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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』8-3:政宗都立事

『政宗記』8-3:政宗が都を出立したこと

原文

去程に、其年天正は改元して、文禄と成たれば、政宗岩出山を立給ふに、屋代勘解由を領分一宇留主居と守め、さて御身は同元年壬辰正月九日に、在城を打立黒川へ着、七つ森にて鹿猟をし給ふ。かかりけるに、大崎・葛西は一揆の跡にて、未だ地下人どももありつかざれば、名取・国分・宮城・松山・深谷・黒川、都合六ヶ所の列卒共集り、同十日は山支配、十一日に猟し給ひ、三百余の勝負にて、供侍はいふに及ばず、岩出山の留主居に居りける者ども迄も、残りなく給はりけり。惣じて此山は森七つ続きければ、七つ森とは名付たり。扨其昔征夷大将軍源頼朝公、奥州発向秀衡子孫退治のとき、彼の山を猟給ふと云へり。山も詰りて一段景なり。かくて政宗十二日には休息し給ひ。翌日黒川を打立、其日は丸森に一宿し給ひ、夫よりも段々為て、二月十三日に京着有て、聚楽の屋敷へ入給ふ。同如月の中旬に、東西の諸大名衆へ陣立との上意也。故に聚楽の城へは、関白秀次公御留主居と定まり給ふ。是に仍て秀次公へ付き参らせし諸大名、加賀肥前守利家・池田三左衛門輝政・渡瀬小次郎・山内対馬・中村式部・田中兵部を始め、其外小名に至る迄付奉る。去程に、東西衆御積りを以て、先一番に小西摂津守、二番加藤主計頭、此外四国・西国の大名、段々に渡海なり。坂東の大名は同弥生の朔日より、罷立との仰せに付て、一番岐阜の中納言、二番浅野左京大夫、三番柴田藤五郎、四番木村日立、五番加藤遠江守、六番加賀筑前守、七番松平家康、八番政宗、九番佐竹義宣、十番長尾景勝、其外各上下ともに、甲冑を鎧ひ、聚楽の屋敷を打立、都出は戻橋を景勝屋敷の前より大宮通りなり。京中の見物群集をなす。政宗人数の出立には、證紺地に金の日の丸三十本證を指、衣装は無量のぢゅばんに赤裏、鎧は黒く前後に金の丸、弓・槍・鉄砲・大小ともに銀の熨斗張、小尻を広く櫂のなりに大刀の如くきつはに帯き、三尺あまりの金の鉾笠、衣装鎧は右に同じ。供侍の装束には色花なる鎧武者五十余騎、各黒母衣に金の半月のだし、馬は思ひ思ひ大総かけて虎・豹或は孔雀、或熊の皮、色々望の馬鎧を掛けて、太刀・脇差は金の熨斗張、其中に原田左馬介・遠藤文七郎大小は、何も並にて金の木太刀を一間半にして小尻と中に金物を打、糸にて盾へつりつけ帯なり。惣じて諸大名衆の下々は、はなやかなりしが、政宗宗人数は異表ななり迚、見物貴賤どよめき渡てさながら物の音も聞こへず。後聞けば、京中にて褒美の由なり。其夜は会と云所に寓り給ひ、翌日よりは家康・筑前守上下とともに鎧をば取納め、常の衣装にて筑紫の名護屋へ下り給へば、城の北は入江にて海を隔て陣取給ふ。政宗も其北に当て取給ふ。其より西は関東結城の陣場也。

語句・地名など

きつは(きっぱ):りっぱの意味か

現代語訳

さて、その年天正二十年は改元して、文禄元年となった。政宗は岩出山を立つ際に、屋代勘解由景頼を領内全体の留守居役と定め、政宗御自身は同年正月九日に、在城岩出山を出発し、黒川へ到着し、七ツ森にて鹿猟をなさった。
大崎・葛西は一揆の後であるので、いまだ百姓たちでさえ、うまく云っていないので、名取・国分・宮城・松山・深谷・黒川、計六ヶ所の背子を集め、同十日は山を支配し、十一日に猟をなさった。三百余の獲物を得たので、供の家来たちはいうに及ばず、岩出山の留守居にいる者たちまで全員のこりなく分け前をいただいた。この山は森が七つ続くので、七ツ森と名付けられた。その昔、征夷大将軍源頼朝公が藤原秀衡退治に奥羽へ向かわれた際に、この山で猟をしたという。山も詰まり、一段と景色が美しくなった。
そして、政宗は十二日には休息なさり、翌十三日に黒川を出立し、その日は丸森に一泊し、それからも徐々に旅を続け、二月十三日に京へ到着し、聚楽の屋敷へお入りになった。その二月の中旬に、東西の諸大名へ陣立てをせよとのご命令があった。
なので、聚楽の城は関白豊臣秀次が留守居役とお決めになった。このため秀次公へおつきの大名衆は、加賀前田肥前守利家・池田三左衛門輝政・渡瀬小次郎繁詮・山内対馬一豊・中村式部一氏・田中兵部義政を始め、そのほか、禄の小さな者に至るまで聚楽第詰めとなった。
そして、東西衆は前もって決まっていた通りに、まず一番に小西摂津守行長、二番加藤主計頭清正、そのほか四国・九州の大名がじょじょに渡海した。関東の大名は三月の朔日より、出発せよとの命令によって、一番岐阜の中納言織田秀信、二番浅野左京大夫幸長、三番柴田藤五郎、四番木村常陸小隼人、五番加藤遠江守光泰、六番加賀筑前守前田利家、七番松平徳川家康、八番政宗、九番佐竹義宣、十番長尾景勝、そのほかそれぞれ身分低い者も高い者も、甲冑を看にまとい、聚楽の屋敷を出発し、都をでるときは戻橋をすぎ景勝屋敷の前から大宮通りであった。
京中の見物人が集まっていた。
政宗の軍勢の出で立ちは、幟が紺地に金の日の丸の幟を三十本指し、衣装は六糸緞(むりょう)の襦袢で、裏は赤出会った。鎧は黒く前後に金の丸が付き、弓・槍・鉄砲・刀の大小ともに銀の熨斗をはったもので、鞘の末端のかざりを広く櫂のように、大刀の如くりっぱに佩刀し、三尺あまりの金の鉾のような笠を付け、衣装鎧は先ほどのものと同じである。供侍の装束には、華やかな鎧武者五十騎あまりが、それぞれ黒母衣に金の半月の模様が入り、馬は思い思いの大ふさをかけて虎・豹・孔雀・熊の皮などのそれぞれ望みの馬鎧をつけさせて、太刀・脇差しは金の熨斗ばりであった。
その中でも原田左馬助宗時、遠藤文七郎宗信の大小は、二人で並んで、金の木太刀を一間半(九尺)にして、末端と中に金物を打ち、糸で盾へつりつけて、佩刀したものであった。
総じて諸大名衆の家来衆は華やかであったが、政宗の軍勢は意表をついた姿であったので、見物している貴賤のものたちはどよめきが起こり、まるで、ものの音も聞こえない程だった。あとで聞いたところ、都中で褒められていたという。その夜は会というところにお泊まりに也、翌日からは家康・筑前守の家臣とともに鎧をば直し、常の衣装にて筑紫の名護屋へお下りになり、城の北の入り江のところで、海を隔て陣取なさった。政宗もその北部にあたるところに置かれた。それより西は関東結城氏の陣場であった。

感想

慶長二十年=文禄元年ですが、改元されたのが12/8ということで、秀次の関白就任一年を祝っての改元であるという説があるそうです。
正月を過ごして政宗は高麗の役のため京へむかいますが、『治家記録』では冒頭の日程がちょっと違います。詳細は省きます(笑)。
名護屋への出陣の陣立ての様子が詳しくかかれています。
とくに京の大衆に大ウケしたその陣立ての服装について念入りにかかれているところをみると、このときの伊達軍の様子は京の人たちの想像を超え、評判を呼んだもののようです。
ここで原田左馬助・遠藤文七郎の大太刀も人々の度肝を抜いたもののようです。
ところで最近ムック本などで原田と遠藤でなく、原田と後藤信康になっているものがあるようで、小説などでもそうなっているものがあります。後藤信康はほかの史料などからみても、どうも高麗には行っていないんですよね(多分名護屋にも行ってないっぽい? 詳細はこのあと風土病にかかって死んでしまう原田宗時の漢詩などからわかります)。
個人的に、どの本からこの後藤説が発生したのかが気になるので、載ってる本に心当たりなどありましたら、どうかお教え下さい。<(_ _)>