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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』8-1:政宗上洛之事

『政宗記』8-1:政宗上洛のこと

原文

されば其比政宗上洛し給ひ、秀吉公へ御礼申し好るべしとて、上方より一左右なり。爾るに、浅野弾正少弼は其頃迄、未だ二本松に御坐す。故に、其旨弾正少弼へ問合せ給へば、「登り給ひて然るべし」といへり。其故に在城米沢の留主居をば、伊達成実に津田豊前を差副、御身は供侍三十余騎にて、天正十九年の辛卯正月二十一日に、在城を打立給ふと云ども、雪深くして信夫の大森へ、田舎道八十里なれども、漸く二日に着し、明る二十三日には、二本松を通り、弾正少弼へ参会し給ひ、二月十一日に京着し給ふ。去程に、秀吉公政宗宿を妙覚寺にと御諚にて彼寺へ着、秀吉公へ数度の御目見、御馳走の上色々拝領し給ひ、四五ケ月程在京御坐す。然る処に、「大崎・葛西の一揆退治のため、急ぎ罷り下れ」と上意に依り、六月下旬に米沢へ下着し給ひ、人数を催し、盆後に打立、刈田白石に五六日の逗留川猟をし給ひ、夫より黒川へ移し、七月二十四日に大崎の内宮崎へ働き給ふ、是に依て、小野田の城主石川長門降参、四竈の城主尾張も降人と成て、二人ともに宮崎への案内者となる。かかりける処に、城内より出向ける人数と、此方の先陣取組、内へ追入取付けれども、岸高ふして城よりふせぎければ、御方の者共鉄砲に当り、浜田伊豆を始め数多討死なり。夫故に竹把の掻楯にて仕寄、近陣にし給ひければ、叶ふまじとや思ひけん、城主民部、石川長門と四竈尾張を頼み、出城仕度と成実処へ訴訟に及び、其旨政宗へ申しければ、「一度思ひかけたるほどに、攻給ふべし」と宣ふ。「先此城をば出城にし給ひ、後木村伊勢守父子佐沼に籠城の事、天下に其隠れなし、然るに、彼佐沼へ今又一揆の徒党、籠城するを攻崩給はば、都迄の誉いかでか是にはまさるべき」と、成実申しければ、承引給ふ処に、何としたるやらん、其夜城内より火事出来して、案の外なる落城なり。故に落人とも再現なく搦捕て参りけるを死罪に行ひ、其頸都へ登せ給へば、秀吉公御感の上、御感状の事、
 今度奥州大崎之内、宮崎城江楯籠たる一揆原、城主民部始ことごとく誅罰令しむ、数百の首共、注文差添上らせ候事、下著以来余日無き処、即より働出かくのごとく義誠神妙到也。其方武勇並天下の外聞、是を過ぐるべからず。残降参の徒党共相済むべきと雖も。向後仕置きせ為め、尾州中納言差下候、家康同意談合せしめ、出羽・奥州の果迄も念を入れ、置目申しつかるべき事、なお木下半介申すべく者也、
  天正十九年辛卯        秀吉御判
            羽柴伊達主従殿
かかりけるに、佐沼の城へ押寄給へば、城主一栗兵九郎・同祖父の放牛・北郷道林・同苗左馬丞なんど云、一騎当千の者ども、町構より西曲輪迄押廻持けるを、攻候べしとて働給ふと云共、城もよく内は多勢とみへける処に、況や大崎・葛西一揆の城々満々ければ、御方の軍兵、損亡を労り、惣構を乗廻しみ給ひ、先竹把にて仕寄れと宣ふ、是に仍て惣軍処々より仕寄り、屏際迄取付。去程に政宗陣馬も、西曲輪の西の山にて、下に沼有て悪所也、沼と川との間には、茂庭石見、其東は片倉景綱陣を備ひ、何れも三日仕寄り蹴れば、四日目の暁西曲輪を持かね引込けるを押付に、一日一夜攻給へば、落城して左馬丞をば城内にて生捕、放牛・道林・士民に到迄、三千余討果し給へば、城中はさながら死骸計にて、土の色も見分たず、死骸の上を踏渡りけり。かかりける処に、城主彦九郎何と紛れけるやらん、其に欠落葛西の西郡と云処より搦め出され、左馬丞とともに死罪に行ひ、それより葛西の登米へ馬を移され、人馬の息を休め給ふ。而して後今より何地へ働くべしと宣へば、葛西の倒侍共、日来は政宗強敵なるを覚の前にて、降参なる故、其後は働も相止、右の首とも都へ上せ、秀吉公へ差上給へば、又重て感状に、
 去七日の注進状、今月二十六日到来、披見に加えし処、宮崎より時刻を移さず、佐沼城へ押寄、是又攻崩し、城主彦九郎とともに、二三千余討捕由、戦攻を抽し事祝着者也、猶浅野左京大夫・木下半助申すべく者也、
   天正十九年辛卯八月二十八日     秀吉御判
       羽柴伊達侍従殿

語句・地名など

一左右(いちさゆう):一度の便り。
竹把(たけたば):丸竹を束ねて作った楯の一種

現代語訳

さてその頃政宗は上洛し、秀吉公へ御礼申しあげるのがよいであろうと、上方より一報が入った。その頃浅野弾正少弼長政はその頃まで、まだ二本松にいらっしゃったため、その事を弾正少弼長政へ問合せなさったところ、「上洛する方がよいだろう」とおっしゃった。そのため、伊達成実に津田豊前(湯目景康)を添えて在城米沢城の留守居役をお任せになり、ご自身は供の侍を三十騎あまりを連れて天正十九年正月二十一日に米沢城をお立ちに成ったのだけれども、雪が深く、信夫の大森状へ田舎道八十里を通り、ようやく二十二日に到着し、明くる二十三日には二本松を通り、弾正少弼長政とお会いになり、二月十一日に京都へ到着なさった。
すると、秀吉公は政宗に、妙覚寺を宿にとご命令を下されたため、その寺へ到着し、秀吉公へ数度のご面会をされ、御馳走された上、いろいろと拝領され、四,五ヶ月ほど京都に滞在なさった。
そうしていると、「大崎・葛西の一揆退治のために、急いで下れ」とご命令に従い、六月下旬に米沢へ到着し、軍勢を集め、盆の後に出立し、刈田白石で五,六日の逗留をし、川猟をなさった。それから黒川城へ写り、七月二十四日に大崎領内の宮崎城へお働きなさった。このため小野田城主石川長門が、降参し、四竈の城主尾張も降参し、二人とも宮崎城への案内人と成った。
そうこうしている処に、城内よりでてきた軍勢と、味方の先陣が取り組み、内側へ押し入れ猶したけれども、岸が高く城から防いだので、味方の者たちが鉄砲に撃たれ、浜田伊豆(景隆)をはじめ多くの者が討ち死に下。そのため、竹で作った丸い楯をつけて近づき、陣を近くすれば突破できるだろうと思ったのだろうか、城主笠原民部、石川長門と四竈尾張を頼み、出城したいと成実の処へ訴えに及んだ。そのことを政宗に申し上げたところ、「一度、決めたことであるから、攻めるべきである」と仰った。「まずこの城を空にし、後に、木村伊勢守父子(吉清・清久)が佐沼に籠城していることが世間に知れ渡るだろう。そうしたら、そのさむ前いままた一揆の徒党が籠城するのを攻めくずしなさった方が、都までの評判が伝わるのではないでしょうか」と成実が申し上げたところ、何としたことだろうか、その夜城の中から火事が出て、意外な落城となった。そのため、落ちてくる者たちが際限なく捕らえてくるのを、死罪にし、その首を都へ遅らせたところ、秀吉公は感心し、感状を下さった。
「今度奥州大崎のうち、宮崎城へ立てこもった一揆の者共、城主笠原民部をはじめことごとく討たせ、数百の首を送らせたこと、下ってそれほど日にちもたっていないのに、すぐにこのような結果をだしたことはすばらしいことである。その方の武勇ならびに天下の評価は、是よりすばらしいものはない。残党の始末はほぼ終わったと云うが、尾州中納言(豊臣秀次)を差し下した。徳川家康も同意し、談合し、出羽・奥州の果てまでも念を入れ、置目を申しつけた。なお木下半助吉隆という者である。
 天正十九年七月十七日        秀吉
     羽柴伊達侍従殿                」

さて、佐沼の城へ攻めあがったならば、城主一栗兵九郎・その祖父の放牛・北郷道林・北郷左馬丞などという、一騎当千の者どもが、町構より西曲輪まで出てきて居るのを、攻めようと戦闘をしかけようとするも、城もよく、内側には多勢が籠城していると見えたので、大崎・葛西一揆の城々は、満員であったので、味方の兵を失うのを気遣って、総構をしき城を取り囲み、まず竹の丸楯を用いて、押し寄せろ、と仰った。このため、総軍はところどころより攻め入り、兵まで取り付いた。
ところで、政宗の陣場も、西の曲輪の西の山で、下に沼があって、場所が悪かった。沼と川との間には茂庭石見綱元が折り、その東には片倉景綱が陣を備えていた。何れも三日間攻め寄せたところ、四日目の暁、西曲輪が持ちかね押し込んだ処、一日中攻めたところ、城は落城して、左馬丞を城内にて生捕り、放牛・道林・士民にいたるまで、三千人余討ち果たしたところ、城の中はさながら死体ばかりで、土の色も見分けられないほどで、死骸の上を踏んで渡った。
そうこうしていると、城主彦九郎はどうやって紛れたのか、逃げて、葛西の西郡というところから連れてこられたので、北郷左馬丞とともに、死罪にした。政宗はそこから葛西の登米へ移動され、人馬をお休めになった。そしてあと、これからどこへ出撃するのかとと仰ったのだが、葛西の倒れた侍たちは、日頃政宗の強敵であるのを覚えているため、降参したのだから、そのあとは出撃も無くなり、捕らえた首を都に上らせ、秀吉公へ差し上げた処、また重ねて感状をいただいた。
「七日の書状が今月二十六日に届き、見ていたところ、宮崎よりすぐに佐沼へ押し寄せ、これもまた攻めくずし、城主彦九郎とともに、二,三千余りを討ち取り、戦功を引き出したこと、喜ばしいことである。
なお、浅野左京大夫幸長・木下半助吉隆はこれの担当とする。

   天正十九年辛卯八月二十八日     秀吉
       羽柴伊達侍従殿

感想

九巻が終わったので八巻に入ります。逆から訳していてすみません(笑)。
葛西大崎一揆で政宗に疑いがかかり秀吉に呼び出されて、また在国に戻り、葛西大崎一揆の後始末をしたころの話。宮崎城・佐沼城での戦闘状態です。数千人が殺され、土も見分けられないひどい状態であったことが記されています。