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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』8-2:関白公奥州御下向

『政宗記』8-2:関白秀次公の奥州への下向

原文

太閤秀吉公、奥州会津より上り給ひし後は、関白秀次公下り給ふ。是に付きて政宗、大崎より御迎に登られけるが、葛西大崎の本侍今度一揆降参の輩、秀次公御下向なるに、面々居ながら御訴訟は更に似合わず、只、深谷へ集りけれ、角て政宗二本松にて秀次公へ御目見の上、御両使にて一揆の起を尋ね給ふ。其品々を言上し給ひ、其上「葛西・大崎の要害とも多分抱へけるに、民に到るまで譜代なれば、縦へば御退治たりと云ども御六ヶ敷候らはん、去程に右の通りに申含め、深谷と申す在所へ集め差置けり、此上討果ける事は御諚次第」と上聞に達し給へば、「始めず行也、早々討果せ」との上意にて、泉田安芸に黒川の勢を差副、一揆の徒党二十余人討果、其首とも二本松へ差上給へば、塩に付都へ上せ給ひ、関白公は二本松より出羽の最上へ移し給ふ。家康も岩出山に御坐して、一揆の跡を再び直し給ふ。関白公へ付参らせし勢と、浅野弾正少弼は南部迄下り、奥州平均に納め給ふ。故に北は南部境、南は大崎・葛西・宮城・国分・名取・伊具・亘理、宇田の新地・駒ヶ峰、其外金山・丸森・金津・柴田を功に政宗拝領し給ふ。直に岩出山へ移し給ふ。其跡会津・仙道・米沢・伊達・信夫・刈田迄は、蒲生飛騨守拝領にて、関白公と家康は上り給ふ。是に依て政宗は国替なれば、米沢・伊達・信夫・仙道より何れも妻子を以引移す。政宗の在城をば岩出山をと定め、今度拝領の分領中、夫々に知行分をし給ひ、諸侍爰彼処へ有著給へり、されば辛卯の二月政宗京着の砌より、来る春には、高麗陣と唱ひけるが、下着有て米沢より大崎へ国替の刻は、右の唱必定ならんと申す。案の如く其暮に「来年は高麗陣」と触給ふ。秀吉公「政宗は遠国と云、扨一揆の跡へ国替成れば、彼是多勢にては成りがたし、惣て五百」との上意也。爾りと云ども、其体にては叶ふまじとて雑兵とも二千余用意にて、奥州模様上方へ相違なれば、見苦しからんと宣ひ、供侍の鎧或は諸道具以下に到る迄、都へ支度に上せ給ひ、御身は岩出山にて越年し給ふ。爾れども高麗への供侍には暇を給はり、面々我在所にての越年也。

語句・地名など

現代語訳

太閤秀吉公が奥州会津から上方へお帰りになったあとは関白豊臣秀次公がお下りになった。これに合わせて、政宗は大崎からお迎えに上られたが、葛西大崎の元の領主たちで、一揆で降参した者たちを、秀次公が下向するのに合わせての訴えはなく、ただ深谷へ集っていた。そして政宗は二本松にて秀次公へ面会なさったとき、使い出、一揆の起こりをおたずねになった。政宗はその詳細を言上し、その上「葛西大崎の要害にも多くの兵をかかえている上に、民に至るまで代々この地に暮らしてきた者であるので、たとえ秀次公が退治なさろうとしても、難しいことであるでしょう。なので、このように申し含め、深谷という処へ集め、差し置いてあります。これを討ち果たすか否かはご命令次第でございます」と申し上げたところ「どうして始めないのか。早く討ち果たせ」と命令にて、泉田安芸重光に黒川の勢を付き添え、一揆の頭目たちを二十人余りを討ち果たし、その首を二本松へ差し上げたところ塩漬けにして都へ送り、関白公は二本松から出羽の最上山形にお移りになった。関白公へつかせた勢と、浅野弾正少弼長政は南部まで行き、奥州を平らげ、納めなさった。
ゆえに政宗は、北は南部境、南は大崎・葛西・宮城・国分・名取・伊具・亘理、宇田の新地・駒ヶ峰、其外金山・丸森・金津・柴田を戦功として拝領した。じかに岩出山へお移りになり、その後会津・仙道・米沢・伊達・信夫・刈田までは、蒲生飛騨守氏郷が拝領し、関白公と家康は上方にお戻りなさった。
このため政宗は国替となったので、米沢・伊達・信夫・仙道よりいずれも妻子たちを呼び寄せた。政宗の在城を岩出山と定め、今回拝領した領土の、それぞれに知行し直し、家臣たちはそこかしこへ到着した。
さて天正十九年の二月の政宗が京都へ到着した刻から、来年の春には高麗陣(朝鮮出兵)だといわれていたのだが、国へ戻り、米沢から大崎へ国替えの刻は、前にいっていたことは決まったであろうと云われていた。その通りで、その暮れには「来年は朝鮮攻めである」とお触れなさった。
秀吉公からは「政宗は遠い国であるし、また一揆の後に国替えになった処であるから、なんだかんだいって大勢では難しいであろう。五百でよい」と命令があった。しかし、それでは格好が付かないだろうと雑兵を合わせて二千あまり用意して、奥州の様子は上方と違うので、見苦しかろうと仰り、供侍の鎧、諸道具などに至るまで、都で支度をさせるために上らせ、ご自身は岩出山で年越しされた。しかし、高麗へ連れて行く家来たちには暇を下さり、それぞれ自分たちの在所での年越しとなった。

感想

葛西大崎一揆決着から奥羽仕置、そして朝鮮出兵までの様子です。
政宗は直に岩出山へ移りますが、妻子をそれぞれ呼び集めたといいますが、このときには各地に居たんでしょうね。公式には、秀宗がこの年の九月に生まれています。
二本松は蒲生領となり、成実は角田へ封じられます。年明けには京都に向かって上っていますので、角田城で暮らしたのはこのときと、文禄四年の夏のちょっとだけぐらいでしょうか。