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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』8-6:赤国合戦附政宗御感状

『政宗記』8-6:赤国合戦と政宗が感状を貰ったこと

原文

されば、去年壬辰に、四国・鎮西・中国の大身衆、黄海道・平安道・夷蘇海道・をらんかい迄斬随ひ、高麗人ども手と身に成て逃散ければ、其飯米を取て、今年癸巳四月迄は、各在陣なれども、其後我朝より飯米継かざる故、名護屋へ其旨言上なれば、さらば先都をば引除け、其より赤国へ取掛べき、其をいかにと云に、去年味方の勢ども、彼国へ押寄攻ける処に、城主木工蘇判官功の者にて、城内より石火矢を打せ、或は半弓或は砂を炒かけ湯をわかしかけ、扨萱に火を付投かけければ、寄手の者ども煙に哽て多く死しけり、故に叶はずして退ぞく処を、内より討て出、御方の軍兵大勢討れにければ、爰を以ての事也。去程に、今度都より引除ければ、味方の勢ども赤国へ直に押寄、攻崩せとの上意に仍て、浮田中納言・加藤主前計頭・黒田筑前守・戸田民部少輔・蜂須賀阿波守・安芸の毛利・浅野弾正・政宗・岐阜少将、其外各文禄二年七月十八日に、赤国へ押寄判官が城の軍兵三万へ取廻してぞ陣をとる。川の向南は毛利家の吉川・小早川也。都*1方の各即時に攻落さんとは思はれけれども、人数損亡なき様にと名護屋より上意に依て、十日余の在陣竹把を掻楯にして仕寄ければ、内にて忍びを気遣、石垣三間程に一つ宛続松を出し、終夜灯けり。是に付て加藤主計頭、鼈甲船を作らせ、其中へ人を乗て鶴の觜を入、石垣の際へ押寄こねけれども、大石なれば叶はざるに、内より焼草をかけ、鼈甲船をやき破られて、其後は牛の皮の毛の方を内へなし、鼈の甲へ張付押寄ければ、右の如く又やかれ、内に有かね三人出て、鶴の觜にてこね返しけるに、石垣くづれて二人いしにうたれて死しけるなり。夫にて政宗腰なる采幣を取て、手勢を押寄攻くづせと下知をし給ふ。其とき、惣軍取付攻ける程に、七月十九日に落城して、敵は皆川へ飛入る。川の向は吉川、小早川が人数を出せば、上る事も叶はず、川の下に瀬渡有と云ども、寄手の軍兵立切ければ、水に溺れて死し、或は瀬へ流れかかつて斬殺され、一人も残らず一万余を討果す。扨高麗人は、城を抱へ或は石火矢、或は半弓を射、用心の手だて迄にて、押詰合戦なれば、大小を差ざる故に、手を取るべきやふ更になし。かくて味方の惣軍、本丸へ取込蔵を見るに、氷蔵也、到て暑かりけるに、何とぞ其頃迄置たるぞと云に、囲の土を深くほり藁を敷上に柴を敷て、其上に水を一重置、又上も右の如くして幾重ともなし。七月の事ではあり、暑はあつし貴賤群集して服す。是は珍らしき儘の物語。されば思ひのままに続かざる也。去程に、地下人どもを有付、飯米出けるやふと、名護屋よりの上意に仍て、先釜山海の民どもを大形有付給へども、日本人を恐れ何を申しても偽りと計り心得、海道一筋をば随ひ給ふと云ども、四五里ともへだちぬれば、脇に耕作をば作ながら、それへ日本人行かかりぬれば早山へ逃散、味方の軍勢押働くにも、少くして跡明けるとそれを見合せ、山より下りて居ける故に、高麗陣は成かねけるとの風聞也。爾して政宗へ
 御感状の事
今度釜山海表に於いて、弾正父子難儀に及ぶ処、其方助け合い勝利を得し事、日本国中は沙汰に及ばず、三国に比類なき高名前代未聞に候、此上越度なき才覚専一也、
  文禄二年癸巳       秀吉
   八月十日         御判

   羽柴越前守殿
かかりけるに、伊達の家老原田左馬介、腫気を煩ひ釜山海にて死す。法名学一叟覚円居士。政宗是を哀に覚え、六字の名号を頭に六首の和歌、
 夏衣きつつなれにしみなれども別るる秋の程ぞ物うき
 蟲の音も涙催す夕ま暮淋しき床の起臥はうき
 哀れけに思ふにつれぬ世の習ひ、馴にし夢の別れおぞする
 みるからに猶哀れそふ筆の跡、今より後の形見ならまし
 誰迚も終には行ん道なれど、先立つ人の身ぞ哀れなる
 吹払ふ嵐にもろき萩の花誰しも今や猶まさるらむ

語句・地名など

石火矢:石や鉄・鉛などを発射する大砲
七月十九日:晋州城の陥落は正しくは文禄二年六月二十九日
越度=落ち度

現代語訳

さて、去年文禄元年に、四国・九州・中国の大名たちは黄海道・平安道・夷蘇海道・をらんかいまでを攻め従えて、高麗人たちは身一つになって逃げ去ったので、その食料を奪い、今年文禄二年の四月まではそれぞれ在陣していたのだが、その後日本からの兵糧米が到着せず、その旨を名護屋に申し上げたところ、ではまず都を引き退き、そこから赤国攻略に取りかかるべきと返事が返ってきた。
それはどうしてかというと、去年味方の軍勢がこの国へ押し寄せ、攻めた際に、城主である木工蘇判官が非常に戦上手のものであったため、石火矢を撃たせ、或いは半弓で射たり、或いは砂を炒ったものをかけさせたり、湯をわかしかけたりとよく戦った。また萱に火をつけて投げかけ、寄り手の者たちは煙にむせて沢山死んだ。そのため落城させられず退こうとしたところを内から討って出て、味方の軍勢が多く討たれたのはこの城のことである。
なので、今度都より引き上げるときは、味方の軍勢は赤国へ直接押し寄せ、攻め崩せとのご命令によって、宇喜多中納言秀家・加藤主計頭清正・黒田越前守長政・戸部民部少輔為重・蜂須賀阿波守家政・安芸の毛利秀元・浅野弾正長政・政宗・岐阜少将織田秀信、その他それぞれ文禄2年7月18日に、赤国へ押し寄せ、判官の城晋州城を取り囲んだ。
この城郭は岸が高くなっており、南は大きな河、三方は高さ7間余りの石垣が一段と急であった。寄り手の軍勢は三方を取り囲み、陣を敷いた。川の向こうの南側は、毛利家の吉川・小早川勢が陣取っていた。
味方の軍勢はそれぞれすぐに攻め落とそうと思ってはいたけれど、出来るだけ兵を失わないようにと名護屋よりのご命令出会ったので、10日ほどの在陣をし、竹のくくったものを楯として近寄っていたところ、内から、忍びの動きを心配し、石垣3間にひとつずつ松明を出し、一晩中灯していた。
この城を攻めるのに、加藤主計頭清正は鼈甲船を作らせ、その中へ人をのせて鶴の觜を入れ、石垣のきわへ押し寄せどうにかしようとしたけれど、石垣が大石であったため、失敗し、内から焼草をかけられ、鼈甲船を焼き破られて、その後は牛の皮の毛のある方を内側にし、鼈甲へ張り付け近づけたところ、同様にまた焼かれ、内にいられなくなった3人が飛び出たところを鶴の觜にてこね返していたところ、石垣が崩れ、2人が石に打たれて死んでしまった。
それを見て政宗は腰につけていた采配を手に取り、手勢を押し寄せ、攻め崩せとご命令を下しなさった。そのとき全軍が取り付き攻めたところ、7月19日に落城して、敵は皆川へ飛び込んだ。川の向こうは吉川・小早川が陣を敷いていたので、上ることが出来ず、川の下流に渡瀬の橋があったが、寄り手の兵たちが落としていたので、或いは水に溺れて死に、或いはほとりへ流れついて斬り殺され、一人も残らず、一万人余りを討ち果たした。
高麗人は城に籠城し、或いは石火矢、或いは半弓を使い、用心をしているだけで、攻め入って合戦になれば、刀の大小を差さないため、取るべき手がないのであった。こうして味方の全軍が本丸へ入り、蔵を見たところ、氷蔵であった。非常に暑かったのに、どうしてその時期まで氷が残っているのかというと、囲いの土を深く掘り、藁を敷き、上に芝を敷き、その上に水を重ね、それを幾重にも重ねてあったのである。7月のことで有り、非常に暑かったため、位の高い者も低い者も集まって口に含んだ。これは珍しいけれどもそのままの話である。しかし思いどおりには続かないものである。
なので、身分の低い者を呼び寄せ、兵糧米が出来るようにと、名護屋からのご命令によって、まず釜山海の民たちをたくさん呼びつけたのだが、日本人を恐れ、何をいっても嘘と思い、海道一筋を従えなさったといっても、4,5里と離れているので、海道脇で耕作を作りながら、そこへ日本人が通りかかるとすぐに山へ逃げ、味方の軍勢が戦闘をしても、兵は少なく、そこを明けると山から下りているため高麗の人の抵抗はもうないだろうと噂が立った。
このため政宗へ秀吉からの感状が下った。
「今度釜山海での戦闘において、浅野弾正父子が困難に陥ったところ、あなたがたが助け合い、勝利を得たこと、日本国中はいうに及ばず、三国に比べるものがない功名はこれまで聞いたことがないほどで有ります。この落ち度なき才覚は唯一のものであります。
 文禄2年8月10日 秀吉
  羽柴越前守(政宗)殿」
そうこうしているときに、伊達の家老原田左馬助宗時が、腫気をわずらい、釜山海にて死んだ。法名は学一叟覚円居士である。
政宗はこれを哀しく思い、南無阿弥陀仏の六文字を頭に入れた六首の和歌を詠んだ。
(和歌意味略)

感想

赤国合戦の様子です。『伊達日記』記事110:赤国合戦が相当します。
しかし肝心の政宗の合戦の様子より、氷蔵の話が詳しく長い気がするのは何故でしょう!(笑) 戦に関しては政宗が指揮したら勝ったってことしか書いてないし、日にちも間違ってるよ!(笑) 成実は気になったことは詳細に書き残すくせがあって面白いです。
ここで兵糧米が尽きていろいろ苦戦していることなどがかかれていますが、その諸大名の不満がその後の秀吉政権の瓦解につながっていくのですが…。
しかし政宗の赤国合戦での活躍は感状を貰うほどの褒められようです(他の家が貰った感状はどんななのかしりませんが)。

ここで哀しいことですが、伊達家の譜代家老原田家の当主左馬助宗時が死にます。哀しく思った政宗は南無阿弥陀仏の六字を入れた六首の歌を詠んでいます。宗時の死因は風土病とされています。
大崎八幡宮から出ている江戸学叢書11『政宗の文芸』で、この六首の歌の解説が詳しく載っていますが、政宗と左馬助宗時が衆道関係にあったのではないかと推測されているのですが、個人的にはありえるんじゃないかな…と思っております。だって歌の意味が。まあわかりませんけども。
一般的に流布しているもの(『治家記録』や政宗の歌を集めた『政宗卿詩歌要釈』やそれをもとにした書籍)と『政宗記』に載っているものでは細かな差違があるようです。これは左馬助好きの方と話しましたが、何故なのか詳しくはわかりません。→詳しくは原田宗時追悼歌エントリsd-script.hateblo.jp

あとここでは一万余りの敵兵が死んだことになっていますが、『成実記』での該当記事110:赤国合戦では、三千余り…となっています。あれ!? 『政宗記』盛りすぎじゃない?(笑)

*1:ママ