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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』7-7:秀吉公へ御目見の事

『政宗記』7-7:秀吉公へ面会なされたこと

原文

然れば秀吉公、御陣場は小田原一宇目の下なる山也。然るに、彼の山を要害に取立、石垣を仰せ付らる。故に御身も曲隶に腰を掛られ、扨御前には家康・利家を始め、各諸大名衆詰られける。其場に於て、政宗御礼仕り給ひ、即ち退き給ふを、秀吉公「政宗々々」と呼給ひ、杖にて「是へ々々」と宣ふ。其間遙か遠かりけるに、政宗中途に於て思ひ出し、腰なる脇差を抜、其にも置す其下に和久宗是居れけるに、日比念頃にて御坐し居ければ、宗是方へなげ給ひ、御前へ参り給へば、纔一間程に隔ち給ひ、小田原本城の方へ寄れ、向城の様体何方々々と御杖にて指御教なり。政宗も思ひ給ひし事ともを、残りなく上聞に達し給へば、秀吉公「其方奥州に於て、今迄に城の数を何程取たるぞ」と宣ふ。小地共にて言上す程の事には候はねども、御尋なれば是非無しとて、有の儘に「十四五乗取候」由申上られければ、秀吉公御顔を振給ひ、「扨も名誉の事ども哉、我は天命を以て天下を知事計也、城の事は似もせざる事也」と宣ひ、至ての御感にて、御前を立給ふ。斯て伺候の諸大名衆、政宗御前の催しを、一々見給ひ、「脇差の抜やう、扨御挨拶のふり、誠に悪びれたる気色もなく、田舎人なれども、聞及びたる程の者也」とて、褒美し給ふ由、和久宗是物語にて後に聞へ候事。御目見の二三日過て、秀吉公「政宗は遠国の旅路と云、其上山中の底倉に栖居、さこそは究窟に候はん、此頃の休息に大頭に、一曲舞せて承れ」と宣ふ。内外ともに忝く、日比念比し給ふ大名衆、一両人客に求め、其外旗本衆惣じて三十人余の客にて、大頭舞の亭主ぶり各耳目を驚かしめ、「遠国人にて近頃の御目見を、余りなる御念頃とこそ思ひしに、智恵才覚武勇ともに、世に勝れ、当座の座配、扨も見事なる男也、それを秀吉公只一目見給ひ、即よりの御念頃誠に有難き御事哉」と、大身小身に至る迄、何れも感じ給ふ事。

地名・語句など

一宇(いちう):すべて・残りなく
曲隶(きょくろく):寄り掛かるところを丸く造り、足を床几のように交差した椅子
大頭(だいがしら・だいかしら):幸若舞の一つ。天文年間に活躍した山本四郎左衛門を流祖とする。室町末期から江戸初期にかけて栄えたが、まもなく衰え歌舞伎に吸収される。

現代語訳

秀吉公の陣場は小田原すべてを一望できる山にあり、その山を要害にし、石垣を作られた。御自身も椅子に腰を掛けられ、その御前には徳川家康・前田利家をはじめ、それぞれ諸大名衆が詰められていた。この場所にて政宗が臣下の御礼申し上げ、すぐに立ち退こうとするところを、秀吉公は「政宗政宗」とお呼びになり、杖で「ここへここへ」と仰った。
その遙か遠い距離を歩くうちに、政宗は途中で脇差を持っていたことを思い出し、腰にしていた脇差を抜き、そこにも置かず、下座に普段から親しくしていらっしゃった和久宗是が居られたので、そちらへ投げ、秀吉の側へ近寄り、わずか一間ほどの距離になったところ、秀吉は小田原本城の方へ寄り、向かって城の様子をあれこれと杖を使って指さして、お教えくださった。
政宗も思っていた事をすべてお伝えなさったところ、秀吉公は「そなたは奥州において今までに城をどれくらい取った」と仰った。小さい土地であるので申し上げる程のことではないけれども、お尋ねならば仕方ないとありのままに「14,5取りました」と申し上げたところ、秀吉公は顔を振りなさり、「なんと名誉のことであろうか。私は天命を以て天下を治めることばかり考え、城の事は似もしない」と仰り、非常に感動して場を去られた。
そして側に居られた諸大名衆は、政宗の面会の催しをすべて御覧になり、「脇差の抜くやりかた、ご挨拶の振り、悪びれた様子もなく、田舎者ではあるけれども、誠に聞いていた評判通りの者である」といってお褒め下さったことは、和久宗是が語っていて私たちが後に知ったことである。
御目見えの2,3日あと、秀吉から「政宗は遠国からの旅路と言う。その上、山の中の底倉に住まわせたのはさぞ窮屈であろう。このごろの休息として大頭舞を一曲舞わせておくれ」と仰った。内にも外にも嬉しいことで、日頃仲良くしておられた大名衆を数名客に呼び、その他旗本衆を呼び、合わせて30人あまりの客を呼び、大頭舞の亭主ぶりは大名衆を非常に驚かし、「遠国の人で、すぐに面会をお許しになったのを、想像以上の手厚い対応と思っていたのに、知恵・才覚・武勇ともに非常に優れ、突然の仕切りも上手く、なんと見事な男であるかと、秀吉公がただ一目見てご理解なさり、すぐに目をかけて下さったこと、本当に珍しい事である」と身分の高い者から低い者に至るまで、みな感じなさったのであった。

感想

さて次は秀吉との面会です。
威圧のある面会と思いきや、非常に愛嬌のある秀吉像が見えてきます。もちろんこの場面に成実は同道しておりませんので、政宗のフィルター、のちに伊達家に仕えることになる和久宗是のフィルターが入っておりますので、秀吉に好意的ではありますが、非常にチャーミングな様子が見えます。
『木村宇右衛門覚書』に「秀吉は輝宗に似ていた」という一節がありますが、政宗にとっては秀吉は父のような存在であった一面があるのではないでしょうか。無茶ぶりするけど優しい父…というか。
成実がこれを聞いたのは、宗是が仙台に居た間でしょうか(まあ京都にいた間かもしれないですが)。和久宗是は三好氏・室町幕府・信長・秀吉に仕えた後、秀吉没後に来仙し、しばらく政宗に客分として仕えますが、大坂冬の陣に際して暇乞いをし、大坂の陣で出陣し命を落とします。
そして、本文によると慰みとして大頭舞の会をさせたことが書かれています。これ大頭舞を舞ったのがだれかがちょっと私にはわからないのですが(政宗に舞わせたのか?と思いましたが、「舞せて承れ」からすると秀吉か、秀吉配下の舞い手でしょうか?)、会の仕切りを政宗にさせ、その仕切りが非常に褒められたようです。入ったばかりの社員に場の仕切りをさせてその手腕を見るみたいな手は現在でも見られる光景かと思いますが、それがこの時代でも行われていたのかと思うと、今とあんまり変わりませんね(笑)。