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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』8-4:名護屋喧嘩事

『政宗記』8-4:名護屋での喧嘩のこと(家康公利家衆水汲、名護屋に於いて喧嘩のこと)

原文

抑、其節喧嘩の起りは何事ぞと申すに、誠に纔の事也。子細は其年の六月に至て、あつかりけるに、家康公の陣場の下に清水の出けるを、筑前殿陣場も一二町も隔つべきや、彼水を汲多く出ざる也とて、家康方にて是を防ぐ。是非汲んといかりて、筑前殿衆聞て二人三人宛馳来る。家康方も走り寄、両方二三十人後には、三千余り宛になる。筑前殿衆に大身とみへける者は、一人も出ず。扨家康方は、本田中務(本多忠勝)を始め歴々衆十余人出て押ひけれども、双方矢をつがひ打物の鞘をはづし、已に突べき計りに上を下へと覆へす。若や急事も出来なば、天下の禍ひにも成べきやと、各申す程の喧嘩也。政宗陣場も近所にて、家康公へは分て二つなき御懇なれば、自然に悪事も出来なば、家康方にと言ばには宣はざれども、其色差見れければ、下々迄も其心掛也。爾る所に、家康公の足軽大将服部半蔵・渡辺半蔵と云二人、鉄砲二三百召連、喧嘩には構はず、筑前陣場の後相詰、事出来らば本陣へかかるべき気色なるを、政宗より家老の者ども二三人遣はし押へ給へば、漸々しづまり候ひぬ。又不思議に急事出ざる由、名護屋の風聞なり。爾して後家康・筑前陣場遠きとの上意に仍て、城の近所へ移し給ふ。されば政宗今年中、渡海有るべきかと思はれければ、左はなくして名護屋にての越年なり。かかりけるに、七月十七日に、筑前守の家来前田孫左衛門と申す人、伊達の陣場へ躍をかけけり。其唄に、

  名ごや御陣が花ならば折て一枝折て一枝国の土産に
  我は酒やの酒帘いかな闇にもいかな闇にも門に立候

と云唄なり。政宗此返しせよとの給ひ、何れも稽古相過、同二十日の夜返す筈にて、各装束して日の暮るを待ける処に、家康公の御内安部伝八と云ける者、柏原新八と云傍輩を、家康御陣場の前にて討てすて欠落しけるを、「若や御両人の陣場へ、彼狼藉者紛れ入事候はん、穿鑿有て給はるべし」と、筑前殿と政宗へ御頼みに仍て、其より続松を出し、方々陣中を尋ね廻り、躍支度も相止ければ、其後返しもなくして相過ぎける事。

語句・地名など

酒帘(さけはやし):酒林、さか箒。酒屋の杉葉を丸めた看板。
続松(ついまつ):ついまつ、たいまつ

現代語訳

そもそも、そのときの喧嘩のきっかけはどんなことだったかと云うと、本当にささいな事だった。詳細は、文禄元年の六月になって、暑かった処、家康公の陣場の下に清水がでる場所があり、筑前殿(前田利家)陣場も、一、二町と隔てずにあったのだろうか。この水を多く汲みあげ出なくなったと云って、家康方でくみ上げるのを禁止した。利家方はどうしても汲もうと怒って、利家の与力たちこれを聞いて二,三人ずつ走ってきた。家康方も走りより、両方二,三十人集まり、後には、三千人余りずつになった。
利家方の衆には大身と思われる者は一人もおらず、一方家康方は本多忠勝を始め、譜代州の十余名が出て、押し問答をしていたのだけれども、双方矢を弓につがえ、刀の鞘を外し、既に突くばかりに上に下にとごった返していた。
もしや急にことが起きれば、天下の禍にもなるのではないだろうかと、それぞれ云うほどの喧嘩であった。
政宗の陣場も側にあり、家康公に対しては特に二つとなき親しい間柄であったので、自然に悪いことが怒ったならば、家康方に味方をと、言葉には仰らなかったが、その様子は見て取れたので、家来たちまでもその心づもりで居た。
そうこうしている処に、家康公の足軽大将服部半蔵正成・渡辺半蔵守綱という二人が、鉄砲二,三百を召し連れ、喧嘩には構わず、利家の陣場の後ろへ詰め寄り、事が起これば、本陣へかかるつもりである様子なのを、政宗から家臣のものたち二,三を使わし、押さえなさったところ、だんだんと鎮まっていった。また不思議にも、急な事は起こらなかった理由は、名護屋の噂となった。その後、家康と利家の陣場を遠くにと上意が降りたので、城の近所へ移しなさった。
さて政宗は文禄元年中に渡海するよう命令があるかと思っておられたのだが、そうではなく、名護屋で年を越された。
そうこうしているうちに、七月十七日に、利家の家来前田孫左衛門という者が、伊達の陣場へ踊りを見せた。その唄は、

  名護屋の御陣が花ならば、一枝おりて国の土産にしてくださいな
  私は酒屋の酒林です。どんな暗い夜でも、門に立っていますよ

という唄であった。政宗はその返答をせよと仰り、何れも稽古をし、七月二十日の夜返す予定で、皆装束をつけて日の暮れるのを待っていたところ、家康の家来衆の内、安部伝八という者、柏原新八という同僚を、家康公の陣場の前にて討って捨て、逃げ出したという事件があり、「もし両人の陣場へ、この乱暴者が紛れ込むことがあるかもしれない。お調べ願いますよう」と、利家と政宗にお頼みになられたので、そこから松明を出し、陣中をいろいろ尋ねまわり、踊りの支度も中止になったので、その後返しもなくて、時が過ぎた。

感想

名護屋の陣場において清水の井戸を巡って起こった前田利家と徳川家康の喧嘩の話。…に政宗がどうかかわったかという視点でかかれています。
成実は「利家の方にはたいした身分のはいなかった」とかかいていますが、実際は名護屋の陣を真っ二つに分けた、大げんかだった模様で、本当に一触即発の事態だった模様です。
注目すべきはこの時点でもう政宗はこの二人が対立するなら、徳川方につく間柄であると本人も家臣たちもわかっているくらいの仲だったことですね。
あと後半不思議の踊りが不思議ですが、おもしろいですね。戦に行くのに、踊りの装束はきちんと用意して持って行って居るのだなあと。名護屋に全国の大名が集まるという非常事態、木村本にもくろんぼ切りをめぐる加藤清正との対決などがかかれていますが、いろんな出来事があったことでしょう。それぞれの威信をかけた場だったのだと思います。
政宗はこの年は渡海せずに名護屋で過ごしました。
酒林というのは、古い酒屋さんで玄関に飾ってある、杉の葉で作った丸い看板のような目印のようなあれのことだそうです。