行して、其身の無道なる心を、留主居の者に譲り、命免れ仕合なり、去程に此儀をば、死損になせ」と宣ふ。故に大膳も気遣貌にて、政宗前を退く。扨其後、政宗別の用どもにて御坐すか、良有て「大膳早下りたるか」と尋ね給ふ。「次に罷在」と申しければ、召給ひ「如何に大膳此事其分にて納めなば、此吟味をば弁えずして、寺方の盗は穿鑿なく、今度も死損となり苦しからずと心え、徒者ども分国の寺々へ押込々々、明日にも狼藉必定也。今日より在々所々に到迄、寺々へ参り、金銀・什物・家財・道具は申すに及ばず、縦ば草花鉢木の類迄も、狼藉するに於ては、部類ともに死罪に行うべしと礼を建よ」と宣ひ、則ち札を相たつ也。

    寛永十三年丙子六月吉日
                        伊達安房成実

地名・語句など

什物:器・宝物
扶持人(ふちにん):俸禄を給して召し抱えている者
部類(ぶるい):仲間
長袖:(長い袖の服を着ている)公卿・僧侶などのことを嘲っていう言葉

現代語訳

お若い頃から、その一代で家来を取りたて、召使いなさった者たちのうちで、愚鈍な者は一人も居ません。その内訳をいいますと、石母田大膳(宗頼)・中島監物(意成)・茂庭石見(綱元)・片倉小十郎(景綱)・山岡志摩(小成田重長)・津田豊前(湯目景保)・大条薩摩(実頼)・鈴木和泉(元信)・奥山出羽(兼清)・古田内匠(小梁川九兵衛重直)・屋代勘ヶ由兵衛(景頼)・佐々若狭(元綱)・馬場出雲(親成)。奥山出羽が死去したあとは、弟の大学介(常良)を取りたて、出羽の後をつがせなさった。このように、取り立てなさった。この中に愚かな者がいるだろうか、いやいない。石母田大膳は三の迫におかれ、中島監物は小野田に、茂庭石見は松山に、のちにその子周防が後を継いだ。片倉小十郎は刈田白石に、山岡志摩は元の在城であった岩出山に、津田豊前は佐沼に、大条薩摩は丸森に、奥山出羽は作並に、以上の者たちは政宗の領内で、領地をわけられ、少ない土地であっても各所に差し置かれ、家老分に召し使われ、細やかな奉公であったが、落ち度はなかった。
その他、家の親類・一家・一族、その昔からの家来においては、ところどころの城主たちはそれぞれ別として、これらの者たちはまず政宗が一代で取り立てなさった。そのときまで手水番の役人であった者も居る。
ところが、太閤秀吉公が六十余州の主となり、日本国諸大名を在京と決められた。政宗はそのとき岩出山が本城であったが、上洛し、在京なさった。このため、岩出山はいうに及ばず、領内全体の留守居役を屋代勘解由にお預けになった。家中の家臣達は政宗に対するのと同じように敬意をいだいた。もちろん勘解由も奢ることもなく、物事を定め通りきっちりと行った。
その後、仙台を本城としたあとは、江戸の留守居役に至るまで、茂庭石見にことごとくすべての仕置きをお預けになった。家老・奉行・頭人までも、何事にもよらず、政宗の前にいるかのように、敬意を抱き、命令に背く者はいなかった。
このようであったので、昨日今日取り立てなさった者であっても、皆が思っていたことは、第一にも政宗は威厳のある大将であるから、下々がおそれるのも当然であるが、つまるところは政宗の人を見抜くことが上手であるからだと、家中の者たちは感心していた。
聖なる智を備えた君があれば、賢明なる家来があると一般にいう。それは本当に真実のことである。どこの家にも、取り立てた家来衆のうち、優れた者をひとりふたりをあげるのは、昔も今も珍しくないことであるが、このように取り立てた十数人の者たちが、戦の時代も、片倉小十郎は云うに及ばず、その他それぞれの武勇は数知れず、その後天下が落ち着き安穏の時代となっても、京都・聚楽・大阪・伏見・江戸をかけて、袴をつけての奉公が愚かでない事なく、ひとかどの役に立つこと尋常でない。
されば、恐縮ながら、成実は親類(一門衆)の端にあって年を重ねたので、そのお取りたてになる理由の根本を見ると、その中にも、凡夫でその昔問いただし、私が取り立てるならば列に並べることもない者までもお取りたてになった。
その巡り合わせに従い、出世したのち、或いは奉行、或いは頭人となって、種々さまざまの奉公を一日中見ていると、みな礼儀正しく、一言をいったとしてもぼうっとしていることがなく、物事をきちんと行うことは尋常ではなかった。
あるところに、宮城の国分に薬師堂があったのだが、その別当は真言宗で、名を国分寺といい、学頭・院主・別当と三つの寺があった。中でも一番上に立つのは学頭であって、三つの寺の塔頭はおよそ五十坊もあったであろうか。なので、塔頭の中にも、草花木をよく育てる僧がいた。
あるときその寺へ、何者であろうか、四・五人が、見物のようにきて、住職の秘蔵である鉢植えの木を盗んだ。狼藉であると言ったが、仕方なく取り逃がした。さてこの寺に狼藉ありと叫んでいると、住職自身も棒を手に外に出ると、ほうぼうの坊から僧たちは棒をもって、逃げてきた者を或いは打ち、或いは打ち叩いたが、よく逃げ、盗人は木を無事に盗み取った。
そうこうしているうちに、二・三日が過ぎ、若者がひとり来て、住職へ「是非お目にかけたいことがある」と言った。そのとき住職は檀家へ用事があって外に行っていたので、留守居役の者が応対し、「どのような御用か」といったところ、「住職様は占いが上手とお聞きしました。占って欲しいことがあるので、占いをお頼みするため来たのですが、外出してらっしゃるのでは、どうしたらいいでしょうか」と言った。留守居の者は「住職が帰ったならば、その事を言っておくので、明日またお越し下さい」と言った。「では御留守居衆様にくわしく言っておきたいです」と言ったので、「留守居役は私である」といったところ、男はいきなり腰の刀を引き抜き、留守居の者を一太刀に切り倒し、走り出した。「乱暴があった」と叫んだが、日暮れであり、また僧侶たちであったこともあって、犯人は行方しれずになった。
これについて国分寺は石母田大膳を取次にして、幸いかれが奉行であったので、学頭たちは取り調べをしてくださいといった。大膳は相手の奉行へ取り調べのやり方を決めていたとき、ちょうど政宗が在国でいらっしゃったので、「寺方のことであるし、ただご報告して、取り調べは仰せのとおりにするべきである」とそれぞれが言った。
これによって、大膳はご報告をした。政宗はいきさつをお聞きになり、「狼藉は何者だろうか」とおっしゃった。大膳は「先日の木盗人ではないかと思います」と言った。「そうであろう」と仰ったので、大膳は重ねて「木盗人は一人でないので、賞金をかけてもたやすく現れはしないでしょう」と言った。そのとき意外にも激しく政宗の顔色が変わり、「木を盗んだ者と思いながら、報告をするというのはどういうことだ。自分がそれを聞いて取り調べをしないと思うのか。愚かな奉行達である。しっかりと心を定めて事の詳細を聞き、出家した者を俗人より用いるのは何の為か。釈迦以来、同じ人間が学問をなしとげ、出家をとげ、人の未来を救おうといい、また救われたいと多くの俗人がかれらを頼みに思うのである。また真言宗は同じ道とはいうが、特に祈祷ということを行い、現世まで助けようという。これに加えて出家した者をもてなすのはその理由であるのはいうに及ばない。或いは下々の者が道理に背いたことしたときも、寺へかけいれば、或いは縄に縛られ、死罪にするべき者をも町中へ出て、衣をかけて助けようとする。その主人も事によっては僧侶に免じて我慢することが多い。それゆえに長い袖の僧侶であっても、浮ついて弱々しいのを以て、僧侶を俗人も敬い用いるのである。さて鉢木をとった盗賊は普通の夜盗ではないだろう。悪人であれば、器や宝物・金銀を盗み取るだろう。しかし今回の木盗人は坊主同然の弱々しい者——例えば、町人百姓であったとしても、まず今回の予想は私の家来であるだろう。なれば、弱々しい寺で弱々しい盗人を僧侶の棒にて打つべき理由はない。また打たれる者はどうであろうか。非常に愛した木であっても、坊主に打たれた者は、すでに武士道は成らない者であるがゆえに、その怨みを果たしたのだろう。さても賢いやつであろうか。これは僧侶達が自分たちの本来の意思を失ったためである。そうではあっても、ちょうどいいときに外出し、その身の道ならぬ心を、留守居の者に譲り、命を免れた結果である。であるから、この件を死に損にせよ」と仰った。なので大膳も心配顔をしながら、政宗の前を退いた。
さてそのあと、政宗の別の用のときにであっただろうか、しばらくあって「大膳はもう下城したか」とお聞きになった。
「次に居ります」と言ったところ、お召しになり、「大膳がこの事件をしっかりとおさめないのであれば、この念入りな調査をせずに、寺の盗人は取り調べなく、今度も死に損となり、良いと心得て、いたずら者どもが分国の寺々へ押し込み押し込み、明日にも乱暴をすることは必須である。今日から在所在所に至る迄、寺へ参り、金銀・宝物・家財・道具は言うに及ばず、例えば草花鉢木の類いまでも、盗もうとする者があれば、仲間とともに死罪にするべしと礼を建てよ」と仰り、すぐに札を立てさせたのである。


     寛永十三年丙子六月
              伊達安房成実

感想

政宗がどのように家来を取り立てたか、という記事です。
政宗の代で取り立てられた主要な家臣達の紹介と、その取り立ての様子を親類(=一門)である成実からの評してみせ、そして石母田大膳宗頼が国分寺で起こった事件をどう裁定し、政宗がどうそれを評し、結審したかを書いてあります。
……かいてありますが、申し訳御座いません、私も論理・意味がよくわかっていないところがちょこちょことありまして、ここ間違ってるぜーというところありましたらどうかご連絡下さい。
個人的には「片倉小十郎は言うに及ばず」が一番ツボですかね。仲いいナー(≧▽≦)。