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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』7-3:政宗関東望附岩城武略事

『政宗記』7-3:政宗が関東侵略を望んだことと岩城の攻略

原文

されば、会津・仙道残りなく治め給へば、来春には佐竹へ馬を出すべきため、先岩城へ武略をし給ひけり。是に仍て岩城の臣下志賀閑長と云ける者へ、片倉景綱書状を以て、「累年岩城は隔て給ふ御中ならず、然りと云ども、近年佐竹・会津へ御一味の御首尾故か、伊達へ不和にて御坐せば、相互の家来衆心にかかり候、今より御和談希ふ」と申し遣はす。是を岩城の上下悦事斜めならず。「兎角小十郎に出会度」との返状にて、奥山と云処へ閑長・景綱出合いけり。其頃田村の小野と大越とは、岩城へ一味なるを、田村へ跡の如く返し付けられ、首尾能無事に相済みける事。

地名・語句など

現代語訳

さて会津・仙道を残りなく手に入れなさったので、来春には佐竹へ攻め入ろうとのご計画のため、まず岩城へ攻略をしなさった。このため岩城の家臣志賀閑長甘釣という者へ、片倉景綱の書状を以て「長年岩城と伊達は距離のある仲ではありません。ですが近年佐竹・会津へお仲間しておられたためか、伊達へ不和でいらっしゃいましたが、双方の家来衆は心配しております。今から和議を願います」と申し使わした。これを聞き、岩城の者たちは皆悦ぶ事尋常ではなかった。「とにかく小十郎に会いたい」との返事が来たため、奥山というところで閑長甘釣と片倉景綱は面会した。そのころ田村の小野と大越は岩城へ味方していたが、田村へ元のようにお返しなされ、首尾よく無事に決着した。

感想

さて次は岩城の攻略です。
双方かたくなな姿勢を見せていた須賀川の二階堂氏とは違い、片倉景綱を使い、和議を申込み、無事それが受け入れられ、首尾よく支配下に入れることに成功しています。
個人的には政宗が慕っていたという祖母の岩城氏栽松院のことが影響しているのでは…?などと思ってしまいます(完全妄想です)。