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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』7-11:秀吉公奥州下向附大崎・葛西一揆事

『政宗記』7-11:秀吉公の奥州下向と大崎葛西一揆のこと

原文

去ば秀吉公、北条氏政へ「其方自害ならば、子息氏尚をば出城させん」と宣ふ。故に氏政切腹し給ひ、小田原一宇落居の上、秀吉公会津へ下向し給ふ事、其聞こへに依て、政宗米沢より御迎に出給ひ、宇都宮まで御目見なり。かかりけるに、秀吉公俄なれども、囲を遊し、政宗へ御茶下されけるに、片倉小十郎をも相伴にと宣ひ、御手前にて御茶を戴き、景綱冥加を開く。然して後南部へ勢を遣し給へば、政宗も急ぎ罷下れど上意に付て、先へ下り給ひ、先米沢へ帰り、人数を催し給ふ。斯て秀吉公、会津へ程なく下向有て、扨会津・仙道残りなく、蒲生飛騨守氏郷へ下さるる。大崎・葛西をば木村伊勢守拝領にて、二本松を通り給ふに、成実所へ鷂を所望なり、一居据わしめ、油井川迄追掛、参会の上進じければ、伊勢守申されけるは、「今度大崎・葛西を拝領致し、下りければ、彼地鷹所と承て候程に、やがて二居にて返進せん」と云へり。「此鷹秘蔵なれども、進しければ、重ねては大鷹にて返し給ふ*1」と、座興を申し互の暇乞にて罷帰る。然るに、浅野弾正・石田治部少輔光成、奥州葛西の登米へ着給ふと聞へ、政宗も米沢を打立給へば、上方勢南部へ下る。これに依て政宗南部の九の戸へ下玉へば、上方勢彼地攻落し上り給へり。故に政宗八町目迄上り給ひて、光成と弾正を送り、夫より米沢へ帰り給ふ。かかりける処に木村伊勢守、大崎・葛西十二郡拝領して俄の大身なれば、人々所領を取んとて、或は諸国の牢人、或は上方大名の家中に暇を乞、其外逃隠れ皆人に成んと心得、付添下りて奉公也。去程に、伊勢守在城には登米をと定め、子息弥一右衛門をば、大崎の古川を在城とし給ふ。されば大崎・葛西の歴々なる本侍を押のけ倒し、小者四五人漸十人とも持たる者をば、能事にして所領に出し、俄に取立所々の城を持せければ、其城主とも郎等をも持ざる故に、小者中間誠に荒子の様成者を召抱ひ俄侍に作り立、扨其俄士ども本の斃侍或は百姓等の許へおし込おし込米を取、剰へ下女下人、或は本侍の娘等に至る迄、我女房にと奪取て、あらゆる悪行なれば、本侍扨百姓ともに、明日の弁もなく当座に無念を致し、先栢山と云処にて一揆を起し、上方衆討果しけりと、葛西の気仙、或は東山へも聞へ、彼処も蜂起しければ、伊勢守是を聞て、子息弥一右衛門へ談合のため、父子ともに中途の佐沼に出会しけるに、迹の登米も扨弥一右衛門居城の古川迄蜂起して、大崎・葛西残りなく、皆一揆を起しければ、父子ともに我在城へ帰る事叶わずして、中途の佐沼へ籠城なりしを、一揆の輩彼地を取巻、近陣になし、剰へ登米・古川の留主居に置ける上方衆を皆討殺し、若や助る者とては、小者づれの達ばかり、其も裸になして追出しければ、むしろや薦に身をくるみ、漸命限りに逃登る、去程に下り給へる大身衆、上り給ふに是を見て、足早になり給へども、弾正少弼は此乱を白川にて聞給ひ、二本松へ取て返し、逗留在て米沢へ、浅野六右衛門使者として遣し給ふは、「大崎・葛西一揆の由、急ぎ下り給ひ、徒党の罪人原定め給ひて然るべし、其旨蒲生飛騨守氏郷へも、申し遣す」との給ふ。是に付て、政宗四五日の支度にて、六右衛門と同道し給ひ、宮城の利府へ打て出、氏郷出給ふを待給へば、近々罷下らんと、氏郷より政宗へ飛脚なり。然して後下り給ふと聞へ、政宗は黒川へ移し給へば、氏郷は松森に在陣し給ふ。故に氏郷黒川へをはして働の次第、先づ評定究り松森へ帰り給ひ、一日休み、翌日大崎へ打出働き給ふ事。

地名・語句など

囲(かこい):茶室をもうけること
八丁目(はっちょうめ):福島県信夫郡松川町
登米(とよま):宮城県登米郡登米町
古川(ふるかわ):古川市→合併後大崎市
荒子(あらしこ):雑兵・小者
栢山(かしやま):岩手県胆沢郡金ケ崎町長沢の内。旧葛西領。
気仙(けせん):岩手県気仙郡
東山(ひがしやま):岩手県東磐井郡
佐沼(さぬま):宮城県登米郡迫町佐沼
利府(りふ):宮城県宮城郡利府村
松森(まつもり):宮城県宮城郡泉町七北田松森
弁(あずまひ):思慮を働かせて善し悪しを見分けること/分別・わきまえ

現代語訳

さて秀吉は北条氏政へ「そなたが自害するならば、子息氏直を出城させてやろう」と仰った。そのため氏政は切腹なされ、小田原全部が落城のあと、秀吉公が会津に下向なさることが知らされたので、政宗は米沢から迎えにお出になり、宇都宮まで行って面会なさった。
このとき秀吉は突然茶会を催し、政宗へ御茶をくだされたのだが、片倉小十郎景綱も一緒に付き合えと仰り、御自身の手で立てた茶をいただき、景綱はその恩恵を賜った。
そして後南部領へ兵を使わされたので、政宗も急いでくだれとのご命令により、先へ行き、まず米沢へ帰り軍勢をお集めになった。そして秀吉公は程なく会津へお着きになり、会津・仙道は残らず蒲生飛騨守氏郷に下されることになった。
そして大崎・葛西を木村伊勢守吉清が賜ることになった。二本松をお通りなさるときに、成実のところへ鷂を望まれたので一居連れ、油井川まで追い掛け、面会の上贈ったところ、伊勢守吉清は「今度大崎・葛西を拝領し、下りましたところ、彼の地も鷹の名所と聞きました。そのうち二居にしてお返しいたしますね」と言った。「この鷹秘蔵のものでありますが、お贈り致しますので、今度は大鷹にしてお返し下さい」と冗談をいい、お互い挨拶をして帰った。
そして浅野弾正長政・石田治部少輔三成、奥州葛西の登米へ到着なさったと知らせがきて、政宗も米沢を出発し、上方衆の軍勢は南部領へ下った。そのため政宗も南部領の九戸へくだったが、上方勢は彼の地を攻め落とし、帰り始めた。そのため政宗は八丁目城まで行かれ、三成と弾正を見送り、それから米沢へお帰りになった。
そうこうしているうちに木村伊勢守吉清は大崎・葛西十二郡を拝領して急備えの大大名になった身であったので、人々は所領を取ろうとして、或いは諸国の牢人、或いは上方大名の家臣で、暇乞いをした者などが逃れかくれて皆所領を持ちたいと思い、下ってきて奉公していた。
木村伊勢守吉清は登米を在城と決め、子息の弥一右衛門清久を大崎の古川を城とお決めになった。そして大崎・葛西の古い本侍を押しのけ倒し、小者4,5人やっと10人ほどを持たせることができる者に所領を出し、急に取り立て、ところどころの城を与えたところ、その城主たちも郎等すら持たないため、小者や中間に、荒々しいごろつきのような者を召し抱え、俄侍にしたてあげ、その俄侍たちはかつて侍であったが敗北して帰農した者たちや、百姓たちのところへ押し込み押し込み米を取ったり、下女下男を奪い取ったり、また元々の侍たちの娘に至るまで自分の妻にしようと奪い取ったりして、あらゆる悪行をした。
そのため、元侍で百姓となった者たちが明日の見極めもなく、現在の無念をなげき、まず柏山というところで一揆を起こし、上方衆を討ち果たしたと葛西の気仙、または東山へも伝わり、これらの土地でも一揆が起こった。
吉清はこれを聞いて子息弥一右衛門と相談するため親子ともに途中の佐沼で面会したところ、後にした登米も、また弥一右衛門居城の古川でも蜂起し、大崎・葛西は残りなくみな一揆を起こしたので、木村父子ともにそれぞれの城へ帰ることが出来なくなり、途中の佐沼で籠城していたのだが、一揆の者たちが佐沼を取り巻き、近くに陣をしき、登米・古川の留守居に置いた上方衆をみな討ち殺し、助かる者は小者を連れた者太刀ばかりで、それも裸になって追い出され、むしろやこもに身をくるみ、命だけになってようやく逃げ上るような状況になった。
お下りになった大名衆が上った時にこれを聞き、お急ぎになったが、浅野長政はこの乱を白河において聞き、二本松へ引き返し、逗留になって米沢へ浅野六右衛門を使者としてお伝えになったのは、「大崎・葛西一揆のこと、急いで下りになり、徒党を組んでいる罪人たちを捉えなさい、その旨蒲生飛騨守氏郷へも同様に申し使わします」ということであった。
このため政宗は4,5日で支度し、六右衛門と同道し、宮城の利府へ出て、氏郷がくるのをお待ちになっていたが、近々下ると氏郷から政宗へ飛脚がきた。ではその後下ると知らせがきたので、政宗は黒川へお移りになり、氏郷は松森に在陣なさった。そして氏郷は黒川にいらっしゃって、戦の詳細をまず相談したあと、松森へお帰りになり、一日休み、翌日大崎へ出陣なさった。

感想

北条氏政の切腹により小田原攻めが終わり、今度は奥羽仕置きが始まります。宇都宮を経由して会津へ下った秀吉は、会津で奥羽仕置をし、政宗は会津・仙道の新領地を全て失うことになり、それが氏郷に、大崎・葛西十二郡は木村伊勢守吉清・弥一右衛門清久父子に与えられることになります。
木村伊勢守吉清は元々荒木村重の旧臣で、光秀→秀吉に仕えた人です。
Wikipediaの木村吉清の項→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%90%89%E6%B8%85
成実は、木村吉清・清久親子の家臣の横暴から大崎葛西一揆の発端となったと記しています。その真偽はともかく(笑)、非常にドタバタとした間の出来事で、上方衆も政宗たちも非常に落ち着かない状況であったことは確かでしょう。
えっとその一揆メインのマジメな話はさておき、成実ファン的に、この章の木村吉清に対する成実の鷹ジョーク、ちょっと面白いと思っています…。「2居にして返しますね」→「大鷹にして返して☆」っていう冗談(を言ったつもり)なのが…!(笑)
私もはじめて知りましたが、鷹や猛禽類は他の鳥類の様に「○羽」ではなく「○居(もと)」で数えるらしいです。居というのは鷹を入れる箱のことだとか。

*1:仙台叢書版では「給へ」