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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』7-9:底倉矢田野欠落

『政宗記』7-9:底倉での矢田野の脱走

原文

仙道岩瀬の郡矢田野の城主、伊豆は須賀川へ一味たりと云ども、右にも申す彼地落城以来は、政宗へ懇望いたし、城の矢田野と大里と云両城ともに差上、本領三ケ一に成て会津に相詰奉公の筈也。故に矢田野をば破却し給ひ、大里は右の儘にて、小島右衛門を差置べしとの給ふ。かかりけるに、矢田野伊豆も、小田原参陣の供なりけるが、底倉におはす内、上使にて度々の御尋ねなれば、下々気遣ふ折を見合せ、缺落しけり、政宗「矢田野に下り、破却なれども彼地を抱ひけるや」と成実所へ早飛脚を下し、「若や矢田野へ下る程ならば、急ぎ押寄殺害せよ」と宣へども、矢田野は破却にて、地下人迄も彼地に居かね大里へ籠りけり。若や彼地へ下りけるかと疑ひければ、左はなくして小田原より直に、佐竹の陣場へ缺入、扨大里をば矢田野弟の善六郎相抱けり。是に付て昭光へ其旨申し遣、伊達・柴田・信夫・苅田の人数を差副、昭光近陣なれども、未だ落城せず。されば政宗小田原より、会津へ下着の宵に、又飛脚を下し、「小荒田隠岐を殺害せよ」と宣ふ、後隠岐右にも申す須賀川落城の後、成実を頼み訴訟に付て、召出し給ふと云ども、今又会津を渡し給ふに、此時の折を見合、矢田野が如く欠落ならば、いかがとや思はれけん、右の通りと聞へけり。是に仍て隠岐処へ、「明日は迎に出然るべし」と申しければ、「乗て出べき馬を持ず」と云、成実馬を借て中途へ出し、旗本の勅使河原木工丞死罪に行ふ事。

地名・語句など

矢田野(やたの):福島県岩瀬郡長沼町矢田野
大里(おおさと):福島県岩瀬郡天栄村大里
地下人(ぢげにん):官位を持たぬ者/庶民

現代語訳

仙道岩瀬郡の矢田野の城主、矢田野伊豆は須賀川へ見方していたが、政宗による須賀川落城以来は政宗に服従し、矢田野城と大里城を差し上げ、3分の1の所領になって、会津に従い奉公する予定であった。そのため矢田野城を壊し、大里城はそのままとして、小島右衛門を置けとご命令であった。
さて矢田野伊豆も他の新家臣たちと政宗の小田原参陣の御供として上り、底倉にいたのだが、上使として秀吉から度々のお尋ねがあったので、家臣たちがいろいろと心配する隙を見て、底倉の陣所を抜け出した。
政宗は「伊豆が矢田野に下り、破却済みの城であるけれども彼の地を占領するかもしれない」と成実のところへ早飛脚を下し、「もし矢田野へ下ったならば、急いで攻めて殺せ」と仰ったのだが、矢田野は壊されたので百姓たちも彼の地にいることができず、大里へ籠もっていた。伊豆はもしや彼の地に下ったかと疑われていたが、そうではなくて、小田原より直接佐竹の陣場へかけいり、その大里を矢田野伊豆の弟、善六郎が占拠した。
これについて石川昭光へそのことを伝え、伊達・柴田・信夫・苅田の手勢を付けて、昭光は近くに陣をしいたが、まだ落城しなかった。
政宗は小田原から会津へ帰る夜に再び飛脚を下し、「小原田隠岐を殺害せよ」と仰った。この隠岐は須賀川落城のあと、成実を頼んで訴訟に及び、召し抱えられた男で有ったが、今また会津をお返しになるときに、隙を見て、矢田野のように逃げ出したならどうなるだろうかとお思いになってこのように仰ったのだと聞いた。これにより小原田隠岐のところへ「明日は政宗たちの迎えに出なくてはいけない」と言ったところ「乗って行く馬がいません」というので、成実の馬を借りて中途へ出発し、旗本の勅使河原木工丞が死罪にした。

感想

会津の留守は結構大変だったよエピソードパート2です。
須賀川家臣である矢田野伊豆の逃亡、そして小原田隠岐の処刑(というか暗殺っていうか)です。
先の会津でのエピソードと共に、配下になったばかりの多くの家臣たちが秀吉からどのように政宗が安堵されるかを注視しつつ、身代を守るために裏切りをしようとしていた様子、また政宗がそれに対してどのように敏感であったかが伺われます。
ここから奥羽仕置がスタートしますが、どこまで政宗が本領安堵されるか、その後どうなるかが誰にとっても(政宗本人にも、家臣にも、他の家の家臣団である新家臣にも)心配事であり、それだけ皆追い詰められていたことがよく分かります。