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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』8-9:伏見出御附御最後

『政宗記』8-9:秀次の伏見出発とその最期

原文

去ば秀次公、聚楽を出御有て東福寺辺を御行給へば、大谷刑部少輔・増田右衛門尉出向奉り、御奥近ふ伺公して、「伏見にては以ての外なる御立腹也、此儘直に出御ならば、已に御命も危ふ覚へ候。申し兼たる御事なれども、御命には何か替り候べき、是より先高野へ御登山遊ばし、御野心なき通り御自筆にて仰せ分られ候はば、終には御和睦有べし」と申す。其時秀次聚楽よりの出御を御後悔の体なれども、早武士とも爰彼より打出、前後左右に打囲み奉り、高野山へ卅余人の御供衆も、方々へ押隔られ、御身近衆纔六七人付奉り、高野山へ御行給ひ、木食上人の許へ御輿入かけけるに、福島左衛門太夫・池田伊予守・福原右馬介、三人の御代官にて、同7月15日に高野の清眼寺に於て、御生害にぞ究まりける。されば関白公は、未上意の趣知し召れず、御菩提のためと宣ひ、奥の院へ御参詣の処へ、上人走参ると云ども、其旨申兼ければ、秀次公其色を知り給ひ、「如何に上人そこの程をば御推察也、心得たり」と宣ひ、即ち還御有て、御最後の用意はあさましきとも、中々申すに絶たり。爰に又哀れなる事どもには、山本主殿・同苗三十郎・不破万作とて、彼三人は、御目を下され御小姓、其外竜西堂・篠部淡路守以上五人、二世の御供と申す。秀次公「如何に汝共、多くの者の其中に、汝等計り附副是迄の志、最後の供は前世の宿縁とは云ながら、誠に神妙の至り也、然りと云ども、一度所領をも取せずして、一旦の楽しみもなく、空しく消果候事不便なり」との御諚にて、そぞろの御歎き、然して主殿を召て国吉の御脇指、三十郎へは厚藤四郎、万作へは鎬藤四郎を下され、「是にて潔く御供申せよ」と宣ふ。三人ともに頂戴して悦ぶ事斜めならず。次ぎに竜西堂を召て「和尚は長袖なれば何か苦しかるべき、都へかへりて予が永き世を吊へ」と宣へば、「こは口惜き事を宣ふものかな、御恩深き身なればこそ、是迄は附参らせけれ、今より何の楽有てか、命存らへ候うべき、出家なりとも自害せん」と申切てぞ極ける。扨彼僧は内典外典暗からずして辯舌人に勝れたれば、常に御前を離れ奉らず、御愛みの僧也、如何なる御縁を結び、出家の身として二世の御供迄、勤められける不思議也との取沙汰。次に篠部淡路守を召て、「汝御跡を慕ひ、遙かに来る志、後の世迄も忘れがたし、迚も予が介錯せよ」と宣ふ。淡路守畏て「御跡を慕はんずる輩、いか程か有らんずらん、其中に某武運に相叶、御最後の御供をだに有難く覚えければ、剰え御介錯との御諚、今世後世の面目何事か是に過ぎ候べきと」申す、去程に、三人の御小姓敷皮へ直って、関白公を見奉る。「君は未だ知し召ず候や、昔腹当世腹と申す事の有ぬ」と申す。秀次公「いや御存知なし、何の子細に依て、昔と当世分ちは有ぞ」と尋ね玉ふ。「その御事にて候、昔は我腹へ脇差の入次第にして、右の腋へ引廻すを専ら用ゆとなり、扨只今は漸五六分一寸の内外押立、気根次第に幾引も数を引を手柄として、是を当世腹とは名付たり、いざさらば某ども御先立、死出三途まで迎ひに出向奉る」と申す。秀次公「いみじう申したるものかな、御情の名残に全く人手には掛ず、三人ともに某介錯たまはらん」と宣ふ。「承り候」とてさらさらと押裸脱、一度に切けるを、御太刀を抜給ふかとみれば、三人の首は前へ落る。惜まるべき齢かな、山本主殿・同苗三十郎十九歳、不破満作十七歳なり。而して後関白公御手水嗽を遊ばし、御脇差と召れければ、三方にのせて奉上を取直し、思召の儘遊ばしけるを、淡路守御首を討奉る。三十一歳を一期と過させ給ふ、哀れ也し事ども也。竜西堂念誦し奉り、御死骸を取収め即ち我身も自害也。万づ事終わて後淡路守、関白公の御首を拝し奉り、「いかに検使の方々物定て聞給へ、主君に仕へ奉る者の二六時中、神や仏を祈り天命に叶ひ度と、信心を取けるも善悪は知らず、ケ様の事にも有や、死狂なる申事では候へども、人多き其中に某並には淡路一人附奉り、死出の御供をだに有難く覚けるに、御介錯迄相勤め何事か是に過候べき、善有ば悪来る、悪あれば善来る事は、定りなりと云ども、人間の迷にて大かた目の前の善計りを望むものにて候。今全盛なる旁は、是を悪とも見給へ、淡路に於ては主君の御恩を、命を以て報じ奉る事、日来祈りの天道に叶ひ、善也と念じて此如」と云ながら、一尺二三寸の平打なる脇差にて、前より後ろへ二刀突ければ、四五寸出けるを引抜取て直し、首に押当左右の手をかけ前へ、矢声を以て押ける程に、首は膝に抱ひてむくろは上に重りぬ。みる人耳目を驚ろかし、末代は知ず、前代にもためしなし、とぞ人々申ける。去ば木村常陸守親子・白井備後守・熊谷大膳・粟野杢介、其外各、都の辺土に推籠られて有けるが、爰彼処へ押かけ押かけ皆死罪に行れ候事。

  寛永十九年壬午六月吉日
                  伊達安房成実

語句・地名など

現代語訳

さて秀次公が、聚楽第をお出になって、東福寺辺りを行かれていたところ、大谷刑部少輔吉隆・増田右衛門尉長盛が出迎え、奥近くへ付き従い、「伏見にて秀吉公は想像以上にご立腹であらせられます。このまま直接行かれたならば、もう既にお命も危ないと思います。言いにくいことですが、命に替えることは出来ません。これからまず高野山へお登りになり、野心がないことを自筆にてお書きになりご説明されたなら、最終的には仲直りできることでしょう」と言った。そのとき秀次は聚楽第から出発してしまったことを後悔していた様子であられたが、既に侍たちがあちこちから出て、前後左右を囲み申し上げ、高野山へ御供するつもりであった30人余りの御供もほうぼうへ押し隔てられ、身近に従っていたものわずかに6,7人が付き従い、高野山へお行きになり、木食上人(応其)のところへ輿が入ろうとしたところ、福島左衛門太夫正則・池田伊予守秀雄・福島右馬介長堯の3人の代官の立ち会いにて同文禄4年7月15日、高野山の清厳寺にて、切腹になることに決まった。
秀次公はまだご命令のことをご存じなく、菩提を弔うためと仰り、奥の院へご参詣してらっしゃったところへ、上人が走ってきたのだが、そのことを申しあげかねていたところ、秀次はその様子をお察しになり、「上人、それくらいのことは想像がつく。分かった」と仰り、すぐにお帰りになって、最後の用意は驚くべき事に、中途半端に言うのがはばかられる。
さらにまたかわいそうなことには、山本主殿・同苗三十郎・不破満作といって、非常に目をかけて貰っていた小姓たちや、その他竜西堂・篠部淡路守の、五人が殉死をしたいと言った。
秀次公は、「多くの者たちのその中で、お前たちだけここまで付き添ってくれた志、最後の供は前世の宿縁とは言うが、本当にありがたいことだと思う。しかし、一度も所領を取らせたこともなく、少しの楽しみもなく、空しく消え果てることが可哀想である」とのお言葉にて、しみじみとお嘆きになった。そして主殿を召して国吉の脇差、三十郎へは厚藤四郎、万作へは鎬藤四郎を授け、「これでいさぎよくお供しなさい」と仰った。三人ともこれをうけとり、尋常でなく喜んだ。
次に竜西堂を呼んで「和尚は出家の身であるから、酷いこともないだろう。都へ帰って私の長い人生を弔え」と仰ったところ、竜西堂はこれは哀しいことを仰るのでしょう。御恩深い身であればこそ、ここまで付き従ってきたのです。これより先に命ながらえたところで何の楽しみが有ることでしょう。出家の身であるけれども自害します」と言い切った。さてこの僧は外国の書・国内の書に非常に詳しく、弁舌にも非常に優れていたので、常に秀次の側を離れず、愛されていた僧だった。一体どのような縁を結べば、出家の身でありながら次の世の御供まで勤めることを許されるのか不思議であると噂となった。
次に篠部淡路守を読んで「お前が後を追い、はるばる来てくれた志は後の世までも忘れがたい。私の介錯をせよ」と仰った。淡路守は畏まって、「後を追いたいと思う者はどれほど居ることでしょう。その中で、武運に叶い、最後の御供を許されるだけでも有り難く思うと言うのに、その上御介錯までさせていただけるとは、今世・後世においてこれに過ぎる名誉はございません」と言った。
そして、三人の小姓たちは敷皮へすわり、秀次を見、「秀次様は昔腹当世腹というものがあるのを御存知でしょうか」と言った。秀次は「いや知らぬ。どういうところが昔と当世は違うのだ」とおたずねになった。
「昔は自分の腹へ腋差しを居れすぐに右の腋へ引き廻すのが普通だったのですが、今はゆっくりと5,6分1寸を内へ外へ押立、気が続くまで何度も数を引くのがいいと言いまして、それを当世腹というのでございます。では私たちは先に出発し、三途の川で出迎えます」と言った。秀次は「なんということをいう者たちであろうか。その情けの礼に全く人に手にかけず、三人とも私が介錯してやろう」と仰った。
「分かりました」と三人はさらさらと裸になり、一度に腹を切ったところ、秀次は太刀を抜いたかと思うと、三人の首は前へ落ちた。山本主殿・三十郎は19歳、不破万作は17歳であり、惜しまれるべき年齢だった。
そしてのち、秀次公は手水とうがいをし、脇差を手に持ち、三方に乗せて奉上を行い、思ったようにされたところ、淡路守が首をお討ち申し上げた。31歳の一生であった。哀れなことである。
竜西堂は読経し終わった後、死骸を収めた後すぐに自分も自害した。全てのことが終わった後、淡路守は秀次の首を拝み、「検使の方々お聞きください、主君に仕え申し上げる者は一日中、神や仏を祈り、天命に叶うようにと、信心をするけれども、善悪は分からない。このようなこともあり死狂いのようなことではあるけれども、人が多く居る中に、私淡路が一人付きしたがい、死出の御供を出来ることを有り難く覚える上に、介錯まで勤めさせていただき、これに勝る光栄はありません。いいことがあれば悪いことが来て、悪いことがくればいいことが来ることは、世の定めであるというが、人の迷いによって、多くの人は目の前のいいことのみを望むものである。今全盛である方々は今回のことを悪いこととも見るだろうが、淡路にとっては主君の御恩を命を以て報いられること、日ごろの祈りの天道に叶い、いいことであると思うのである」と言いながら、1尺2,3寸の平打ちの脇差で、前から後ろへ二回ついたところ、4,5寸出たのを引き抜き、取って直し、首に押し当て左右の手をかけ前へ引き、矢声を出して押したので、首は膝に転がり、骸は上に重なった。
見たものは非常に驚き、未来はともかく、このような切腹はこれまで例がないと人々は言った。木村常陸守親子・白井備後守(白江成定)・熊谷大膳直之・粟野杢介秀用、その他それぞれ都から遠く離れた土地に押し込められていたが、あちらこちらへ押しかけ皆死罪にされたということである。

 寛永十九年壬午六月吉日        伊達安房成実

感想

いったんは伏見に向かった秀次が高野山に追いやられ、そしてそこで切腹するところです。三人の小姓、一人の僧侶、一人の家臣の死に様が非常に詳しく書かれています。
特に淡路守の死に様などはまるで物語のように詳細が書かれています。
ところで不思議に思うのは、この「他に誰も居ない状況」であろう主従のやりとりが、非常に臨場感をもって詳細が書かれていることです。この前の記事もそうでしたが、秀次事件に関しては『政宗記』の中でも非常に詳しい記述が残されており、まさか成実がその場にいたはずもありませんから、きっと広く伝わっていたのでしょう。
この、まるでやりとりを横で見ているかのように書ける能力、成実の筆力だと思います。
まあもしかしたらですが、秀次側に近い位置に伊達or成実がいたかもしれないという可能性はあるかもしれないのですが、政宗が岩出山に帰っているため、成実が岩出山帰国に付き添っていたら、それはありえないので、あとから聞いて書いたのかもしれませんが。
でも、逆に聞いて書いたからこそよくできた物語調に読めるのかもしれないです。

この時不破万作が自害に使用した鎬藤四郎は、再び秀吉のもとに戻り、形見分けとして政宗の手に入り、政宗は秀吉を偲んで大事にしたと伝わっています。政宗の死後忠宗によって幕府に献上されました。その結果二の丸の建築許可が出たという説も。