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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』8-7:名護屋御帰朝事

『政宗記』8-7:秀吉が名護屋からお帰りになったこと

原文

同八月、秀吉公御帰朝たりと云ども、四国・鎮西衆は未高麗に在陣して、釜山海近所に要害を三つ取立給ひ、其普請致せと上意也。扨中国より京東の大身計り、同年の九月に帰朝し給ふ。かかりけるに、秀吉公伏見を御隠居所にとて、天正の頃より取立給ふと云ども、高麗御希望の故やらん、急なる御普請にてもなく、連々の体也。去程に、名護屋へも聚楽より打立給ひ、両年の御在陣、聚楽へは関白秀次公を移し参らせ、夫より秀次公の御在城となる故に、秀吉公名護屋より直に伏見へ御幸給ひ、東海道より駿州迄の大名・小名、秀吉公へ付参らせ、天下は先御譲の分とみへたり。然りと云ども、未関白公御仕置の事もなく、聚楽におはす迄也。扨伏見の御普請をば、今度高麗より帰朝の、中国・京東の諸大名衆へ仰せ付けられ、今専ら取立給ふ。而る処に、高麗前に蒲生飛騨守氏郷、奥州会津に於て逝去し給ふ。其子藤三郎秀之若年にておはせども、内の家老蒲生四郎兵衛と申せし者、守立よとの上意に仍て、恙なき処に、氏郷の存生の時、和田利八兵衛と云小姓頭、程なく四郎兵衛と公事をし出す。家来衆様々取扱と云ども叶はずして、已に言上に及ぶ。八兵衛は島津兵庫頭へ預けられ、鎮西へ流罪に処せられる。かくて秀之家康公の御聟なれども、若年故此義乱国の瑞相なれば、先国を差上候へとて、纔十八万石給はり、関東宇津宮へ移し給ふ。されば右にも申す、秀吉公小田原御退治の刻、出羽・奥州押へのためと宣ひ、南は白川、北は刈田の白石を切に惣て百十五万石、氏郷拝領し給ひ、近江の本領十万石より会津へ移し給ふ、今宇津ノ宮へ国替にて、家来衆迄も本の不肖となりにけり。爾して後会津をば長尾景勝拝領有て、越後より移し給へり。爾るに秀之は浅野弾正少弼の与力、景勝は石田光成の与力なれば、両人ともに会津へ下、仕置致せと上意に付て下り給ふ。此時政宗へも、大崎・葛西の一揆の乱国を下され、間もなく高麗へ渡海なるに、旁国の仕置に罷り下れとの御諚に依て、弾正少弼と同道し玉ひ、白川にて行列し、弾正少弼は会津へ、扨政宗は岩出山へ下られける事。

地名・語句など

京東:京より東の東国勢をさすか
公事:訴訟

現代語訳

同文禄2年8月、秀吉公が御帰国なさったといっても、四国・九州の大名たちは未だ高麗に在陣し、釜山海の近所に要害を三つを取り、その普請をせよとご命令であった。そして中国地方から京より東の大大名たちだけが同文禄2年の9月に帰国なさった。
こうしている内に、秀吉公は伏見をご隠居所として使用しようと天正の頃より建築をお進めであったが、高麗征服を希望なさった所為であろうか、急な工事でもなく、ずっとゆっくりと工事が行われていた。なので名護屋へも聚楽第からご出発なさり、2年間の名護屋での在陣中は、聚楽第へは関白秀次公をお移しになり、それより秀次公のお城となった為、秀吉公は名護屋から直接伏見へお帰りになった。東海道から駿府までの大名・小大名を秀吉公へ服属させ、天下はひとまずお譲りになるのだと思われた。そうといっても、いまだ関白公が取り仕切られるようなことはなく、聚楽第にいらっしゃるだけであった。
さて伏見の工事を、今度高麗から帰国した中国地方・京都より東の諸大名衆へ仰せつけられ、今専ら工事をお進めになっている。
その折りに、高麗出兵以前に、蒲生飛騨守氏郷が奥州会津においてお亡くなりになった。その子藤三郎秀之(正しくは秀行)は若年ではあったが、その家老蒲生四郎兵衛郷安という者を中心に守り立てよとご命令なさり、つつがなく政務が行われていたのだが、氏郷がまだ生きていた頃に、和田利八兵衛(亘利八右衛門)という小姓頭が居たのだが、ほどなく四郎兵衛と訴訟を起こし始めた。家来衆たちはいろいろと手を施したが、不可能であり、ついに秀吉への訴訟となった。八兵衛は島津兵庫頭義弘へ預けられ、九州へ流罪となった。
このように秀行は家康公の婿であったけれども、年が若かった為、このことが国が乱れるきっかけであるから、まず国を差し出せと言われ、わずか十八万石を賜り、関東の宇都宮へ移された。
そして前にも言ったように、秀吉公が小田原攻めのときに、出羽・奥州を抑えのためといい、南は白河、北は刈田の白石をくぎりに全て百十五万石を氏郷が拝領することになり、近江の本国十万石から会津に移されたのが、今宇都宮へ国替えとなり、家来衆までも元のようにおろかな状態になってしまった。
そしてそのあと、会津を長尾景勝(上杉景勝)に下され、景勝を越後からお移しになった。秀行は浅野弾正少弼長政の与力であり、景勝は石田光成(三成)の与力であるので、二人とも会津へくだり、仕置をせよとのご命令によって、お下りになった。
この時政宗へも大崎葛西一揆で荒れた土地を下さり、暇もなく高麗へ渡海したので、それぞれ国の仕置のために下れとご命令になったので、政宗は浅野長政と同道しなさり、白河にて行列し、長政は会津へ、また政宗は岩出山へお下りになった。

感想

名護屋からの秀吉の帰朝、そして隣国蒲生家で起こったお家騒動(いわゆる蒲生騒動)の記述です。『伊達日記』では記事113:蒲生騒動(未掲載/掲載予定)に相当します。
その結果かつて蒲生氏郷に下された土地が上杉氏の所領となってしまいました。
葛西大崎一揆以来高麗出兵のために帰国できず、内政を充分に出来ずにいた諸国の大名たちが(一旦)国へ帰っていったことが記されています。
蒲生騒動は40歳で死去した氏郷の嫡男秀行がまだ13歳の若さであり、名護屋在陣ごろから発生した家臣団の分裂を抑えきれなかったから起こった騒動とされています。上では「言上に到った」を「秀吉への訴訟となった」と訳しましたが、実際は郷安が八右衛門を上意討ちとして斬殺し、家臣団は二つに分裂したようで、それを抑えるために秀吉が取り調べを行い、郷安を加藤清正に身柄を預け、会津から宇都宮へ大減俸となりました。
あれ?加藤清正?成実は島津義弘って書いてるよ?と思いますが、まあ他家の事ですし、詳しいことは伝わってこなかったのかもしれません。あと氏郷が死んだのも会津ではなく蒲生家の伏見屋敷だというのが定説ですが、それも違って伝わってますね。詳しくは下記リンク先参照。
蒲生騒動 - Wikipedia

wikiで見てみますと、会津若松92万石から下野宇都宮12万石となっています。
成実の細かい数字の覚え間違いはまあさておこう!よくあることだから!(笑)